第4章25節

【25】

それからどれ程の時間が経過しただろうか。

梶本恭子の精神世界の中を飛び交っていた、大小の怒りの塊は徐々に静止した。吹き荒れていた怒りの嵐は、<神>の干渉によって一時的に収まったようだ。気がつくと黒い影、梶本恭子の精神の核の傍に、林海峰(リンハイファン)は立っていた。怒りの鎮静に伴って影の怒号も止んでいたが、それでもまだ弱々しい悲鳴をあげている。

林は影に向かって、「梶本さん」と呼びかけた。

影はその声に反応し、「あんた誰よ?」と問い返す。

「私ですよ。林海峰です」

「林海峰?林海峰?林海峰?ああ、あんたね。何であんたがここにいるのよ?」

影の密度が上昇し、林を強く圧迫してくる。その圧力に耐えながら彼は言った。

「あなたは今、鏡に映った自身の姿を見ましたね?」

「鏡?あれが私だって?違う、違う、違う、違う、…」

影が再び怒号を発しようとするのを、

「あれは、あなたではないのですか?」

と林は制する。

「そうよ。私じゃないわ。私はあんな化物じゃない」

「そうですね。私の知っている梶本恭子という人は、とても温和で心の優しい方でした。少し真面目過ぎるところはありましたが、模範的な教員であり、社会人でした」

林はそう言って影を宥めた。

「そうよ、私はずっとずっと真面目に生きてきたのよ。他の人の迷惑にならないようにいつも気を使って、いつだって社会のルールもきちんと守って。なのにあいつらは、平気で周りに迷惑をかけて、私のことを嘲笑して、陰で私を馬鹿にして、そして私を無理矢理犯したのよ。だからあいつら全員、殺してやったのよ。あんな奴ら殺されて当然よ。あんたもそう思うでしょう?」

「あなたの怒りは正当です」

林は決して影の主張を否定しない。

「しかし、あなたの怒りは大き過ぎたのです。あなたのその怒りは、あなた自身でも制御できない程、強大なオーラとなって、本来の貴方の姿をすっぽりと包み込んでしまったのです。あなたの優しさも、賢明さも、真面目さも、数多の美点まで、丸ごと全て包み隠してしまった。鏡に映ったその姿は、あなたの本当の姿ではない。あなたの存在の、ほんの一部でしかない怒りなのです。その一部が暴走して、そのように巨大で、禍々しいものたなってしまったのです。鏡に映ったその姿はすべて、あなたの怒りを体現している。違いますか?」

「違う。これは私じゃない」

林の言葉に影は抗ったが、その声はやや弱まっていた。

「そうです。繰り返しますが、それはあなたの本当の姿ではない。あなたは本当に運が悪かった。悪かったとしか言いようがない。ボルトン夫妻がコロナウィルスに感染していなければ、蔵間先生が英国の学会に招聘されていなければ、箕谷さんがあなたに妄念を抱かなければ、その出来事のいずれか一つでもなかったなら、あなたはその怒りのオーラを生み出すことはなかった」

「箕谷!そうよ。あいつが、あの男が私のことを無理矢理。そうよ、あいつが悪いのよ。あいつのせいで私は。あいつは、私を犯した後で、そのことを永瀬先生にばらされたくなかったら、これからも黙ってあいつの言いなりになれって言ったの。私は、そんなことを永瀬先生に絶対に知られたくなかった」

再び影が、怒りで膨張し始める。しかし林が動じなかった。それは梶本を必ず元に戻すという、強い意志の表れだった。

「箕谷さんが貴方に対して行ったことは、決して許されることではありません。ただ私は、彼も蔵間先生、いや蔵間先生の中の<神>に、妄念を刺激されたのではないかと思います。私の知る限り、箕谷さんは極めて小心で、はっきり言えばあなたに暴行を加えるような度胸のある人物ではなかった」

「<神>ってなによ?そいつのせいだから、箕谷の奴に罪はないって言うの。あいつは」

「もちろん箕谷さんがあなたに対して行った行為は、重大な犯罪です。それ以前に、人として許される行為ではない。彼は当然罰せられなければならなかった。しかし貴方は彼を罰するのに、何故殺害という手段を用いてしまったのですか?」

