第4章19節

【19-1】

三宅加奈子は公園のベンチでスマホを見ながら、伊藤浩司を待っていた。

その公園は加奈子の家からは15分程離れた場所にあったのだが、親の目が届きにくいという理由だけで、二人がよく待合わせに使う場所だった。しかし付近は住宅が疎らだったので、夜は人通りが少ない。しかも公園は周囲を廃ビルやマンション建築前の更地で半ば囲まれていたので、夜に女子高生が一人でいるには少々物騒な場所だった。

今夜の加奈子はいつになく不機嫌だった。待ち合わせの9時をとっくに過ぎているのに、浩司が現れる気配がなかったからだ。待ち合わせ時刻に来ないのはいつものことなのだが、今夜は一段と蒸し暑く、Tシャツが汗で体に張り付くのが気持ち悪かった。そして蚊がぶんぶんと飛び回って、気が付くとあちこち食われているのも、加奈子を不機嫌にしていた。

――浩司が来たら文句言ってやろう。

そう思っていると、また二の腕に蚊が止まった。反射的に叩くと手につぶれた蚊の感触が残ったので、慌ててベンチの横に設置された水道に向かう。蛇口を捻り、真っ赤な吸いたての血と混じって掌にべっとりと着いた蚊の残骸を洗い流していると、

「加奈子、何やってんの?」

と、背後から声がかかった。

振り向くと伊藤浩司の厳つい顔が、加奈子を見下ろしている。浩司はかなり上背があり、体つきもごついので、小柄な加奈子と並ぶと大人と子供の様に見える。

「浩司、遅い」

加奈子が文句を言うと、

「現場が長引いたんだから、しゃあねえだろう」

と、不貞腐れた返事が返って来た。

浩司は加奈子の中学校の先輩で、年齢は2歳上だった。そして彼は近隣では有名な不良少年だった。同世代の中では体格が飛び抜けて大きく性格も狂暴だったので、学校内外での暴力沙汰が絶えず、当然のことながら学校一の問題児として、教員たちから腫物を触る様な扱いを受けていたのだ。高校には一応進学したのだが、暴力事件を起こして1年も経たないうちに退学処分になったらしい。その後は不良仲間の先輩の伝手を頼って、鳶職になったと加奈子は聞いている。尤も、鳶職が具体的にどの様な職業なのか加奈子は知らなかった。浩司の言う現場が、何かの工事をしている場所であることを辛うじて認識しているだけだった。

加奈子が浩司と付き合い始めたのは、彼女が高校1年生の時からだった。契機はよくあるナンパである。休みの日に街をぶらついている時に、ナンパする相手を物色していた浩司に声を掛けられ、そのまま成り行きで1年以上の付き合いになる。浩司の顔立ちは、所謂(いわゆる)イケメンとは程遠いのだが、背だけは高いのと、何より喧嘩が強いので、加奈子はこの粗暴な彼氏が気に入っている。

「遅れるんだったら、LINEぐらいしてよね」

加奈子がそう言い募ると浩司は、「悪かったよ」と言いながら加奈子を抱き寄せ、強引にキスをした。ムードも何も関係ないのはいつものことなのだが、その夜はきつい汗の臭いがしたので、

「ちょっとお、浩司汗臭い」

と言って、両手で突き放すようにして体を離した。

その時浩司の体越しに、何かが近づいてくるのが見えた。それは何か塊の様なものが動いているように見えたが、よく見ると手足があり、何故か頭が二つあるように見える。

加奈子が「ひっ」と小さい悲鳴を上げたので、浩司もその視線の先を振り返った。

その時それは、浩司のすぐ後ろまで来ていた。

「何だ、てめえ!」

浩司がそれに向かって凄む声が、心なしか震えているように聞こえる。そう思った瞬間、浩司は何かに頭を打たれ、どさりという音を立てて地面に倒れ込んだ。浩司の姿が目の前から消えた後、間髪入れずに彼女の側頭部に強烈な打撃が加えられた。そしてそのまま加奈子は失神した。

どれくらい気を失っていただろう。加奈子は、凄惨な悲鳴を聞いて意識を回復した。気がつくとそこは薄暗い建物の中だった。彼女が音のした方に目を凝らすと、先程見た大きな塊のような人間が立っていて、その足元に人のものらしい影が横たわっている。そしてその影から断続的な悲鳴が聞こえてくるのだ。加奈子が目を凝らして見ると、その影は痙攣するように蠢いていた。あれは多分浩司だろう――と、加奈子はぼんやりと思った。彼女の意識はまだ、完全に回復していないようだ。

