第4章22節

【22-1】

翌日の10時過ぎに、梶本の兄から研究室に連絡があり、今日の午後にこちらの警察署に出向いて妹の捜索願を届け出るとの連絡を受けた。彼女の兄は都内に勤める会社員で、午後から会社を休んでこちらに来るようだ。

「この度は恭子のことで、大学の皆様方には大変ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございません」

梶本の兄が、電話口でそのように丁重に詫びの言葉を口にするので、永瀬は返って恐縮してしまった程だった。

そして林海峰(リンハイファン)から永瀬に連絡があったのは、梶本の兄からの電話があってから30分程経った時だった。

林は電話口に出た永瀬に向かって、

「永瀬先生。本日の午後5時以降で構いませんので、お時間を頂けませんか?」

と唐突に言う。そして永瀬の返事を待たず、

「一緒に行って頂きたい場所があるのです」

と続けた。永瀬が理由を聞くと、

「それはお会いしてからご説明します」

と、取りつく島もない。永瀬が返事を躊躇っていると、

「では5時にお迎えに来ますので、よろしくお願いいたします」

と言い、さっさと電話を切ってしまった。

しばらく呆然とした永瀬は、既に自分には行かないという選択肢が残されていないことに気づき、思わず深い溜息をつく。何かまた、恐ろしいことに巻き込まれそうな、物凄く嫌な予感がしたからだ。

――そもそも、平凡な一大学教員である自分が、何故これ程までに非日常的な出来事に巻き込まれなければならないのか!

永瀬はことの理不尽さを思い、だんだん腹が立ってきた。

――林海峰が来るまでは、人間の精神世界に住まう<神>などとは、全く無関係な人生を送っていたはずなのに、今のこの事態は何だというのだ!

彼はそう思って一人憤慨するが、それで事態が好転する訳でもなかった。


***

その日の夕刻、永瀬は林に連れられ、M町にある古いビルの前に立っていた。

時刻は6時に近かったが、まだ夕暮れというには程遠く、強い西日が容赦なく照りつけて来る。おそらく今いる場所は、箕谷のマンションから徒歩圏内にあると思われたが、ここに連れて来られた理由が、永瀬には全く思い当たらなかった。大学からこの場所まで来る間、林が終始難しい顔をして無言でいたので、理由を聞くことすら出来なかったのだ。その表情は、永瀬が話しかけるのを思わず躊躇ってしまう程厳しかった。彼が来日してからの期間は短いとは言え、この様な表情を見るのは、恐らく今日が初めてだった。

その林が漸く口を開いた。

「永瀬先生、ご足労頂いて大変申し訳ありません。このビルは、所有者がつい最近破産したため、現在銀行が差押さえの手続を取っている物件です。所謂廃ビルです。破産してからそれ程時間が経っていないためか、電気やガスはまだ止められていませんので、身を隠すには格好の場所です」

「身を隠す?」

「そうです」

肯いた林は、永瀬を見つめた。

「誰が身を隠していると言うんですか?」

永瀬の質問に対してストレートには答えず、林は状況を説明する。

「昨日研究室を辞してから、私は教団員を動員して、この付近での情報収集に当たりました」

「情報収集?」

「そうです。昨日島崎さんからお聞きした情報が気になったものですから、この付近で噂話を集めさせたのです」

「例の頭が二つある怪人とかいう話ですか?いくら何でもそれは…」

「信ぴょう性に欠けると仰るのですね。その通りかも知れません。しかし私たち九天応元会(きゅうてんおうげんかい)は、ベンジャミン・トーラスという実例を知っています。そして過去に発生した別の事例も。ですので私は、その噂を単なるフィクションとして看過すべきではないと考えました。そして調査の結果、いくつか興味深い噂話を拾うことが出来ました」

「興味深い話ですか…」

永瀬は相変わらず懐疑的だったが、林は気にせず続ける。

「一つは島崎さんが仰っていた、人が怪人によって拉致されたという話です。かなり尾鰭のついた話でしたが、情報源と思われる人物が特定できました」

「情報源ですか。しかしよく半日足らずの間に、そこまで辿り着けましたね」

「我が教団は、そのような巷間の噂を収集することに長けているのですよ。様々な階層に教団員がおりますから」

「…」

林はそう言って微笑したが、永瀬は少し引いてしまった。彼のバックにいる教団の在り様に、少なからず恐怖を覚えたからだ。しかし林はそんな永瀬の様子には頓着しない。

「その方は、この付近をテリトリーとする、『がんちゃん』という愛称の、路上生活者の方でした。その方が数日前に、この付近の工事現場から、一人の男性らしき方が拉致されるのを目撃されたそうなのです。そしてその犯人と思しき人物が、双頭を持つ怪人だったと主張しているそうなのです」

