第4章21節

【21-1】

永瀬と林が蔵間の部屋を出ると、4回生の島崎珠莉(しまざきじゅり)が待ち構えていて、「先生」と声を掛けてきた。

「どうしたの?」と永瀬が訊くと、

「雪ちゃん、まだ見つからないんでしょうか?蓑谷先生もあんなことになって」

と、不安そうな表情で尋ねてきた。

「ああ、心配だね。残念ながらまだ警察から連絡はないんだよ。でも、あまり悪い方に考えるのは止した方がいいと思うよ」

そう言いながらも永瀬は、我ながら取ってつけたような返事だなと思った。同じ研究室の助教が殺害され、同級生が消息を絶っているのだ。動揺するなと言う方が無理だろう。

「でも先生」と、島崎はさらに言い募る。

「最近家の近所で、変な噂が流れてるんですよ。夜になると怪物がうろついていて、人を攫って行くって。だから私、雪ちゃんもその怪物に攫われたんじゃないかって、すごく心配なんです」

永瀬が「そんな馬鹿な」と言った時、横から林が二人の会話に割って入った。

「島崎さん、その噂話をもう少し詳しく教えてくれませんか?その怪物というのは、どの様なものなのですか?」

「えっと、あくまでも噂なんですけど、頭が二つあって、岩みたいな体の怪物だそうです。その怪物に、もう何人も攫われてるって」

「いくら何でもそれはないでしょう」

永瀬がそう言って林を見ると、彼は先程よりも更に深刻な表情を浮かべている。

島崎もその表情に気圧されたらしく、黙ってしまった。

すると林は、

「島崎さん、ありがとう。永瀬先生、少しよろしいですか?」

と言って、永瀬の承諾を待たずに部屋に入って行ってしまった。普段の林には考えられないその態度に、永瀬と島崎は呆然と見送るしかなかった。我に返った永瀬は、

「島崎さん、何か分かったら君にも知らせるから。実験中でしょ?」

と早口で言って彼女を実験部屋に帰らせると、林の後を追って3研の入口をくぐった。

中に入ると、永瀬の机の横に立った林が何か深刻に考え込んでいるのが見えた。

「先生。状況は私が想像していたよりも、遥かに深刻かもしれません」

林は苦しい表情を浮かべてそう言った。その眼差しは真剣そのものである。

「林さん、とにかくお考えを聞かせてもらえませんか?」

そう言いながら永瀬は林に椅子を勧め、自分も席に着いた。林は席に着くや、真剣な表情で話し始めた。

「永瀬先生、私はイギリスで発生した殺人事件の遠因は、かつてボルトン先生と共生していた<神>にあるのではないかと考えています」

その言葉に永瀬は黙って肯いた。

「ご承知のように、先程の蔵間先生への質問の意図もそこにありました。私がその様に推測した理由の一つは、先程お話ししたように、我が教団の過去の記録に、ベンジャミン・トーラスの様な、劇的な変身を遂げた人間についての記録が残されていたからです。それに関する詳細な説明は割愛させて頂きますが、我が教団の先人たちは、その人物の変身に<神>が関与していたのではないかと疑い、記録を残していました。私はその記録に興味を持っていたので、今回のトーラスの事件についての情報に接した時、特に彼の写真を目にした時に、すぐにその過去の事例を思い出したのです」

「しかし林さん。先程の教授の話からは、<神>とトーラスの変身の関連性は不明のままではないのですか?」

「確かにトーラスの一件だけでは、<神>が関与していたと断言することは出来ないでしょう。しかし先生、今身近に起こっている事件を思い出して下さい。箕谷先生のあの遺体の損傷は、人間のなせる業ではないでしょう。それに音信不通となった本間さん」

「ちょ、ちょっと待って下さい。いくら何でもそれは考えすぎです。確かに箕谷君の遺体の様子は異常でしたが、人力ではなくても何かの道具を使った可能性だってあります。それに本間君については、まだ状況すら分かっていない」