するとその時、立っていた塊が浩司らしい影を力いっぱい踏み始めた。それが脚を振り下ろす毎に、何かが潰れて周囲に飛び散る耳障りな音が響き渡る。何度かその動作を繰り返した後、塊は踏むのを止めて床に横たわった影を見下ろした。もはや影からの悲鳴は聞こえてこない。

――浩司、死んだんだ。

加奈子は朦朧とする意識の中でそう思った。

塊は足元に横たわった浩司の様子を確認するように見下ろしていたが、やがて加奈子の方に近づいてきた。そして加奈子の髪を乱暴に掴んで顔を持ち上げると、

「気が付いたな?」

と掠れた声で言いながら、顔を近づけて加奈子を覗きこんで来た。暗くて顔全体はよく見えなかったが、大きく見開かれた目が異様に血走っているのが物凄く怖かった。顔の横に突き出たもう一つの頭には、目も鼻も口も、毛髪すらなかった。

加奈子は悲鳴を上げようとしたが、喉が引きつって声が出ない。すると怪物が言った。

「お前笑ったな?私を見て笑ったな?」

目の前の怪物が何を言っているのか、加奈子には全くわからない。しかし怪物は加奈子に対して怒っているようだった。そう思った加奈子は、

「ひゅ、ひゅるして。ごめんなさい。許して。お願いします」

と怪物に懇願する。しかし加奈子の声は、怪物の耳に届いていないようだった。

「お前笑ったろう?この口で笑ったろう?この口で、ええ?」

そう言いながら怪物は、加奈子の後頭部と顎を掴んだ。そしてゆっくりと顎を引っ張り始める。すぐに顎が外れる激痛が加奈子を襲った。しかし怪物の手の動きは止まらなかった。自分の顎が、力任せに引きちぎられていく音を聞きながら、加奈子は失神した。


【19-2】

その日永瀬晟(ながせあきら)が研究室に出勤するとすぐに、A4サイズの茶封筒を手に持った林海峰(リンハイファン)が近づいて来た。

「おはようございます、永瀬先生。来られたばかりのところを恐縮ですが、少しお話ししてよろしいですか?」

林の言葉に永瀬は思わず身構えてしまった。こんな時の彼の用件はこれまでの経験上、間違いなく厄介事なのだ。とは言え断る理由もないので、「どうぞ」と自席の横に置いた椅子をすすめる。

林は、「ありがとうございます」と言いながら着席し、唐突に質問した。

「先生は、ケネス・ボルトン先生のお住まいが、ロンドンのどの辺りだったか、ご存じですか?」

永瀬は質問の意図が分からず一瞬戸惑ったが、

「ロンドンの北部、確かインフィールド自治区だったと思います。それが何か?」

と記憶を辿りながら答えた。

「よく、そこまで正確にご存じですね」

林は、永瀬の答えに少し驚いたようだった。

「私もボルトン先生の研究室に1年程留学していたんですよ。その際に先生のご自宅にも何度かお邪魔したことがあります。もう10年近く前の話ですが」

「そうだったんですか」

永瀬の答えに林は一瞬考え込んだが、やがて意を決したように永瀬を見ると、

「先生は最近ロンドンで発生した、連続殺人事件のことをご存じですか?」

と訊いた。永瀬は、林の質問が予想外だったので少し驚いたが、

「ええ、新聞やテレビのニュースで報道されている範囲ですが。確か犯人が最近見つかって、射殺されたんですよね?」

と答える。すると林はまた、少し考え込んだ。

何だかいつもの林らしくないと思った永瀬は、

「どうされたんですか?」

と林の顔を覗きこむ。

「ああ、失礼しました。実は先生に1枚の写真をお見せしたいのです。この写真は、我が教団が極秘ルートで入手したもので、少し残酷なものですが見て頂けますか?」

永瀬は一瞬躊躇したが、興味の方が先立ったので、

「ええ、構いませんよ」

と林を促した。林は手に持った封筒から、1枚の写真を取り出すと永瀬の前に置いた。その写真は人間の頭部を映したものだったが、永瀬はそれを見て思わず身を引いてしまった。人間の死体と思われる写真だったからだ。しかもその死体は、顔の下半分が大きく抉られ、生々しい傷跡が残されていた。さらに異様なのは、その顔の下半分の残された部分が、膨らんだようになっていたことだ。