「何故って。あいつのせいで私はすごく傷ついた。だから殺してやったのよ。頭を捻ってやったのよ。あいつを殺して何故悪いのよ!あんたに私の何が分かるのよ!」

「あなたの怒りは正当です。繰り返しますが、彼があなたに対して犯した罪は、罰せられて然るべきです。しかし例えそうであっても、あなたは彼を殺害すべきではなかった」

「何で?何で殺しちゃ駄目なのよ?あんた今、あいつは罰を受けて当然だって言ったじゃない。あんな奴、殺されても当然よ。それともあんた、あいつに同情しているの?」

「私が同情を禁じ得ないのは彼ではありません。あなたです」

「私?何で?」

「あなたが彼を罰するために、あなたの人生を犠牲にしてしまったからです」

「私の人生…」

「そうです。あなたは彼を殺しただけでなく、彼を殺すことによって、あなた自身をも殺してしまった。あなたは彼を罰するために、その様な姿になってしまった。その姿はあなたの望んだものではなかったのかも知れない。しかしあなたは最早、後戻りの出来ない場所まで来てしまったのです。あなたは被害者なのに、自分自身のこれから先の人生を自ら閉ざしてしまった。私はそのことが、とても悲しい。あなたがそのような道に足を踏み込んでしまったことを、あなたのために嘆くのです」

「これは私じゃない。私じゃないの」

影は弱々しく抗ったが、林の追及は終わらない。

「そうです。あなたではない。それはあなたが図らずも身に纏ってしまった、怒りという名のオーラに他ならない。あなたはこの先ずっと、その禍々しいオーラを纏って生きていくのですか?」

「嫌だ。そんなのは嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、…」

「では今ここで、それを脱ぎ捨てましょう」

「どうやって?」

林の言葉に、影の声が戸惑いの色を帯びた。

「初めて私がお会いした時の、あなたを思い出しましょう」

「思い出す…」

「永瀬先生に連れられ、私が初めて研究室を訪れた時、あなたは一人で食事をされていましたね?」

「そう、あの時は教室の留守番登板で、お弁当を食べていた」

「私が自己紹介するとあなたは、少し恥ずかしそうに挨拶を返してくれましたね。あの時あなたは何を思っていたのですか?」

「私は初対面の人が苦手だから。でも確か、日本語が上手だなと思った」

「ありがとうございます。私はあなたのことを、とても穏やかで優しそうな方だと思いましたよ。日本に来たのは初めてでしたので、あなたの様な方に接して、正直なところほっとしました」

「優しい。ほっとした…」

影は林の言葉を繰り返す。

「あの時のあなたを私は忘れません。あれが梶本恭子さんという人の本当の姿だと、今でも信じています」

「私の本当の姿」

「そうです。あれこそが梶本恭子という人なのです」

影は沈黙した。

「梶本さん、あなたに一つだけ教えて頂きたいことがあります」

「何?何ですか?」

影の口調が穏やかなものに変わった。

「本間雪絵(ほんまゆきえ)さんのことです」

「本間、雪絵…」

「そうです。彼女が消息を絶った時、箕谷さんはまだ研究室に顔を出していました。つまり彼女は箕谷さんよりも先に、貴方が殺害したと思われます。違いますか?」

「そう、私が殺した」

「どうして彼女を?」

「ここに逃げ込むところを見られたの。だから怖くて。気がついたらここにいて。あの子凄く怯えてて。大声を出そうとしたから、私も怖くなって…」

「それはあなたが、今の様に怒りのオーラを纏う前の出来事だったのですね?」

「そうだけど。まだ今みたいじゃなかったけど。でも体調は随分と悪かった。体中が重くて痛くて…」

影-梶本恭子は、既に現在の自身の姿を、過去のものと比較できる程に自覚していた。

「そうですか。既にあなたの体の変化は始まっていたんですね?ああ、私はそうなる前にあなたを訪ねるべきだった。そうすれば取り返しがついたかも知れない。本当に申し訳ありませんでした」

