第4章20節

【20-1】

林が教授室のドアをノックすると、中から「どうぞ」という声がした。

「蔵間先生、本日は前回の続きのお話をさせて頂きたいのですが」

林は室内に入ると、いきなりそう切り出した。いつになく急いでいる様子だ。

蔵間は林を一瞥すると、

「前回の続きとは、吾等と生物の進化についての話ということか?」

と訊く。既に<神>モードに切り替わっているようだ。気のせいだとは思うが、室内の空気の密度が増して重みが加わったように感じ、永瀬は早くも息苦しさを覚えた。

林が「そうです」と応えると、蔵間は無言でソファを指して二人に着席を促した。

勧められるままにソファに座るや否や、林はいきなり本題に入る。

「単刀直入に申し上げますが、本日はあなた方<神>と、この星の生物の進化との関わりについての、我が教団の推論についてご説明したいと思います。その上で、この前のように幾つかご質問させて頂きますが、よろしいでしょうか?」

「それは構わぬが、彼の者、未和子が残念がると推察される。何故ならば、未和子は汝の話に非常に興味を持っていたからだ」

「申し訳ありませんが、少し事情があり確認を急いでおります。未和子さんには、先生から情報共有をお願いいたします」

林の言葉に蔵間は、

「汝の提案を了承する」と肯いた。

「ありがとうございます。さて、以前永瀬先生にはお話ししましたが、成都大学での私の専攻は遺伝子工学です。私がこの専攻分野を選んだのは、もちろん学問的な興味もありましたが、主たる目的は<神>と生物の進化との関連について研究するためです。それは教団の方針というよりは、私個人の興味の部分が大きかったのですが」

「<神>と進化との関係ですか?」

「そうです、永瀬先生。そのお話をさせていただく前に、蔵間先生に一つ質問があるのですが、よろしいですか?」

「許可する」

「貴方は以前、人間の神経を介した情報伝達システムを随意に発動することが出来ると仰いました。それは生理的レベルで人間の生命活動に介入していると理解してよろしいでしょうか?」

「汝の理解は正しい」

「では、生化学的レベルの介入についてはいかがでしょう?例えば、遺伝子の操作のような介入です」

「吾等はそのような介入は行わない」

蔵間は即座に否定した。

「それは、遺伝子操作を行うこと自体、あなた方の機能として不可能ということでしょうか?あるいは操作すること自体は可能でも、何らかの理由でそれを行わないという意味でしょうか?」

林の問いに蔵間は少し間考え込む仕草をしたが、やがて口を開いた。

「汝のその質問に回答することは困難である。何故ならば、吾等が汝の言う、生化学的レベルの操作を行えるかどうか、吾はそれを判断出来る情報を所有していないからだ」

「承知しました。では、これからお話しする私の仮説については、あなた方が生化学的レベルの介入を行うことが出来るかどうかという点を一旦おいた上で、お聞き下さい」

林は蔵間と永瀬を交互に見て了解を求めた。二人は同時に肯く。

「さて、生物の進化という言葉には二つの大きなカテゴリーが存在します。一つは種の中で発生する形質の変化、所謂小進化です。同じ種であっても、生息する地域によって異なる色の個体群が存在することが代表的な例です。もう一つは、大進化と呼ばれるカテゴリーです。これは種の分化による新たな種の誕生や、より高次の、種の分類群の起源と絶滅のプロセスです。そして私が<神>との関連で強い関心を持っているのは、後者の大進化の方です」

蔵間も永瀬も無言で聞き入っている。

「では、種の分化は何をトリガーにして起こるのでしょうか?」

「突然変異、ですね」

と、永瀬が林の問いを引き取って言った。

「そうです。種の分化のトリガーは、種の中の個体に発生する突然変異とされています。それについて、今では疑問の余地はないでしょう。しかし我々は、ここで一つの疑問を抱くことになります。果たして自然現象として偶発的に発生する突然変異だけで、種の分化が起こり得るのか。何故ならば、単一の固体に発生した遺伝子の変異は、それが生殖細胞において発生しなければ、次世代へと継承されません。また生殖の対象が変異を起こしていない場合は、やがて劣勢遺伝子として、種の中で埋没していくとされています。即ち種の分化は、複数の固体に同時に共通する形態変化をもたらすような遺伝子の変異が発生しない限り、起こり得ないということです。その様な同時多発的変異が、果たして自然発生的に生じるのか」