永瀬は顔をしかめて訊いた。

「これは一体何の写真ですか?」

「永瀬先生、大変嫌なものをお見せしてしまいました。申し訳ありません」

林はそう丁重に詫びた後、衝撃的な言葉を発した。

「これは先生が仰った、ロンドンの連続殺人犯、ベンジャミン・トーラスという男の、司法解剖時に撮られた写真の1枚、正確にはそのコピーです」

「な、何故そんなものを?!」

驚いた永瀬は、そう言って絶句した。それも当然だろう。遠く離れたロンドンで司法解剖された殺人犯の写真を突然目の前に置かれたら、驚かない方がおかしい。

「先生が驚かれるのはご尤もです。ただ、入手ルートについては申し上げる訳にはまいりません。何故ならば、それは我が教団の最高機密に関わるからです」

林は更に恐ろしいことを口にした。やはりこの男の背景にある宗教団体は、得体が知れず不気味だ。永瀬が返事を出来ずにいると、林が補足するように言った。

「永瀬先生、ご心配には及びません。我が教団は先生が今ご懸念されている様な、所謂(いわゆる)カルト集団ではありません。また非合法な諜報活動などを行っている訳でもありません。我が教団の関係者は、現在世界各国の様々な階層に存在しています。その規模については、敢えて申し上げることを控えさせていただきますが、相当数に上るとお考え下さい。勿論この国にもいます。そして各国で合法的に情報の収集を行い、それが教団本部に一元化されています。情報収集はインターネット等のツールを用いて能動的に行うこともありますが、関係者が日常生活の中で受動的に見聞きした情報である場合も多いのです。それらの情報が、日々膨大な量として集積されています」

確かに世界中から、中身を問わずに情報が集められているとすれば、その量は膨大となるだろう。

――しかし何故その様な情報収集を行っているのだろう?

永瀬のその疑問は、林に先読みされていた。

「我が教団が収集する情報は、あくまでも<神>に関連するものに限定されます。しかし、どの様な情報がそうなのかを判断することは、個人レベルでは極めて困難です。そのため我々は通常制限を設けず、幅広いジャンルの情報を収集し、教団本部で取捨選択を行っています。それらの情報には所謂都市伝説的なものも含まれますが、各国の機密に関連する情報は、その可能性のあるものも含め、原則対象外としています」

「対象外ということは、その気になれば、その様な機密情報にアクセスすることも出来るということですか?」

「それは先生のご想像にお任せします」

そう言って林は、謎めいた微笑を浮かべた。

――やはりこの男は怖い。

永瀬は背筋に悪寒が走るのを感じた。

「一方で我々は、収集された情報の中で追加調査が必要と思われるものについては、徹底してフォローアップを行います。今回のケースがそうでした」

「今回のケース?」

「そうです。ロンドンで発生したこの連続殺人事件については、当初から強い関心を持っていました。そこで犯人の射殺を機に、可能な限りの追跡調査を行ったのです。何故か今回の犯人については、容疑者として特定された直後からイギリス政府による厳しい情報管制が敷かれていました。我々はイギリス政府をあまり刺激しない程度に調査を行い、その過程でこの写真を入手したのです」

永瀬は聞きながら、段々と怖くなってきた。話の規模が、大学の研究室の片隅で交わされるレベルを遥かに超えている。永瀬は思わず室内を見渡した。誰かに今の話を聞かれていないか、急に心配になったからだ。

しかし林は、

「ご安心下さい。今日この部屋の学生二人は帰省して不在です」

と、またも永瀬の心を読んだように言った。

――もしかしたらこの男は、蔵間の様に自分の精神を覗いているのではないか?

