第三章 神々の黄昏

第三章 神々の黄昏

【14】

苛々する。

電車の中でジャカジャカ音楽を鳴らしている会社員風の若造。

自分の世界に浸っているんじゃねぇよ。

うるさいんだよ。耳障りなんだ。

音量を絞って迷惑を掛けてないつもりか?

音が漏れてるんだよ。十分うるさいんだよ。

狭い電車の中だぞ。いい加減に気づけよ。

自分はただ、この音楽が好きで聴いてるだけだ――とか思っているんだろう?

そんな手前勝手な理屈で、他人を苛立たせるなよ。

こっちは朝っぱらから、そんな耳障りな音は聞きたくないんだよ。

しかも何でこんな迷惑な奴に限って、最後の駅まで同じ電車に乗っていやがるんだ。

何でこんな鬱陶しい音を、ずっと聞き続けなきゃならないんだ。

他人がお前に何か迷惑でもかけたか?

お前が一方的に周りに嫌がらせをしているだけだろう。

イヤホンを引きちぎって、口に突っ込んでやろうか。

それに何だ?その寝癖頭は。つんつん髪の毛を突っ立てやがって。

アニメの孫悟空にでもなったつもりか?サイヤ人かお前は?

そんな髪型で会社に行ってるんじゃねえ。いっぱしの社会人だろうが?

お前の上司は注意しないのか?

それともお前は、会社員の振りをしているだけか?

本当はまともに就職も出来ずに、毎日ぶらぶらしてるだけか?

それなのに社会人の振りしやがって。

こんな朝っぱらからわざわざ電車に乗って、真面目に仕事するために通勤している皆さんに、騒音公害を垂れ流して迷惑かけていやがるのか?

どうせ自分が就職出来ない腹いせでやってるんだろう。

自分が就職出来ないのは、学校の就職課の担当者が無能だとか、面接官の質問が悪いとか、何でもかんでも他人のせいにして、自己逃避しているだけだろう。

お前なんか一生掛かっても、まともな会社に雇ってもらえる訳ないだろう。

世の中を舐めてるんじゃねぇよ。

お前みたいな、何の能力もないくせに、世の中に迷惑だけを垂れ流している奴なんか、まともな会社が相手にする訳がないだろう。

それが解かってんのか?まったく解かってねぇだろう。

お前生まれてから一度でも、社会に貢献したことあるか?

ないだろうがよ。社会に寄生してるだけだろうがよ。

お前みたいな奴は、今すぐドナー登録して自殺しろ。

そして臓器提供しろ。

それが、唯一お前が社会貢献出来る道だ。

さっさとそうしろ。

ああ、ようやく駅についた。

やっとこの馬鹿から解放される。

しかし自分はどうしてしまったのだろう?どうしてこんなに苛立ってるんだろう?

ふとそう思うと、急激に気分が冷めて落ち込んで来た。


***

永瀬晟(ながせあきら)と林海峰(リンハイファン)が蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)宅を訪れたのは、7月も終わりに近い日曜日の午後だった。

その日は前日にも増して、茹だる様な暑い日だった。気温は全国的に35℃を超え、場所によっては40℃を超えているようだ。そして突然天候が急変し、ゲリラ豪雨と呼ばれる激しい雨が降ったりするのだ。最近の10年あまりの間に、異常気象という言葉が日常に思える程、極端な天候が続いている。

最寄り駅で林と待ち合わせ、蔵間父娘の住むマンションに向かう間、永瀬はずっと気まずい雰囲気の中にいた。林の体験談を聞いたあの夜以来、研究室で毎日林と顔を合わせるのは、永瀬にとってかなり気が重いことだった。もちろん普通に会話はするのだが、態度はどうしてもぎこちなくならざるを得ない。永瀬にとって救いだったのは、林があれ以来自身の体験談には一切触れず、それ以前と変わらない態度で永瀬に接したことだった。しかし彼のその態度が、返って不気味に感じられたことも否めない。

この日、永瀬と林が蔵間家を訪問したのには理由があった。1週間程前に突然蔵間に呼ばれた永瀬は、林を連れて自宅に来るよう言われたのだ。用件を聞いても、余りはっきりとした答えは蔵間から帰ってこなかったが、どうやら林に対して、研究室では話し難いことがある様子だった。