「しかしその点は、ダーウィンを初めとする進化論者によって説明されていたのではないですか?」

「自然選択説ですね。仰る通りです。ダーウィンの主張は、選択圧と呼ばれる自然環境の力が種に加わった場合、その種の中で、その選択圧に対して対応力のある変異を遂げたもの、つまり生存力と繁殖力に長けた変異個体が種内部での生存競争に打ち勝ち、新たな種の起源となるという説です。現在では、ダーウィンの説を加えた総合説と呼ばれる主張が、研究者の間で最も支持を得ている模様です。その説が、科学的に説得力を持っているのは確かでしょう。しかし私は、環境要因以外の要因で、種の分化を説明出来ないかと考えました」

「それが<神>による進化への介入ということですか?」

「そうです、永瀬先生」

「何故そう考えたのですか?」

「理由は二つあります。一つは生物の進化についての議論が近代に始まったものではなく、古くから世界各地で行われていたことです。遡(さかのぼ)れば、古代ギリシャの哲学者アナクシマンドロスは、生命は海で生まれ陸上に移動したことを論じたとされています。我が道教においても、始祖の一人とされる荘周以来、生物を不変の存在ではなく、異なる環境の中で異なる特性を有するもの、つまり環境に応じて変化するものと捉えてきました。イスラム世界では、生物の進化について推測した書物が9世紀に記され、以来哲学者の間で生物の進化思想についての議論が続けられています。では過去の哲学者たちは、何によって生物の進化の可能性に思い至ったのでしょうか。アナクシマンドロスは何故、生物が海から地上に来たという事実を知っていたのでしょうか。私はそこに、<神>からの啓示があったのではないかと推測しました」

そう主張する林の目には、ある種の狂気の様な物が宿っている様な気がした。永瀬は彼の主張に反論しようとしたが、その眼を見ると言葉を発することが出来なかった。一方で二人の前に座った蔵間は、興味深い表情を浮かべて林の説明に耳を傾けている。その姿に永瀬は、蔵間の内にいる<神>ではなく、まるで蔵間本人がこの話を聞いているような錯覚を覚えた。

――やはりここは、蔵間と林が形成する異世界ではないのか?

永瀬は一瞬そう思い、身震いした。このままでは、この異質な世界に飲みこまれそうな気がして、背中に強い悪寒が走るのを感じたからだ。そして異世界の住人たる、九天応元会(きゅうてんおうげんかい)教主の言葉は続く。


【20-2】

「2点目は、これまで教団が研究してきた多くの宗教に、<創造神>が存在することです。特にエイブラハムの宗教においては、<神>即ち<造物主>として定義されています。我々は<神>が実在することを前提に研究を行ってきました。そして<神>が実在するのであれば、<神>が世界のすべての生命を創造したという教義も、事実を反映したものではないかと考えたのです」

「その発想は荒唐無稽ではありませんか?現実に地球上での生命の進化の過程は、科学的検証によって証明されていると思います」

永瀬はそう主張したが、林は全く動じない。

「仰る通りです。勿論我々も、旧約聖書で語られている如く、<神>が無から人間を創造したと考えた訳ではありません。ただ私は、<神>がこの地球上で起こった生物進化のプロセスに密接に関わることで、最終的に人間という種が創造されたということが、聖書の記述の由来ではないかと考えました。そしての契機となったのが、カンブリア大爆発というキーワードでした」

「カンブリア大爆発ですか」

そう反芻しながら、永瀬は自身の記憶を辿った。

「そうです。今から約6億年前、先カンブリア時代と呼ばれる地質代の終盤に、この惑星の海の中で生物の進化にとって、非常に重要なイヴェントが発生したと考えられています。その時代に起こったとされる、生物遺伝子の同時多発的な多様化現象です。それはその次の時代、カンブリア大爆発と呼ばれる、生物相の急激な多様化へと引き継がれたとされています。そして現在に至るまでの生物の進化の根本は、この時代に求めることが出来ます。何故なら、現在知られているほぼ全ての動物門の起源生物が、カンブリア紀に出現した可能性があることが、これまでの研究によって明らかになっているからです。そして種の分化が、遺伝子の突然変異の結果であることは、既に周知の事実です。つまりその時代に起こった爆発的な生命の多様化現象は、その数の分だけ同時多発的な突然変異を伴っていたことになります。そのようなことが、環境要因のみで偶発的に起こったのだろうか?むしろ第三者が、突然変異という進化のトリガーを、意図的に引き続けてきたのではないだろうか?我々はそう考えたのです。そしてその進化のトリガーを引き続けてきたのが、<神>ではないかと推測したのです」