そんな疑問すら湧いて来る。何しろこの男は精神世界に入って<神>と会話し、自分の精神の中に、捕らえた<神>が存在していると嘯(うそぶ)く男なのである。しかし林は、永瀬のその様な困惑を意にも介さず、涼しげな表情を保っている。それが少し癪に障ったので、永瀬は彼に疑問をぶつけた。

「しかしどうして林さんたちは、この事件の犯人にそれ程の関心を持たれたのですか?」

「その理由はこの写真にあります。先生はこの写真を見てどの様に思われましたか?銃創の凄惨さを除いて、何かお気づきの点はありますか?」

「そうですね」

少し考えた後、永瀬は自分が感じたことを伝えた。

「顔の下半分が肥大しているように見えます。また、口が頬まで裂けているように見えますね…」

「先生のおっしゃる通りです。このベンジャミン・トーラスという男の顔は、口裂部が通常人の倍以上あり、それを支える口裂周辺の筋肉が、異常に発達しています。実はこの犯人が特定される以前に、我々の教団に興味深い情報がもたらされていました」

「それはどのような?」

「犯行方法、つまり被害者の殺害方法についてです。それが非常に特殊な方法であったため、ロンドン市警は事件の前後を通じて、それを明らかにしていませんでした。今もそうです」

「特殊な方法、ですか…」

何となく嫌な予感がして、永瀬はそう呟いた。もはやその情報の入手方法について訊くことは断念している。

「そうです。この犯人は都合9名の女性の頸部を噛み、その部分を食い千切ることで、殺害していたのです」

「ちょっ、ちょっと待って下さい、林さん。それじゃあまるで、映画に出てくるゾンビじゃないですか。そんな殺し方なんて、とても信じられない」

永瀬は余りの驚きに、咄嗟に大声を出してしまった。そしてすぐに、拙い――と思い、入口付近を見る。幸い誰にも聞かれていないようだ。

林はゆっくりと首を横に振ると、

「残念ながら事実なのです」

と断言した。永瀬はその言葉に絶句して彼を見た。同時に、何だか急に胸が悪くなるのを感じた。しかし林は彼の思いなど意に介さずに続ける。

「この犯人の特殊な殺害方法についても、犯人の特異な容貌についても、ロンドン市警は一切公表していません。市民に与えるインパクトを考えれば、賢明な措置と言えるかも知れません。そして我々は、このトーラスという人物について、独自に調査を行いました。その結果、見過ごすことの出来ない情報が得られました」

林の真剣な眼差しに、永瀬は無意識に唾をのみ込んだ。

「トーラスという男は、一連の殺人事件が発生する少し前まで、郵便配達人をしていました。その当時のトーラスについては、地味な男という以外の評判は聞こえてきませんでした。つまりトーラスの容姿は、今回の犯行に及ぶようになった後、極めて短期間の間に、この様に変貌したということが推測されます。何故ならば、もし彼が以前からこの特徴的な容貌であったなら、必ずそのことが情報として伝わってくるはずですから。先生はこの点については、ご納得いただけますね?」

林に念を押されて、永瀬は無言で肯いた。気がつくと喉が渇いてカラカラだった。

「実は我が教団では、人間がトーラスの様に急激な変貌を遂げた事実を、過去にも情報として把握していました。それは教団の記録として残されていたのです。そして我々は、その様な形態変化に、<神>の関与があったのではないかという疑問を持っているのです」

「それはどういう意味でしょうか?私には理解出来ない」

「申し訳ありません、永瀬先生。そのご質問への回答は、この後順を追ってさせて頂きますので、もう少し話を続けさせて下さい」

永瀬は釈然としない気分だったが、黙って肯いた。

「ありがとうございます。我々はトーラスについて、もう一点重大な情報を知りました。それは彼の郵便配達人としての担当区域です。彼は今回の犯行の少し前から仕事に出て来なくなり、解雇されていたようです。しかしそれ以前には、インフィールド自治区の郊外の住宅地での配達業務を、2年以上にわたって担当していたのです」

「インフィールド郊外ですって?まさか!」

「そうです。彼の担当区域に、ボルトン先生のご自宅が含まれていたのです」

「しかし、そんな、まさかそのトーラスという男が変身したのは、<神>の仕業だというのですか。今、蔵間先生の中にいる…」

「私はその可能性を強く疑っています」

そう断言する林の目には、強い確信が込められている。

「しかし、いくら何でもその考えは飛躍しすぎている。わたしには到底納得出来ません」

永瀬は悲鳴を上げるように言った。

「永瀬先生がそう思われるのも当然です。そこで提案があります」

永瀬は物凄く嫌な予感がした。

「今から蔵間先生のお部屋で、この話の続きをしたいのですが、お付き合いいただけませんか?永瀬先生」

やはり思った通りだ。永瀬は出来ることならこの場所から逃げ出したかった。またあの日の様に、<神>と林の対話に同席させられるのは、本当に怖くて嫌だったからだ。しかし静かな微笑を浮かべた林に見つめられ、彼は観念せざるを得なかった。

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