ロンドンからの帰国後、蔵間は永瀬を含む研究室の職員や学生たちを、個別に教授室に呼んで話をするようになった。それは渡英前には考えられなかったことだったので、蔵間のその豹変ぶりに永瀬は何となく違和感を覚えていた。以前の蔵間は、余程のことでもない限り、学生や研究生を教授室に招き入れることはなかった。永瀬たち職員ですら、それ程頻繁に呼ばれることはなかったからだ。

蔵間顕一郎という人は、数多いる東都大学の教授陣の中でも飛び抜けて威厳のある人で、逆に言えば周囲から親近感を持たれるタイプでは決してなかった。もちろん蔵間の方から周囲に対して過剰な親近感を示すことはなく、特に学生たちからは敬遠されがちだったのだ。その蔵間が突然個別面談を始めたので、学生たちは勿論のこと、永瀬もかなり驚いてしまった程だ。しかしかと言って、突然蔵間の親近感が増したということでもなく、相変わらず威厳は保っている。ただ周囲の人間に、これまでには見られなかった程の関心を向けているように思われた。

実際に蔵間から呼ばれた学生たちに面談の様子を聞いて見たが、特別なことを訊かれた訳ではなかったようだ。研究の進捗状況であったり、日常の生活ぶりなどについて質問されただけだったらしい。永瀬も研究室の状況について訊かれただけだった。しかし、その様な蔵間の変化が原因なのかどうかは判らないが、最近何となく研究室の中が落ち着かないような気がしてならなかった。どこがどういう風にと聞かれても、明確には答えられないのだが、永瀬は毎日何となく落ち着かない気分で過ごしていた。それはおそらく、林海峰から奇妙な話を聞かされたせいでもあるのだが、蔵間の変化が原因の一つであることも間違いないと思われた。

――そう言えば以前林さんに、教授の雰囲気が渡英前と後とで変わっていないかと訊かれたことがあったな。

永瀬は歩きながら、そんなことを思い出していた。

駅から10分程歩いた場所にある蔵間のマンションに着いた永瀬たちは、エントランスの壁に設置されたシルバーのセキュリティボードの数字版を操作して、蔵間宅の部屋番号を押した。数秒置いてインターフォンから、娘の未和子(みわこ)らしい声がした。

永瀬がインターフォンに向かって名乗ると、「どうぞ」という未和子の声に続いて、カチャリと玄関のロックが解除される音が鳴る。永瀬たちは玄関フロアに入り、エレベーターで3階に向かった。エレベーターを降りると、フロアの一番奥にある、蔵間の部屋のインターフォンを鳴らした。少しの間をおいてドアが開き、未和子が中から顔を覗かせて挨拶する。

久しぶりに未和子を見た永瀬は、相変わらず綺麗な人だな――と素直に思った。父の蔵間とは余り似た所がないので、多分亡くなった蔵間婦人の血を色濃く受け継いでいるのだろう。未和子にいざなわれて応接室に通された永瀬たちは、勧められたソファに並んで座った。するとすぐに蔵間顕一郎が部屋に現れ、永瀬たちの前に座ったので、二人は慌てて立ち上がり、彼に挨拶する。

室内は空調が利いていて、非常に快適だった。

一旦部屋を出た未和子が、高級そうなティーセットの乗った盆を持って入って来た。そしてテーブルに四人分のティーカップを並べて紅茶を注ぐと、黙って蔵間の隣に座った。彼女も会話に参加するようだ。室内に淡い紅茶の香りが漂う。

ティーカップに口をつけながら、

「今日も暑いですね」

と永瀬が差しさわりのない話題を振ると、蔵間は「そうだね」と首肯し、次に林に向かって驚くべきことを言った。

「今日来てもらったのはね、林さん。君が18歳の時に体験したという、精神世界の詳しい話を、直接君の口から聞きたいと思ったからなんだよ」

「先生、何故そのことをご存じなんですか?もしや林さんから」

あまりに意外な展開に、永瀬は驚いてそう訊ねる。何故なら、林から聞いた体験談は彼にとっては常識外れ過ぎて、自身の中でその内容をまだ消化し切れていなかったからだ。当然のことながら、蔵間を含め他人にはそのことを一切語っていない。それが突然蔵間の口から飛び出したので、永瀬はその先の言葉を失ってしまった。

「いえ、私は蔵間先生には一切お話ししていませんよ、永瀬先生。おそらく蔵間先生は、先生の記憶をお読みになったのではないでしょうか」

永瀬は驚いて林を見た。

――この男は一体何を言っているのだ?