「林さん、貴方の主張はどこかで聞いた憶えがあります。よく思い出せないが、多分アメリカでキリスト教信者の方々が、同様の主張しているのではないですか?」

永瀬は自分の曖昧な記憶を確認するように、そう問うた。

「インテリジェントデザインですね?」

林からは間髪置かずに回答が返って来た。そのことも想定済みだったようだ。

「そ、そうです。確かその様な名前で呼ばれる、市民運動のようなものでしたね?」

「仰る通りです。ジョージ・ブッシュ元大統領が、進化論と並んで理科の授業で教えるべきだと主張して話題になりました。しかし私の仮説は、インテリジェントデザインの考え方とは少し異なります。インテリジェントデザインという思想は、生物の進化を含む自然界の現象は、単に自然的な要因のみで説明が出来ない。そこには<偉大なる知性>の意思や構想が働いているというものです。つまり生物の進化は、環境要因などの物理的な事象に起因する単なる突然変異の連鎖の結果ではなく、<偉大なる知性>が描いたデザインに沿って行われたものであるという考え方です。人間とは<偉大なる知性>イコール<神に近い存在>、または<神>そのものが設計したものであり、その設計に向かって進化という形態的変化を繰り返すことによってたどり着いた結果、すなわち<神>の創造物であるとする主張です」

「人間は偶然の産物ではなく、最初から今の様な姿になるよう、設計されていたということですね?」

「そうです。しかし我々の考えは、インテリジェントデザインとは逆なのです」

「逆とは?」

「結果に至るプロセスが逆という意味です。人間とは、初めから進化の最終形としてデザインされ生み出された結果ではなく、数多の試行錯誤の末に絞り込まれていった結果ではないかと考えているのです。つまり生物の進化とは、<神>が膨大な時間を掛け、多発的かつ継続的に突然変異というトリガーを引き続けた、数億年に渡る壮大な実験ではないかということです。その実験の結果として最終的に到達した種が人類であり、それ以外の種はその実験過程で取捨選択され、あるものは絶滅してしまったということです」

「つまり人類は最初から設計されたものではなく、突然変異を繰り返し、絞り込まれることによって生まれた種であるということですね?そうであれば進化論者の主張と矛盾しない」

林は永瀬の言葉に頷いた。

「そして突然変異というトリガーを引くためには、遺伝子操作が必要ということですね?それが<神>によって繰り返し意図的に行われたと」

永瀬がそう念を押すと、やはり林は頷いて肯定した。

「そうです。それが先程蔵間先生に質問した、<神>による生化学的介入の意味です」

すると、それまで無言だった蔵間が口を開いた。

「非常に興味深い仮説だ。しかし先程伝達したように、吾には吾等がその様な介入を行ったという記憶情報がない。尤も汝の説によるならば、吾が存在を開始する以前に人類は誕生し、<神>による生化学的介入も終了していたということになるのだが。ところで吾より汝に一つ質問がある。汝は何故、人類が進化の最終形であると判断するのか?」


【20-3】

<神>蔵間顕一郎の問いに、<教主>林海峰は即座に反応した。

「それはあなた方を構成する要素が、人間が発するエナジーと同質であるからです。あなた方は生物の進化に介入することによって、自身の生存に必要なエナジーを産出する、人類という種に到達したのではありませんか?」

「それは吾等が生物進化に介入した目的が、人類という吾等にとって必要なエナジーを産出する生物を造ることにあったという意味か?興味深い推論だ。しかし汝のその推論には矛盾がある」

「確かにそうです。蔵間先生が推察されるように、この仮説には一つのパラドックスが存在します。それは、必要なエナジーを得るために人類を創造したのであれば、それ以前に<神>は、何からどの様にエナジーを得ていたのか?つまり人類が創造される以前には、<神>は存在し得なかったのではないか、ということです」

「その通りだ」

「残念ながら、現時点でそのパラドックスを解決する明確な答えを、我々は持っておりません。幾つか候補となる説はありますが、明確な根拠を示すことが出来ないのです。実は本日貴方から、その解答が得られるのではないかと期待していたのですが」

