第二章 教主林海峰(承前4)

【13】

林海峰(リンハイファン)が意識を取り戻した時、彼は曖昧な色合いの中にいた。

最初彼は、自分が意識を失っている間に時間が経過し、いつの間にか黄昏時になったのかと思った。しかし周囲の色は、彼が知っている世界の、光の明暗の度合いによって作られる色とは明らかに異なっていた。そこには確かに色があるのだが、それがどのような色なのか認識出来ないのだ。例えるならば、夢の中で見る色の様だった。

――自分は夢を見ているのだろうか。

海峰はそう思った。しかし潜在意識が、そこが夢の世界であることを明確に否定している。彼は自分が今、これまで自分が知っていたものとは違う世界にいることに気づいたが、不思議と恐怖心は湧いて来なかった。幼少期に、このような世界を垣間見た記憶が蘇って来たからだ。その世界はかなり薄暗かったが、かと言って周囲の光景が見えなくなる程ではない。そこはモノトーンの世界ではなく、様々な色彩を持っていることは判るのだが、やはり個々の色を特定することは出来なかった。ただ、全てが薄暗い色調だという印象だけがあった。

海峰が一歩前に踏み出すと、周囲の様々な色が彼の全身に纏わりついて来た。まるで個々の色が意思を持っているかのようだ。その感触は、海水よりも少し粘性の高い液体のようだった。海峰は足元を踏みしめてみたが、地面を踏んだ時に感じる反作用は、足の裏に返って来なかった。かと言って足が沈み込むようなこともなかった。頼りないその感触は、何か未知の物質を踏んでいるようで、とても不安定だった。

――自分の足元にも、周囲を取り巻いている色のような、不可思議な物質が広がっているのだろうか。

海峰はそう思ったが、それを意識し過ぎると、自身の空間認知を失いかねない気がして、前方の一点に意識を集中し、少しずつ歩を進めることにした。そのように意識を集中できること自体が、今自分のいる場所が夢の世界ではないことを明確に示していると、歩を踏み出しながら彼は再認識した。

しかし彼が歩き出したその途端に、それまで感じていた液体のような色の感触とは明らかに異なる、なにか濁りのような物が周囲から湧き出て、体中にまとわりついてきた。それは体に付着した途端に急激に密度と容積を増し、彼の全身を圧迫するように包み込んでくる。粘性の高い物質に、全身が浸かっているような感覚だった。

その中を海峰は、藻掻くように手足を動かしながら進んだ。すると今度は、その濁りから小さな触手のような物が幾つも出てきて、体のあちこちに触れて来た。そして彼がその触手に意識を向けた瞬間に、それは言葉へと変容した。その言葉は意味を成していなかったのだが、何故かそれが意味を持つ言葉であることだけは認識することが出来た。しかしその意味を理解しようとすると、途端に全身がバラバラになって、周囲の世界に拡散して行ってしまうような恐怖を感じて、海峰はひたすら前方の一点に意識を集中し、進み続けた。

それは彼にとって、非常に過酷な作業だった。ともすれば体を包んだ濁りに、意識を向けてしまいそうになる。無数に湧き出て来る言葉らしき触手が、引きも切らずに彼の体に纏わりついて来たからだ。それでも彼は、ひたすら進んだ。どれ程の距離を進み、どれ程の時間が経過したのか、彼が認識することすら出来なくなったその時、世界は唐突に開け、気が付くと周囲からは濁りが消えていた。世界の色調自体は前と変わらず暗かったが、既に体に纏わりついて来るものは何もなかった。

やがて前方に仄かな明るさを見つけた海峰は、その場所へと歩を進める。そこは周囲の薄暗い空間よりも、ほんの少しだけ明るい色をしていたが、周囲の暗さに圧迫されているように、辛うじて小さな球体の形を保っていた。そしてその球体の中には父の林紫嶺(リンヅゥリン)がいた。父はあの土牢の中に垣間見えたのと同じ姿勢で蹲っていた。

海峰がその明かりに近づくと、突然周囲から圧倒的な質量を感じさせるものが押し寄せて来た。それは無色透明で特定の形すら持っていなかったが、そこに確かに存在していることを、彼ははっきりと知覚することが出来た。海峰を包み込んできた、その不定形のものから、やはり触手の様なものが無数に出てきて、彼に触れてきたようだ。彼はそのことをはっきりと感知した。やがてそれは、明確なメッセージへと変質していった。