そう思った時、蔵間が満面の笑みを浮かべて言った。

「林さん、君は実に興味深い人だね。そうだろ?未和子」

「ええ、とても」

蔵間父娘は心底嬉しそうな表情を浮かべて、二人して林を見つめた。

その視線に微笑で応えた林は、

「蔵間先生、未和子さん。先程から頻りに私に接触を試みていらっしゃいますが、残念ながらそれは不可能です。先生は以前から何度も試みておられますので、既にご承知だと思いますが」

と、またも意味の分からないことを言う。

「何故不可能なのだね?」

という蔵間の問いに対しても、

「それは私が、あなた方のその様な行為を妨げることが出来るからです。尤もそれは、対象があなた方の様な方々であると、私が事前に承知している場合に限られますが」

と、更に謎の答えを重ねる。永瀬はその状況に著しく混乱し、激しく狼狽した。

しかしテーブルに身を乗り出すようにして林を見つめていた蔵間は、

「君は本当に興味深い人間だね。よかろう。君に直接干渉するのは止めておこう。話を続けたまえ」

と言ってソファに背を預け、林を促した。

「ありがとうございます」と林は軽く会釈を返す。未和子も元の姿勢に戻り、口元に微笑を湛えて林を見つめる。一人会話から取り残された永瀬をよそに、林は自身の不思議な体験について、詳細に蔵間父娘に語った。二人はその話を聞く間中、終始沈黙していたが、爛々と熱気を帯びたように見開かれたその目は、彼らの関心の高さを如実に物語っていた。二人のその様子を見た永瀬は、背筋に悪寒が走るの感じた。

林の話を聞き終えた蔵間は、

「非常に興味深い話だ。ところで林君、一つ訊いてもよいかね?」と言った。

「どうぞ」と林が促す。

「君は、君が父上の精神世界の中で邂逅した者を、何故<神>だと思ったのかね?」

「正確には嘗て<神>であった者と仰いましたわ、お父様。ねえ林さん、そうでしょう?」

蔵間の問いに、横から未和子が口を挿む。

「そうです」と林は答え、

「その理由を説明するために、私の遠祖である林清虚(リンチィンシィー)の話をさせていただいてよろしいでしょうか?蔵間先生、未和子さん」

と続けた。

蔵間は頷き、未和子は「どうぞ」と促す。二人の目は、相変わらず強い興味の光を帯びている。

「永瀬先生には以前ご説明しましたが、私は成都大学に在籍すると同時に、九天応元会(きゅうてんおうげんかい)という道教教団の教主の地位におります。九天応元会は現在から遡ること約1,100年前、中国歴代王朝の中の唐代末期に成立しました。その初代教主が林清虚、私の遠祖に当たる人物です。師である汪愈(ウアンユー)から、九天応元会の前身である、地方の道教教団を引き継いだ清虚は、教団名を九天応元会と改め、それまで以上に道(タオ)の探求に没頭し始めたそうです」

そこで林が言葉を切って蔵間たちを見るが、二人は無言のままだった。彼らに口をさし挿む意思がないのを見て取ると、林は話を続ける。

「その過程で清虚は、他教で信仰の対象となっている<神>の存在に強い関心を持つようになりました。当時唐には、儒仏道の三教以外の多くの宗教が国外からもたらされていました。ネストリウス派キリスト教である景教、ユダヤ教、ゾロアスター教、マニ教等の宗教です。それらの宗教では、例外なく<神>が信仰の対象でした。道教における太上老君や諸神仙は、厳密に言えば他教における<神>の様な信仰の対象ではなく、道(タオ)との一体化を目指す上での先駆者と言った方が正確だと、私共は考えています。尤も、実際は大衆信仰の対象となっているため、非常に紛らわしくはあるのですが」

林はそこで一息つくように、冷めた紅茶を一口飲んだ。

未和子が、

「何か冷たいものをお持ちしましょうか?」

と言うと林は、「お願いします」と言った。話続けてのどが渇いたのだろう。永瀬も渇きをおぼえたので、「私もお願いします」と頼んだ。未和子は立ち上がってティーセットを盆の上のまとめると、応接室を出て言った。

残された三人はいずれも無言だった。蔵間は静かに目を閉じていたし、林は表情を消している。永瀬はと言うと、この場の雰囲気に全く順応出来ず、胃を持ち上げられるような緊張感を味わっていた。しばらくして美和子が、冷たい麦茶の入ったコップを人数分盆に載せて戻ってくる。林と永瀬は揃って「ありがとうございます」と礼を言い、コップを手にした。永瀬は自分の喉が緊張でカラカラになっていたことに、その時になって漸く気づいたのだった。よく冷えた麦茶が、渇いた喉に心地よかった。