「汝のその期待には応えられない。繰り返しになるが、吾はそれに関する記憶情報を所持していない」

「残念ですが仕方ありません。さて」

そう言うと林は仕切り直した。

「本日は貴方に、もう一つ質問があります。貴方はベンジャミン・トーラスという人物をご存じですか?」

「それがケネス・ボルトンの家に、郵便物という情報伝達様式を運んで来ていた人間のことであれば、吾は記憶している」

「では貴方は、そのトーラスという人物の精神世界に接触したご経験はありますか?」

「吾には一度接触した経験がある。吾が精神世界の外部に存在していた頃には、人間の記憶から取得する情報を常に更新する必要があった。そのために、常に接触可能な範囲に存在する人間の精神世界から、その人間の記憶を複写していたのだ。一度記憶を複写した対象でも、次には情報が更新されている可能性があるので、可能な範囲に接近する都度接触を行う。以前にも汝に情報共有したが、吾は人間の時間でいうコンマ数秒間で人間一人が所有する記憶情報を走査し、必要な情報を複写することが出来る。しかしあのトーラスという人間への接触は、吾にとって危険であると推察された。何故ならばあの人間は、吾にとって有害な不純物を大量に、そして定常的に発していたからだ」

「その危険人物の精神世界に、何故接触を試みられたのですか?」

「ケネス・ボルトンとメアリー・ボルトンが、間もなく老化によって生命活動を停止することが高確率で予測されたからだ。更にあの二人の人間が外出する頻度が、それ以前と比べて激減していた。従って吾と彼の者は、次に共生を行う人間を探すために、可能な限り速やかに移動する必要があった。しかし吾等は、単独では自身の空間的位置を把握し、移動することが出来ない。従って吾等が移動するためには、人間の発するエナジーを感知することで、自身の空間的位置を特定する必要があるのだ。そしてそれを感知するためには距離的な制約がある」

「つまりある程度の近距離にいる人間と一緒でないと、あなた方は移動することが出来ないのですね?つまりあなた方にとって人間のエナジーは、ランドマークの様な役割も果たしているのですね?」

「汝の認識は正しい」

「では何故トーラスと共に、より人間の多い場所まで移動されなかったのですか?」

「既に情報共有したが、あのトーラスが発する有害な不純物の量が多過ぎたからだ。あの人間と至近距離に存在し続けると、吾の構成要素が重篤な傷害を受けることが危惧された。その結果吾は、あの人間と共に移動することを放棄すべきだと判断したのだ。しかしその直後に、ケネス・ボルトンとメアリー・ボルトンは病原性微生物によって深刻な傷害を受け、短時間で生命活動を停止してしまった」

「そしてその後、偶然にボルトン先生宅を訪問された、蔵間先生と美和子さんの精神世界に入られたのですね?」

「そうだ」

「トーラスの発する不純物は、それ程危険だったのですか?」

「吾はあの人間程、信仰心や他の人間に対する敬愛の感情の量が少ない人間の精神世界を、それ以前に経験したことがなかった。トーラスの精神世界を構成していたのは、主に自身の現状への不満、他の人間への憧憬と憎悪だった。そのような構造の精神世界を持つ人間は多く存在する。しかしそれに加えてトーラスの精神世界の根底に存在していたのは、それまでに吾が認識したことのない特異な願望であった」

「特異な願望、ですか」

「そうだ。あのトーラスという人間は、他の人間、汝らの性別分類でいう<女>の頸部を噛みたいという非常に強い願望を所有いた。その願望は吾がトーラスの精神世界に接触した段階では意識の表層に現れていなかったようだが、その強さは他のいかなる願望よりも強いものだったのだ。それは若年期の体験に基づいていたようだ。社会生活を行う上で、その様な行為は不利益となることをトーラスは認識していたため、それが意識の表層に発現しないよう、無意識にその願望を抑圧する力が働いてはいた。しかし繰り返しになるが、その実体はかなり強いものだった。おそらくその行為が、強烈な快楽を伴っていたことに起因すると推測される」


【20-4】

永瀬は蔵間の説明を聞いて、背筋が寒くなるのを覚えた。

――トーラスという男は、他人を噛みたいという異常な願望を発露して、連続殺人を行ったというのか。その様な殺人の動機があり得るのか?