「先程の島崎さんの話はいかがですか?」

「あれは荒唐無稽すぎます。怪物が夜な夜な人を攫ってるなんて。林さんは、彼女の話を信じているんですか?仮に似た様な誘拐事件が実際起こっていたとしても、うちの研究室とは関係ないでしょう」

そう言い募る永瀬を制して、林が言った。

「梶本先生とはご連絡が取れているのでしょうか?」


【21-2】

「梶本君?梶本君かあ」

永瀬は虚を突かれた。正直なところ、蓑谷の事件の余波で彼女のことは念頭になかったからだ。

「箕谷君から、彼女は体調を崩しているという話を聞いていたので、確かにしばらく連絡を取っていませんが」

永瀬は言い訳がましくそう言った後、

「さすがに彼女は関係ないでしょう。後で連絡を取ってみれば分かりますよ」

と付け加えた。

その時林が、携帯電話を取り出して画面を操作し、

「先生、これを見て下さい」

と永瀬に見せた。画面には地図が映し出されている。地図には何箇所かマークが付けられていた。林はそのうちの一つを指して、

「ここが箕谷先生のマンションです」

と言い、同じように別のマークを指しながら、

「そしてここが本間さんのマンション、ここは梶本先生のマンションです」

と説明した。

「三人とも同じ区域に住んでいたのか。知らなかったな。だとしてもそれが事件とどの様な関連があるというのです?まさか島崎さんの言う怪物が、この区域でトーラスというイギリス人の様な犯行を繰り返しているというのですか?それは余りにも飛躍し過ぎた考えだと思いますよ。いくら何でもあり得ない」

永瀬はむきになって反論したが、それでも林は引き下がらない。

「もちろん私の杞憂かも知れませんし、そうであることを願います。しかし蔵間先生の中にいる<神>の存在が、私にはどうしても気になるのです。そこで永瀬先生、今すぐ梶本先生に連絡を取っていただくことは出来ますか?もし連絡が取れれば、それに越したことはありませんし、もしかしたら体調が悪化している可能性もありますので」

それも尤もと思った永瀬は、「そうですね」と言うと自分のスマートフォンを操作し、梶本に電話を掛けた。しばらく呼出音が繰り返された後、機械音のアナウンスに切替わり、留守番電話サービスに繋がった。永瀬は折り返し電話が欲しい旨録音すると電話を切った。

「繋がりませんか?」

林が深刻な表情で言ったので、永瀬も急に不安になって来た。

すると林が、

「先生、昨日は箕谷先生のことがあって行けませんでしたが、これから梶本先生のお住まいを訪ねてみませんか?」

と言い出した。永瀬は箕谷のことを思い出して、林の誘いを断ろうとした。

すると林が機先を制するように、

「もしかしたら体調不良で電話にも出られない状態なのかも知れません。そうであれば一刻を争いますので、さっそく出かけましょう」

と言って自席に戻ってバッグを手に取ると、「さあ」と永瀬を急き立てる。永瀬はその素早さに一瞬呆気にとられたが、もはや逃れられないと観念し、自分も荷物を持って林に続いた。

林が箕谷の時と同様、携帯電話の地図検索アプリを使って、梶本の住まいを特定していてくれたので、梶本の住む4階建てのハイツはスムーズに探し出すことが出来た。エントランスには特にセキュリティが掛かっていなかったので、林に促されるまま永瀬は梶本の部屋のある2階に向う。

ドアの前に立ってインターフォンを鳴らしても、返事は返ってこない。正直なところ永瀬は、このまま大学に帰りたかった。しかし彼が止める間もなく林がノブに手をかけて回すと、案の定ドアはあっさりと開いた。急激に悪い予感が湧き上がって来た。まるで箕谷の部屋を訪ねた時のリプレイである。