コップ半分程の麦茶を飲んだ林は、「では」と一言断ると話を再開した。

「さて、<神>という概念に興味を抱いた清虚は、やがて<神>についてより深く知ることが、道(タオ)との一体化に繋がるのではないかと考えるようなりました。そして彼は教団の運営を幹部たちに一時委ね、成都から旅立ちました。目指したのは数々の宗教がもたらされた、西方の国でした。幾多の辛苦を重ねた後に、彼は現在のアフガニスタンに到達したと考えられます。当時アッバース朝イスラム帝国の支配下にあった彼の地では、既にイスラム化が進んではいましたが、まだヒンズー教や仏教、ゾロアスター教等の他教の影響も色濃く残っていたようです。そして清虚は、様々な宗教の聖職者たちと交流を持ち、やがてそこで<神>との交信の機会を持ったと伝えられています」

「<神>との交信ですか!?それはつまり、<神>の声を聴いたということではなく、<神>とコミュニケーションをとったということですか?」

蔵間父娘は黙ったままだったが、永瀬は思わずそう聞いてしまった。

「そうです永瀬先生。清虚は<神>と双方向のコミュニケーションを交わしたとされています。具体的には清虚が<神>の意思や記憶に触れ、また<神>も彼の意思や記憶に触れるという交流だったようです」

「そんな」

そう言って永瀬は絶句する。

「永瀬先生が困惑されるのも無理はないと思います。おそらく私が現在語っている清虚の体験は、先生にはテレパシーのような超能力を想起させる内容に聞こえるのかも知れません。それは無理のないことなのです。何故ならば、この話は私が祖父から伝えられた、教団内でも極めて限られた者にしか開示されない秘儀の様なものですから。私がもし先生のお立場で、この話だけを聞いてれば、全く同じ感想を持ったと思います」

「しかし」と言って林は言葉を切った。永瀬は彼の次の言葉を待って固唾を飲む。やがて不思議な雰囲気を漂わせる道教教団の教主は、静かな、しかし明確な口調で語り始めた。

「私自身が清虚と同じ体験をしていることを思い出して下さい。まさに彼が1,000年以上も前に経験した<神>との交信を、私自身も10年程前に実体験しているのです。あの時私は、おそらく嘗て<神>であったと思われる者と、言葉ではなく直接意思や記憶のやり取りを行ったのです」

「林君、一つ質問してよいかね?」

そう言って蔵間が、永瀬と林とのやり取りに割って入った。

「君は何故、君が父上の精神の中で邂逅した存在を、<神>ではなく、<嘗て神であった者>だと考えているのかね?」

「蔵間先生が疑問に思われるのはご尤もだと思います。ご質問にお答えするために、もう少し林清虚と教団の歴史についてお話しさせていただいてよろしいでしょうか。」

「構わないよ。君の話は私と美和子にとって非常に有意義だ。是非そうしたまえ」

「ありがとうございます」と言った後、林は少し姿勢を正して続けた。

「西方での経験を携えて帰京した清虚は、教団の運営方針に新たな方向性を加えました。これまでの様な修行による道(タオ)の追及に加えて、<神>についての探求を教団の大きな目的としたのです。その目的に沿って、九天応元会は世界中の神と宗教についての研究を始め、今なお続けています。そして我々は、<神>について一つの仮説に至りました」

「それは?」

林の言葉に引き込まれ、永瀬は呟くように訊く。

「<神>とは単なる宗教的概念の中の存在でなく、実在するある種の生命体ではないかということです」

「生命体!?」

「そうです。もし生命体と言う言葉に語弊があるのだとすれば、そうですね、思考し、記憶し、意思を持つエネルギーと言い換えた方が、我々の仮説に近いでしょう」

永瀬はもはや言葉を失っていた。しかし蔵間父娘は、益々興味深げな表情を浮かべて林の次の言葉を待っている。それに応えるように林は言った。

「そして永瀬先生、今貴方の目の前にいるお二方は、<神>なのですよ」

「な、何ですって?!」

林から発せられた衝撃的な一言に、永瀬は思わず立ち上がっていた。しかし彼を除く三人は一様に沈黙し、彼を見上げている。その瞬間永瀬は、室内の温度が急激に下がったような感覚に襲われた。

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