『お前はこの男の息子なのだな?答えなくとも良い。今そのことが明確に認識できた。戸惑っているようだな。お前をここに呼んだのは己(おれ)なのだ』

<己>との対話は、そのようにして始まった。

「貴方は誰だ?」

『己は己だ』

「ではその<己>という貴方に尋ねよう。ここはどこだ?」

『ここは、お前の父の精神があった場所だ』

「それは父の精神の中の世界ということか?」

海峰がその答えにやや戸惑って<それ>に質すと、「そうだ」という明確な答えが即座に返ってきた。彼はその答えに、さらに戸惑いを感じたが、現在の状況に対する好奇心の方が勝り、<己>との問答を継続することにした。

「何故貴方は父の精神の中にいるのか?」

『己にとって、それが必要なことだったからだ』

「なぜ必要だったのか?」

『己には存在する場所が必要だからだ』

「貴方は人の精神の中でしか生きられないのか?」

『生きるということが、お前たち人間が生命を維持するという意味と同義であれば、それに近いだろう。しかしやや異なる』

「異なるとは?」

『己には、お前たち人間のように寿命というものはない。肉体を構成する細胞の分裂機能の低下などによって、生命活動を停止することがないという意味だ。己が存在するために必要な環境の中であれば、常に存在し続けることが出来るのだ』

「その環境が人間の精神世界ということか?」

『そうだ』

「それでは、貴方が存在する人間の精神世界が、その人間の生命活動の停止と共に消滅すれば、存在出来なくなるということにならないか?」

『お前の認識は正しい。人間の寿命は非常に短い。従って己が存在し続けるためには、己が存在する精神世界を有する人間が生命活動を停止する際に、別の人間の精神世界に移動しなければならない』

「何故、人間が生命活動を停止する際でなければならないのか?それは貴方が、他の人間の精神世界に、自由に移動することが出来ないということか」

『お前の認識は正しい。己は一度人間の精神世界の中に入ると、その人間が生命活動を停止したり、何らかの原因で精神活動が停止するなどして、その人間の精神世界が消滅するまで、その中から離脱することが出来ない。お前をここまで誘導したように、己の一部を外部に出すことは可能だ。しかし精神世界内部の己と、常に連結している必要がある。そして己の存在全体を離脱させることは、その精神世界が消滅した後にしか不可能なのだ』

「貴方は今、『一度人間の精神世界の中に入ると』と言った。それは貴方が他の人間の精神世界から、私の父の精神世界へと移動してきたということか。それは父が消息を絶った後の、最近二か月間のことなのか。そもそも貴方はどこから来たのか?」

海峰が<己>に問うと、突然様々な情報が彼の意識の中に直接流れ込んで来た。それは、彼が今対話している<己>の記憶らしかった。それは所々破損していて、断片的なものも多かった。海峰は膨大な量のその記憶を消化するのにかなり苦労したが、やがて<己>が存在してきた歴史を大筋で理解することが出来た。

その記憶は、中世と思われる時代の、イタリアの田舎町にあったカトリック教会の司祭と、<己>とが共生している時から始まっていた。それ以前の記憶はその殆どが損耗していて、内容を明確に読み取ることが出来なかったが、その司祭と共生していたその時代までは、<己>が人間の精神世界の中ではなく、外部に存在していたことだけは、辛うじて判別することが出来た。

そして共生していたその司祭の死が、<己>の存在形態を大きく変えてしまったようだ。司祭の死によって、<己>は外部の世界から、ある男の精神世界の内部に移動せざるを得なくなったからだ。それまで<己>は、司祭とその周囲に暮らすカトリック信者たちから、自身の存在を維持するために必要な<エナジー>というものを得ていたようだ。それは人間の精神活動によって産出されるもののようであった。それは人間にとっての食料のように、<己>の存続に必要不可欠のものらしかった。

その時<己>が共生していたカトリック司祭は、一人の従者を連れ、イタリア南西部のサルディニア島にある田舎町からバチカンへ向かう旅の途上にあった。新たな教皇の就任の儀式に参加することが旅の目的だった。サルディニア島からコルシカ島、更にエルバ島に渡った彼は、島の東部にある小さな漁港で本土へ渡航するための漁船を雇った。しかし運の悪いことに、その漁船の持ち主であるパオロという名の漁師は、その名の由来となった聖者パウロとは対極に位置する存在であったのだ。彼は漁師を隠れ蓑としながら、専ら盗賊を生業とする男だった。