「路上、ホームレスの方ですか。しかし、こう言っては何ですが、その方の話は信じられるのでしょうか?」

「路上生活者の話だから、信用できないというのは偏見ですよ、永瀬先生」

そう永瀬を嗜めた後、林は続ける。

「そもそも『がんちゃん』が、そのような話を捏造して、噂を広めても、彼にとっては何一つ得られるものがありません。そう思われませんか?私は噂話の元が彼だったからこそ、返って信ぴょう性があると考えました」

林が真顔でそう言うと、永瀬は思わず頷いてしまった。そう言われて見ると、そうかも知れないな――と、変に納得させられたからだ。

「男性ではないのですが、実際この付近で、女子高校生の失踪事件も発生しているようなのです。もちろん関連性の有無は不明ですが。そして」

「そして…」

永瀬はつい、話に釣り込まれる。

「あと二つの興味深い話を拾うことが出来ました。一つは人家や低層マンションの屋根伝いに移動する人物の噂です。こちらは残念ながら、情報源をまだ特定できておりませんし、信憑性についても評価できておりません。そしてもう一つは、このビルの中層階に、夜な夜な微かな灯りが点っているというのです。それが本日、永瀬先生にご足労頂いた理由なのです」

「はあ?それは、どういうことなのでしょうか?」

林の意外な言葉に、永瀬は思わず訊き返す。

「この廃ビルが、かなりの高確率で、犯人の潜伏場所であると考えられるのです」

「犯人?何の犯人ですか??」

本心ではその先を訊くのが怖かったのだが、永瀬は思わずそう口にしてしまった。

「箕谷先生を殺害し、おそらく本間さんを拉致した犯人です」

永瀬が予想した通りの回答が返ってくる。そして、

「え、それなら警察に連絡しなくては」と、永瀬が言いかけるのを制して林は言った。

「今の段階で警察へ通報することは、お勧め出来ません。それよりも、これから中に入って我々で状況を確認しましょう」

「我々って。どうして我々が調べなきゃならないんですか?殺人犯が中にいるのならば、危険じゃないですか。警察に知らせない理由は何なんですか?」

永瀬は情けない声で言い募った。しかし林は動じない。

「仰る通り、今日これから起こるであろうことは、かなりの危険が予測されます。本来先生を巻き込むべきではないのかも知れませんが、やはりご一緒頂く方がよいと判断しました。何故ならば、最近研究室で起こっていることの答が、この中にあると思われるからです」

永瀬はその言葉に完全に腰が引けてしまった。しかし林は、有無を言わさず彼をビルの裏手に引っ張って行く。裏口には金属製の扉がついていたが、半開きの状態だった。林は永瀬を見て頷くと、扉を開けてさっさと中に入って行ってしまった。一瞬躊躇したが、仕方なしに永瀬もその後に続く。自分の押しの弱さを心底嘆きながら。


【22-2】

ビルの内部はかなり暗かった。微かに香辛料の匂いが漂っている。

おそらく以前このビルに、インド系料理のレストランがテナントとして入っていたのだろう。閉店した今でも、その臭いが消えずに残っているようだ。林は用意してきたらしい懐中電灯を点けると、ビルの奥に向かって、ゆっくりと音を立てずに進み始めた。永瀬も渡された懐中電灯を点け、その後ろに従う。

一階は区分けのない、一室だけの間取りのようだ。廊下の真ん中と向こうの端に、ドアらしきものが見えた。廊下の壁の上部に明り取りの小さな窓が並んでいたが、隣のビルに遮られているせいか、ビル内に差し込む外の光は、ほんの僅かしかなかった。

林は廊下の中間にあったドアのノブに手をかけ、そっと引くと、音もなく室内に滑り込んだ。永瀬も恐る恐るドアの中を覗き込む。室内にはドアと反対側の壁に少し大きめの窓が切られ、そこから夕暮れの光が差し込んでいる。中は家具一つない空き部屋だった。誰かが身を隠すような場所は、どこにも見当たらない。室内を見まわし、誰もそこにいないことを確認すると、永瀬は少しホッとした。

――中に誰かが隠れていたら、どうなっていたんだろう?

そう思うと、微かに足が震え出す。

室内を確認し終わった林は廊下に出ると、永瀬を促して先に進み始めた。周囲を隣接するビルに囲まれているせいで極端に採光の悪い建物の廊下を、懐中電灯の光だけを頼りにして二人は進んでいく。やがて日が沈むと建物の中は闇に閉ざされ、この場所が別世界に変貌してしまいそうな気がして、永瀬は物凄く不安になった。しかしそんな永瀬の不安を意にも介さないように、林はそろそろと廊下の奥まで進み、そこで徐(おもむろ)に立ち止まった。

永瀬が廊下の向こう側を覗き込むと、右手に小さな踊り場があり、そこから二階に続く階段が伸びている。階段は途中の踊り場で180度折れ曲がり、さらに上へとつながっているらしい。林が躊躇なく階段を上り始めたので、永瀬も慌ててそれに従った。一人でここに置いて行かれたくなかったのだ。