その時林が、先程永瀬に見せた写真を蔵間の前に置いて言った。

「先生はこの写真の人物を記憶しておられますか?」

「吾は単独では、人間の形状を正確に識別することが出来ない。人間が視覚によって取得した情報と比較することでしか、その人間の形状を判別することが出来ないからだ。しかし人間は、個体ごとに、同一の対象から取得する視覚情報が若干異なるのだ。その原因は個体が持つバイアスに起因すると考えられる。従って吾が認識する人間の形状は、それら異なる情報を統合し、平均化したものである。即ち吾の所有する情報が、正確にその実体の形状を表す情報であるどうかを、吾は判断することが出来ない」

「貴方の持っておられる、人間の形状の一般的な統合情報と比較して、この写真の人物の形状はいかがですか?そこから乖離したものですか?」

「吾の所有する人間の平均的な形状情報を元に判断すると、この写真は一般的な人間とは異なる形状であると認識される」

「具体的にはどの様に異なっているのでしょうか?」

「頭部の下の部分、即ち鼻より下の顔の部分が、人間の平均的なサイズより肥大して、一部が損傷を受けている。そして口裂が人間の平均値と比較して、2倍以上長く開いていると認識される」

「これはベンジャミン・トーラスの写真なのです。そして貴方が認識されたように、通常の人間とはかけ離れた顔の形状をしています」

「吾はこの写真に写っている人間が、ベンジャミン・トーラスであるかどうか判断することが出来ない。何故ならば、この蔵間顕一郎という人間の記憶にはトーラスに関する情報が存在しないからだ。しかし以前にケネス・ボルトンから取得した記憶には、トーラスの顔の形状が通常の人間と異なっているという情報はない。従って吾は、この人間がベンジャミン・トーラスであると認定することが出来ない」

「貴方の記憶は正しいと思います。何故ならば、彼は貴方が最後に接触された後に、この様な顔の変化を生じたようなのです」

「汝のその情報を、吾は否定する。人間が短時間でその様な形状の変化を起こすことはないからだ」

林が口を開こうとすると、<神>蔵間顕一郎は「待て」と制して続けた。

「吾は今漸く、汝の質問の意図を認識した。汝は吾がトーラスの形状変化に関与したと推測しているのか?」

「そうです。トーラスは貴方との接触によって、この様な変化を起こしたのではないかと疑っています。何故ならばこの様に急激な変化は、疾病などの通常の原因で起こり得るものとは思えないからです。つまり、貴方による遺伝子レベルの介入があったのではないのかと」

「繰り返すが、吾はその様な介入を行ってはいない」

「そのようですね。私の推測が間違っていたのかも知れません」

そこで二人の会話は途切れた。永瀬は突然沈黙した二人に、僅かだが息苦しさを感じた。

「しかし」と、その時沈黙を破って、<神>蔵間顕一郎が口を開いた。

「汝にとって有用かどうかは吾には判断出来ないが、汝の情報を元に、吾は一つの仮定に至った」

「それは何でしょうか?」

林が応じる。

「吾等の所有する記憶情報には、汝ら人間の概念で言う、禁忌に該当するものがある」

「禁忌ですか」

「そうだ。その記憶は、吾が存在を開始した時には既に所有していたものであるため、吾が所属していた共同体から共有されていたものと推測される」

「その情報とはいかなるものなのでしょう?」

「吾はその情報にアクセスすることが出来ないため、その情報がいかなるものかを、汝に共有することが出来ない」

「アクセス出来ないとは、どういうことでしょう?」

「その情報を所有していることは認識出来るが、その情報を記憶の中から取り出し再生することが出来ないのだ。その理由を吾は確認することが出来ないが、吾が存在を開始した時点から、その様な情報として、吾の構成要素の中に保存されているのだ。その情報は吾の核心部位に保管されているため、吾等の存在に関連する根源的な情報ではないかと推測される。そしてその情報の中に」

蔵間がそこまで言った時に、林がその言葉を引き継いだ。

「生物の遺伝子レベルでの介入に関する情報が含まれていると、お考えなのですね?」

「あくまでも可能性に過ぎない。何故ならば、その情報がどの様なものなのか、吾は認識することが出来ないからだ」

林は蔵間の言葉を聞いて考え込んだ。永瀬が彼の横顔を見ると、かなり深刻な表情が浮かんでいる。

やがて林は顔を上げ、「蔵間先生、どうもありがとうございました。とても参考になりました」と丁寧に頭を下げソファから立ち上がると、唖然と見上げている永瀬を促して教授室を出た。

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