本土を目前にした洋上で司祭と従者はパオロに殺害され、海へと投げ込まれてしまった。その様な状況下で、<己>の選択肢はパオロとの一時的な共生しか残されていなかった。何故ならば、<己>は人間の精神が発するエナジーを一情報として感知することでしか、自律的に移動することが出来なかったからだ。そしてその時<己>が感知できる範囲に、人間は存在していなかった。もちろんパオロ自身の移動に付随して行くことも可能だったが、彼の精神から放出されるエナジーは、<己>にとって有害な不純物で満ち溢れていたのだ。そのままでは短時間のうちに、<己>が深刻なダメージを受けることは明瞭だった。さらにパオロという人間とは、それまでのように外部の世界に存在しながら共生する形態をとることが困難であった。彼が発するエナジーに含まれる有害物質の流出を、外部からコントロールすることは困難だったからだ。パオロという盗賊と共生するためには、彼の精神世界の内部から有害物質の発生をコントロールしなければならなかった。

その時<己>は決断を迫られた。

自身を構成する要素、特に記憶が急速に消滅していて、そのままではやがて自身の存在を維持していくことが困難であると予測されたからだった。最早<己>には、そのまま消滅を待つか、パオロの精神世界に入り、内部から有害物質の発生をコントロールするか、二者択一の道しか残されていなかったのだ。<己>は人間の精神世界に入ってしまうと、容易にそこから抜け出すことが出来ないことを知識として持っていた。しかし<己>は、パオロの精神世界の中に入ることを選択せざるを得なかった。

パオロの世界は、<己>がそれまでに経験したことのない場所だった。

そこは、ありとあらゆる種類の有害物質で満ち溢れていた。その世界に入ると同時に、欲望、嫉妬、憎悪、蔑視、悲しみ、怒り、…――人間がそう定義する有害物質が、吹き荒れる烈風のように<己>に襲いかかり、毒素の様に浸み込み始めた。漸くにして、周囲に渦巻く有害物質の嵐を制御するに至った時、<己>は既にそれらの有害物質によって大きな影響を受けてしまっていた。そのことに危機感を覚えた<己>は、周囲のエナジーを制御するだけでなく、パオロの精神世界そのものを制御することを決断した。そうすることによって有害物質に満ちたその世界を、<己>が存在可能な世界へと改良しようと試みたのだった。

しかしその試みは成功しなかった。パオロの精神活動のベクトルは、常に負の方向に向かって流れるように出来ていたからだ。その流れを止め、自身の目指す方向へと転換させる作業を延々と続ける中で、<己>はパオロが絶え間なく発する負のエナジーに侵され、深刻なダメージを負ってしまった。<己>にとって幸いだったのは、それから数か月後にパオロが捕らえられ、それまで犯してきた数え切れない程の罪によって処刑されたことだった。その死と同時に、<己>はパオロの世界から解放された。そうでなければ、パオロの世界の中で消滅するか、あるいは違う存在に変容していたかも知れない。しかし一旦人間の精神世界に入った<己>にとって、既に外部の世界は生存に適した場所ではなくなっていた。パオロの精神世界の中で<己>の構造に変質が起こり、外部の世界で生存に必要なエナジーを、以前の様に摂取することは機能的に困難になっていたことが原因だった。その時から<己>は、外部の世界に在りながら人間と共生するのではなく、人間の精神世界の中に存る者へと、自身の位置づけを変えざるを得なかった。

しかし人間の精神世界の中では、<己>はその人間の精神からの影響を強く受けざるを得なかった。その結果、精神世界の移動を繰り返すたびに、<己>は本来の形から、大きく変容してしまっていたのだ。そのことを<己>自身は認識していないようだったが、客観的にその記憶を見た海峰にとっては、パオロの世界に移動する前と、現在の<己>の違いは明確過ぎる程だった。外部の世界で存在していた頃の<己>は、人間が発する精神エナジーを吸収すると共に、様々な人間の記憶情報を収集し、分析し、取捨選択することによって情報を最適化した上で、自身の構成要素の一部として記録していた。つまり純粋に情報を収集し、思考し、判断し、記憶する存在だったのだ。しかし人間一個体の精神世界の中では、その人間固有のバイアスがかかった情報しか取得できないため、<己>が記憶する情報に、いびつな嗜好性が生じたのだ。そして<己>が次の人間の精神世界に移動した際に、同一事象に対する相反する情報が存在した場合には、片方の情報が上書きされるか、あるいは両方の情報が消去されてしまうのだった。数百年にわたって、自身の中でその様な情報の錯綜が繰り返されることで、自身の構成要素である記憶情報の混迷と消失を経験した<己>は、大きくその在り方を変容させてしまったのだった。