「どうして貴方が私に謝るんですか?」

影の口調は既に変わっていた。

「私はおそらく今回の異変を、誰よりも早く察知していたからです。それなのに何一つ積極的な働きかけをしていなかった。それが私には出来ていたにもかかわらずです。何と不甲斐ない。あなたに怒りのオーラを纏わせてしまった張本人は、もしかしたら私だったのかも知れない」

影は林の言葉に沈黙している。影を包んでいた怒りの色は既に消えつつあった。その大きさも、今では林と同じ程度まで縮んでいる。林は影に向かって、再び話しかけた。

「あなたは本間さんに対して、殺意はなかったのですね。ただ恐怖が、あなたに芽生え始めていた力を行使させてしまった。私はあなたが何故、彼女を殺害してしまったのか不可解でした。その時あなたがこの場所で彼女と遭遇していなかったなら、あなたは誰も傷つけてはいなかったかも知れない。何という偶然!何という不運!これがもし誰かが仕組んだ予定調和だったなら、何という悪意に満ちた企みなんだ!あなたは恐怖で一線を越えてしまった。そうだったんですね?」

「分からない。でも私は本当に怖かった。自分をあの子に見られたのが怖かった。だから頭が混乱して…。ごめんね、雪ちゃん」

最後に影は呟いた。そして影は静止し、急速に萎んでいった。

「もはや私の干渉は不要ですね」

その時世界のどこかから、<神>の声がした。

「ご協力いただきありがとうございます。あなたのおかげで梶本さんは、本当の自分を取り戻すことが出来たようです」

「貴方の様な人間と接触したのは、初めての経験です。私がいくら試みても、この人の怒りを消滅させることが出来なかった。貴方は何か特別な能力を持っているのですか?」

「いえ、特別な能力などありません。私が梶本さんに対して抱いていた感情を、そのまま彼女に伝えただけです」

「感情という人間の生成物を、私は所持していません。それは私にとって有害だからです。私がこの人の怒りを沈静化出来なかった理由は、私が感情を所有していないからなのですね?」

<神>の問に林は答えず、

「では私はこの世界から、そろそろ私の世界に戻ろうと思います。その前に、あなたにお聞きしたいことがあります」

と言った。

「受諾します」

「梶本さんの余命は、あとどのくらい残されているのでしょうか?」

「余命とは、生命活動が停止するまでの期間のことですね?私はそれに関する正確な情報を貴方に伝達することが出来ません。しかし心機能の低下状況から、おそらくこの人の余命は、現在から数えて30日より少ないと推察されます」

「そうですか…」

そう言った林の心を、梶本恭子への憐憫、彼女を襲った不運への怒り、そして拭いようのないの寂寥感が次々と通り過ぎて行った。彼の目の前には、すっかり小さくなってしまった影が蹲(うずくま)っている。

しばらくその影を見ていた林は、思い出したように<神>に問うた。

「あなたはこれから、梶本さんが亡くなるまでこの世界におられるのですか?」

「私には他に選択肢がありません」

「実はもう一つ選択肢があります」

「それはどの様なものですか?」

「このまま私と共に、私の精神世界に移動することです」

「その様なことが可能なのですか?」

「可能です。何故ならば、今私は梶本さんの世界と私の世界を繋いでいるからです。そしてあなたを伴って、私の世界に移動させることが出来るのです」

「私はその様な人間が存在するという情報を所有していません。やはり貴方は特殊な能力を持つ人間であると推察されます。しかし私は、貴方の提案に従うことは出来ません」

「何故ですか?」

「先程貴方に伝達したように、私の構成要素のかなりの部分が、この梶本恭子という人と融合しています。貴方の世界に移動するためには、この梶本恭子という人と融合している私の構成要素の一部を放棄しなければならないからです。しかしそうすることによって、私は、私の構成要素の多くを喪失し、私という存在を維持することが出来なくなります。結論として私は、貴方の提案を拒絶します」

「承知しました。では、私はこのまま私の世界に戻ります。もう二度とお会いすることはないと思いますが、あなたから知り得た情報は私にとって非常に貴重なものでした。最後にお礼を言わせてもらいます」

そう言いながら林は、世界のどこへともなく頭を下げた。

しかし最早、<神>からの応えは返って来なかった。

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