第三章 神々の黄昏 16節

【16-3】

「紀元前13世紀頃カナンの地で、神ヤハウェに対する信仰が生まれました。やがてバビロン捕囚の苦難を経てその信仰は強化され、ユダヤ教として発展していきました。ユダヤ教では神ヤハウェが唯一神であり、この世界の創造神であるとされています。そして<神>を絶対者、つまり人間の些細な感情など遠く及ばない、遥か高みに置きました。さらに偶像崇拝を厳しく禁じ、その姿を徹底的に抽象化しています。また<神>との契約と歴史、<神>に選ばれた者を通じて語られた予言、教義や戒律は聖典の中に集約しています。これは非常に合理的なシステムと言えるでしょう。何故ならば、<神>を絶対的位置に置くことで、人間の憎悪や羨望などという、ちっぽけな感情の対象外の存在として定義したからです。即ち<神>に向けて人間が発するエナジーを、<神>への尊崇や敬慕という一点に純化することが可能になります。そして<神>の姿を抽象化することで、多神教にみられる信仰対象の偏重、つまり特定の姿形として定義された、個としての<神>への信仰心の集中を、ある程度回避することが出来ます。さらに聖典という明文化された教義と戒律で、集団としての信徒の繋がりを強化することが出来ます。<神>ヤハウェが創造したそのシステムは、一つの宗教的革新だったのではないでしょうか。しかし一方でユダヤ教は、おそらくそれは<神>の意思ではなかったのでしょうが、その教義に選民思想などの要素を取り込むことによって、民族宗教としての枠組みの中から出ることが困難でした。それは現在も、教徒の75%がイスラエル国内に偏在していることからも明らかでしょう」

林はそこで一旦言葉を切った。永瀬は、仮にも宗教団体である九天応元会が、<神>を単に信仰の対象として仰ぎ見るのではなく、システムという観点から分析していることに、新鮮な驚きを覚えていた。宗教自身が、その様に客観性をもって宗教を見ているのだ。それが<神>の実在を前提としているとは言え、ある種の科学的仮説を聞いているようで、永瀬の学究としての好奇心を刺激するのかも知れない。

林の宗教論は続く。

「そして今から約2,000年前、ユダヤ教の中から新たな潮流が生まれました。そうです。キリスト教です。この世界最大の宗教は諸派に分裂しながらも、今日では世界全人口の三分の一に達する信徒数を獲得しています。キリスト教がこの様な巨大組織に発展したことには、当然のことながらそれ相応の理由があると考えられます。我々はその最大の理由を、キリスト教の根本的な教義の一つ、三位一体、または至聖三者と呼ばれる概念にあるのではないかと考えています。三位一体は難解な概念です。父と、子なるキリスト、そして聖霊は、それぞれは等しい存在ではない。つまり父は子ではなく、子は父ではないが、いずれも一つの<神>、即ち父は<神>であり、同時に子も<神>であるという教えです。この関係性は父と聖霊、子と聖霊にも当てはめられます」

「それは一人の<神>が、三つの異なる姿をとるということですか?あるいは夫々が<神>の一部ではあるということでしょうか?」

「永瀬先生、それは違うのです。父と子と聖霊は、夫々は異なる位格であるが、<神>という実体においては一つであるということです」

「難解ですね。簡単に理解することが出来ない」

「そうですね。三位一体の教えについては、キリスト教内部でもその解釈について歴史的議論がなされています。そして三位一体の教えを<理解>するのではなく、<信じる>ことが重要とされています。それはさておき我々九天応元会は、三位一体という概念は<神>の共同体の姿を的確に表現しているのではないかと推測しました」

「非常に興味深い仮説です。私は既にそれについての正確な記憶を消失してしまっていますが、私が所属していた共同体を信仰する人間の集団でも、その三位一体という概念が信じられていたと記憶していますから。何故あなた方はその様な仮説に至ったのですか?」

未和子は問うた。一方の蔵間は無言で聞き入っている。

「先程お話ししましたように、我が教団では世界の主要な宗教について研究してきました。その中で所謂(いわゆる)多神教と、エイブラハムの宗教との方向性の違いに、強い関心を持つようになりました。それは唯一神と多神という違いだけではなく、<神>という概念そのものの差異です。先程ご説明しましたように、多神教では殆どの場合、<神>の具象化が行われます。個々の<神>は固有の名称を持ち、その姿形が絵画や偶像という形で明確化されています。また各々の<神>についての物語が創作され、人々が個々の<神>の在り様を明確に認識出来るシステムを取っています。逆にエイブラハムの宗教では、<神>の在り様は徹底的に抽象化され、人々の形而下での認識を超越した高次元の存在としています。我々はその中で、何故キリスト教が三位一体という難解な教義を持つのか。何故キリストや聖母マリア、諸天使は、多神教の様に固有の名称や、具象化された姿形を持っているのか。ユダヤ教やイスラム教と比較して、キリスト教にはその様な特徴があることに注目しました。そして私は個人として、<神>と思われる存在と、父の精神世界の中で直接コンタクトしました。その過程で人間の発するエナジーが、<神>にとって、その存在を維持していくために必要不可欠であることを知りました。私自身のこの経験と長年に渡る教団の研究結果を元に、我々は仮説を作り上げたのです。それが最初に申し上げた、宗教的に定義された<神>という概念は、実在する<神>が、人間からエナジーをより効率的に獲得するために設計されたシステムではないかということです」

永瀬はその着想の大胆さに瞠目した。これまで永瀬にとって、宗教と<神>という言葉は、人間の内面世界に関連する抽象的なものとして捉らえていたからだ。しかし林と彼の教団は、宗教を<神>が必要とする物理的なエナジーを効率的に生成し獲得するための、具体的なシステムとして捉えているのだ。その飛躍した発想に、彼は科学者として興奮を覚えずにはいられなかった。そして林の宗教論は、更に続く。

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