二階の踊り場に達するまで特に異変はなかった。もしかしたら犯人が隠れているというのは単なる林の思い込みで、ビルの中は無人なのかも知れない。

永瀬が必至でそう思い込もうとしていると、

「永瀬先生。この先は二手に分かれましょう」

と、林が突然言い出した。

「二手って…」

永瀬は驚いて、思わず口籠る。

「時間が切迫していますから、二人一緒に各階を見て回るのは時間の無駄です。このビルは六階建てのようですから、二階は永瀬先生が確認して下さい。その間に私は三階を確認します。二階に何もなければ三階まで上がってきて下さい。そこで合流した後、また二手に分かれて、次の階の確認をすることにしましょう」

「林さん、ちょっと待って下さい。一人ずつだと危険じゃないですか?」

正直言って、この建物の中で一人きりにされるのは、とても恐ろしい。

「大丈夫。この広さならすぐに確認し終わりますよ。では、三階でお待ちします」

そう言い捨てるや、林はさっさと三階に上がって行ってしまった。その後姿を呆然と見送った永瀬は、一瞬林を追って三階に上がろうかと思ったが、すぐにその考えを捨てた。彼の指示通りにしないと、何か悪いことが起こりそうな気がしたからだ。永瀬は林が消えた階段を恨めし気に見上げると、意を決して二階の廊下に歩を進めた。

二階にもやはり電灯は点いておらず、かなり薄暗かった。一階と異なり、二階部分はいくつかの部屋に区分けされているようだ。廊下の壁には大きめの窓が外に向かって一列に切られており、そこから、隣接するビルの灰色の壁が見えた。

永瀬は廊下をゆっくりと先へ進んだ。そして最初のドアの手前で、少ししゃがんでドアノブを掴む。そっとノブを回そうとしたが、回らない。施錠されているようだ。ドアの上半分に填め込まれたガラスを見上げた永瀬は、ドアに沿って少しずつ顔を持ち上げると、室内に懐中電灯の明りを向けて覗き込んだ。中は一階と同様、家具ひとつない空室だった。誰かが身を隠すスペースもなさそうだ。ドアから離れた永瀬は、前後を見まわして廊下に誰もいないことを確認すると、さらに奥へと進んだ。二つ目、三つ目の部屋も施錠されており、ガラスから覗き込むと、室内は先程の部屋と同様に何もない空間だった。

永瀬は慎重に周囲を見回しながら、四つ目のドアの前に至った。ドアノブを掴もうとした瞬間、生暖かい風が顔に当たる。びっくりして振り返ると、部屋の前の廊下の窓が少し開いており、そこから外の風が吹き込んでいるらしい。

ほっと胸を撫で下ろし、再度周囲を見回す。何の異変もないようだ。

この日何度目かの決心をして、永瀬はドアノブを回した。ノブはゆっくりと回転し、永瀬が力を加えるとドアは音もなく手前に開いた。永瀬はゆっくりと体の位置をずらしてドアの隙間から懐中電灯で中を照らし、少しずつ室内を見回す。この部屋も他と同様空室だったが、部屋の向こう側の窓際に、ロッカーらしい四角い箱が一つ置かれていた。

何もないことを密かに期待していた永瀬は、それを見つけて落胆する。

――僕は何でこんな所で、こんなことをしているんだろう?

彼はこの場にいない林を、心の中で恨んだ。

漸く自分を奮い立たせると、周囲を見回して異常がないことを確認し、永瀬はゆっくりと室内に滑り込んだ。そろそろとロッカーに近づく。学校の掃除用具入れによく使われている、金属製の観音開きのロッカーのようだ。永瀬はロッカーの横に自分の立ち位置をずらし、扉の片方の取手に手をかけ、ゆっくり下に引き下げると、意を決して一気に扉を開いた。扉はぎこちない音を立てて開いたが、その後は何も起こらない。恐るおそる中を覗き見ると、空だった。

ほっとした永瀬は大きく息を吐くと、音を立てないよう、ゆっくりと室外に出た。外に出た永瀬は再度室内を見渡したが、何も異常はない。廊下にも異常は感じられない。ほっとした永瀬は、急ぎ足で来た道を戻ろうとした。早く林と合流したかったからだ。

その時背後から突然、荒い息使いが聞こえた。

振り向くと、窓の外から廊下に降りようとしている影が視界に飛び込んで来た。それは大きな生き物の影だったが、逆光に照らされて、はっきりとその姿を見分けることが出来ない。

その生き物は、窓から廊下に降りると二足で立った。背丈はあまり大きくない。人間のようにも見えるが、人間にしては体全体が異様に膨らんで大きかった。そして何よりも異質だったのは、それの肩から頭部が二つ生えているように見えたことだ。

永瀬が恐怖に駆られて逃げ出そうとした瞬間、それは凄まじい勢いで彼に突進してきた。跳ね飛ばされた永瀬は、そのまま意識を喪失した。

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