林はドアの隙間から中に向かって、

「梶本先生、おられませんか?」

と声を掛ける。永瀬が林の背後から覗き込むと、室内は灯りが点いておらず静まり返っていた。この状況も、箕谷の部屋を訪ねた時とまったく同じだった。しかしその後の展開は異なっていた。

「先生、ここでお待ち下さい」

と言い残すと、林がしなやかな動きで室内に入って行ってしまったからだ。残された永瀬はドアの前で呆然としていたが、

――同じフロアの住人が戻って来たらどうしよう。

と思うと急に不安になり、居ても立ってもいられない気分になってしまった。いっそのこと中に入ろうかと思いながら躊躇していると、林がドアを開けて外に出て来て、

「梶本先生は不在ですね」

と相変わらず深刻な表情で告げる。そして手に持ったスマートフォンをかざし、

「先生、もう一度梶本先生に電話をかけて頂けませんか?」

と永瀬に頼んだ。永瀬が頷いて自分のスマートフォンを操作すると、林が手にしたスマートフォンから着信音が鳴る。つまり梶本は、スマートフォンを置いたまま出掛けているということだ。

「警察に連絡した方がいいですかね?」

と永瀬が言うと、

「まず梶本先生のご実家に連絡する方がよいのではありませんか?」

と、至極尤もな返事が返って来た。

永瀬は林と共に大学に取って返すと、教務課で事情を話し、梶本の実家の連絡先を聞く。すると担当職員が、

「永瀬先生、もしかして梶本先生にも何かあったんですか?」

と、困ったような表情で訊き返してきたので、永瀬は咄嗟に返事が詰まる。蓑谷の事件があったばかりなので、彼が不安を抱くのも無理がないのだ。

「特に何かあったという訳ではないのですが、連絡を取ろうとしたら携帯電話を研究室に置いて行かれた模様なのです。梶本先生は今、実家に帰省されているようなので、そちらに連絡しようと思いまして。調べて頂けますか?」

そこへ林海峰が、そう言って助け舟を出してくれた。

事務職員はまだ納得がいかないようだったが、「分かりました」と言うと机上のパソコンを操作し、

「梶本先生のご両親は既にご他界されていて、保証人欄にはお兄さんの名前が書かれてますね」

と教えてくれた。

そう言えば以前そんな話をしていたのを、その時になって永瀬は思い出す。とりあえず梶本の兄の連絡先を聞き、そこに電話を掛けることにして、林と共に研究室に戻った。そして研究室の共用電話を使って教えられた番号に掛けると、3回目の呼出音の後に、「梶本でございます」という丁寧な女性の声が受話器の向こうから聞こえてきた。

永瀬が名乗って事情を話すと、電話の相手は自分が梶本の義姉であることを彼に告げ、義妹から最近連絡がないと心配そうな声になった。相手の不安げな声に永瀬は、ご家族から警察に捜索願を出してもらうよう依頼した。

すると梶本の義姉は、益々不安を募らせたようで、

「分かりました。主人と相談して対応します」

と、少し狼狽えながらも彼の依頼を承知してくれた。

永瀬が電話を切ると、

「やはり梶本先生とも連絡が取れないのですね」

と林が真剣な眼差しで確認する。

永瀬が、「ええ」と曖昧に返して、その先の言葉に迷っていると、林は唐突に、

「永瀬先生。私はこれから、自宅に戻って少し調べものをしたいのですが、よろしいでしょうか?」

と言う。相変わらずその貌からは、深刻な表情が消えていない。永瀬は彼が何を調べるのか聞こうとして少し迷ったが、結局あきらめると

「ええ、分かりました。何かあったらご連絡します」

と返した。彼の返事を聞いた林は、

「ありがとうございます。私もまた、ご連絡させていただきます」

と言うや、荷物を手に取り、足早に研究室を後にする。永瀬はその後姿を呆然と見送るだけだった。

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