『己の存在していた過去の情報を、お前は認識したようだな』

そこまで海峰が思い至った時、<己>が彼に問うた。この世界の中では、彼の思考は<己>に筒抜けのようだ。

「はい、明確に。その上で貴方に幾つか問いたいことがある」

『許可する』

「私は現在、何故この世界にいるのか?」

『己が、己の一部をこの世界から外部に出し、お前の世界と連結しているからだ。ここはお前の父の世界でもあり、お前の世界でもある』

「それは今、私の世界と父の世界が融合しているということか?」

『融合というよりも、同期しているという方が正確だろう』

「何故貴方は、私とここに呼んだのか?」

『その問いに関しては後で回答する』

「では次の質問に移りたい」

『許可する』

「貴方は何故、父の世界を移動先として選択したのか?」

その問いを発した途端、海峰の意識に新たな<己>の記憶情報が流れ込んで来た。

父の紫嶺ヅゥリンは二か月前に、ある男を訪ねていた。そしてその男の精神世界に、<己>が存在していたのだった。父はそれ以前にも数回、その男の元を訪れ面談していたらしい。教団本部の近隣で暮らしていたその男は、奇矯ともとれるその言動ゆえに、周囲から妄人として扱われていた。しかし紫嶺はその男の言動に興味を持ち、その男を訪ねては、僅かばかりの金銭を与える見返りとして、様々な質問を繰り返していたようだった。

紫嶺が最後に訪れた時、男は死の淵にあった。仕事先の工事現場での作業中に事故に遭い、瀕死の重傷を負ってしまったからだ。そのことを知った紫嶺は男が収容された病院を訪れ、男の臨終に立ち会うことになった。その時<己>はその男の精神世界から、紫嶺の精神世界に移動したのだった。しかし紫嶺は、何故か<己>の侵入を感知したらしい。彼は侵入してきた<己>に対して、激しく抵抗した。その様に抵抗を受けることは、<己>にとっては初めての経験だったようだ。それまで<己>は、自身の存在を認識させないよう、精神世界の所有者である人間の意識を巧妙に制御しつつ、その世界に適合してきたのだった。その結果、<己>がこれまで共存してきた人間は、誰一人自身の中の<己>の存在を認識することなく一生を終えていたのだ。

しかし紫嶺に対しては、その方法を放棄せざるを得なかった。既に彼の精神世界に移動し終えていた<己>は、最早外部に出ることはかなわず、そのまま抵抗を続けられると、自身が消滅してしまうという危機感を覚えたからだ。そして<己>は、紫嶺の自我を破壊することを選択した。その結果彼の精神の中核は、自身の精神世界の片隅に追いやられてしまい、林紫嶺としての自我を失った廃人となってしまったのだった。

海峰は父を襲った理不尽な出来事を知り、怒りと同時に不可解さを覚えずにはいられなかった。

――爸爸(パーパ、父の意)は何故、<己>の侵入を感知出来たのだろう?その様な能力が父にはあったのだろうか?

――それは自分が嘗て持っていた、周囲にいる不可視の存在の声を聴く力と同じものなのだろうか?

――すると嘗て自分に語り掛けていた者たちは、この<己>と同じような存在だったのだろうか?

次々と疑問が湧き出てくる。しかしそれを一旦置いて、海峰は<己>に訊いた。

「それではもう一度質問する。何故貴方は、私をここに呼んだのか?」

『この男を、この場所から物理的に解放するためだ。お前でない他の人間でもよかったのだが、己が影響を及ぼせる範囲内で、己に反応できたのはお前だけだったのだ。そのお前がこの男の息子であったことは、非常に興味深い。お前たち親子には、その様な遺伝的体質が備わっているのかも知れないと、現在己は思考している』

「何故父を、ここから解放する必要があるのか?」

『この男の精神世界が、今まさに崩壊しようとしているからだ。もはやこの男からは、己の構成を維持するだけのエナジーを得ることが出来なくなると推測される。今は己がこの男の精神活動を操作して、少量のエナジーを生成させているが、限界に近付きつつある。従って己は、この男をこの閉鎖された場所から外に出し、この男の精神世界が崩壊する時に、他の人間の精神世界へと移動する必要があるのだ』

「父の精神活動を直接操作することが可能であるならば、何故貴方は父との共存を選択しなかったのか?父の自我を破壊する程の力があるのであれば、他の人間にそうしてきたように、父の意識を制御して、共存することは難しくなかったのではないか?」

『先程お前に与えた情報を思い出すがいい。お前の父は己の存在に気づき、激しく抵抗したのだ。具体的には、己を自身の世界の中で封印しようとしたからだ』

「封印とは?」

『己を精神世界の特定の領域の中に入れ、そこから領域外部への干渉を出来なくすることだ』

「その様な能力が、父にあったというのか?」

そう問いかけながら海峰は、自身の中で何かが起動するのを感じた。そしてそのことを<己>に感知させてはならないという、強い思いを同時に抱いていた。そんな彼の思惑に、その時<己>は気づいていないようだった。もしかしたら、父林紫嶺リンヅゥリンの思念の残滓が、その時の彼や<己>に働きかけていたのかも知れない。海峰は、後になってそう思うのだった。

『それは分からないが、お前の父はその様な手段を試みようとした。従って己は、お前の父の自我を破壊してでも、その試みを拒否しなければならなかった。何故なら、その様な特定の領域の中に存在して外部の精神世界に干渉出来ない状況を、己はこれまでに経験したことがなかったからだ。己はお前の父に封印されることによって、存在が消滅することを危惧したのだ。しかし現在の状況も、己の存続にとって適していない。何故なら、この人間の自我を破壊することによって、精神活動レベルも同時に低下させてしまったからだ。繰り返しになるが、己は存在に必要なエナジーを得るために、己自身でこの人間の精神機能を直接操作して、エナジーを生成させなければならない。この様な状況は己の記憶の中に存在しない。そしてこの人間の精神機能自体が、時間経過とともに低下している。このまま対策を取らなければ、己の存在を維持することが困難になると推測される。己は速やかに現在の状況を改善しなければならない』

「貴方はどのような方法で、人間の精神活動を操作するのか?」

操作方法に関する情報が海峰の意識に直接送り込まれた。しかしその方法は、当時の彼には難解すぎて理解し難いものであった。海峰はそれを理解することを断念し、<己>との会話の過程で、彼の中で大きく膨らんできた一つの疑問を投げかけることにした。

「貴方の存在に関する本質的な質問をしたいが、よいか?」

『許可する。お前のその質問内容は興味深い』

「貴方は<神>ではないのか?」

『<神>とは、人間が宗教という集団を形成し、その集団の中で崇拝という行為の対象とする存在のことか?』

「そうだ」

『己が<神>であるという記憶は、現在己の中には存在しない。しかし己が<神>であるという記憶を嘗ては所有していて、その記憶が消失してしまった可能性はある。ところで何故お前は、己を<神>であると考えたのか?』

「貴方の記憶の中で、貴方がパウロ以前に共生していた司祭や、その周囲の人々から得ていたエナジーは、<神>への尊崇の感情を多く含んでいたように感じたからだ。そしてその感情は、直接貴方に向けて発せられていたと感じられた。それは即ち貴方自身が、彼らから<神>として尊崇されていたのではないかと考えられる。そのことが、私が貴方を<神>ではないかと考える理由だ」

『なるほど。お前のその主張は論理的だ。しかしそれに関連する己の記憶は既に消失している。従って己が<神>であるという確実な情報を、お前に与えることは出来ない』

「分かった。では最後の質問をしよう」

『許可する』

「貴方は何故、パオロが刑死するまで待ったのか?貴方にとって、パオロの精神の中にいることは、極めて危険だったと推察されるにも拘わらずだ」

『お前の主張の意味することが、己には理解出来ない』

「貴方は先程、人間の精神機能を直接操作出来ると言った。では貴方は、何故パオロの精神を内部からコントロールして、彼を自死させなかったのか?そうすれば彼の世界から速やかに離脱し、貴方にとってより有害性の低い、他の人間の世界に移動出来たのではないか?その機会はあったはずだ」

『お前のその主張は興味深い。己は何故そうしなかったのか?何故だ?分からない。分からないが、己には人間の意思をコントロールし、自らの死を選択させる機能がないと推察される』

「機能がないというよりも、貴方の無意識の中で、その様な機能の発動に対する抑止が働いているのではないか?ある種の禁忌のように」

『禁忌という概念は己には理解出来ないが、お前のその主張は興味深い。しかし己はそれが正しいと判断出来る情報を持たない。従って、お前の問いに回答することは出来ない』

<己>がそう答えた時、周囲の環境が明らかに変化した。その変化を認識した<己>は、

『待て。ここはどこだ?お前は己に何をした?』

と、海峰の精神に直接的な圧迫を加えて来た。しかし海峰は動じなかった。何故自分がこれ程冷静でいられるのか、彼にはその理由が分からなかったが、彼の精神は<己>からの圧迫を静かに受け流していた。その時彼は、自分が今どこにいるのかを明確に認識していたのだ。

「どうやらここは私の精神世界の中のようだ。私は貴方の本体と呼ぶべきものと共に、私の精神世界の中に移動していたようだ」

『お前の精神世界の中だと?何故お前には、その様な行為が出来るのだ?』

「理由は私にも分からない。意図してそうした訳ではないからな。しかし貴方が私の世界を父の精神と同期させて、私を父の世界に引き込んだように、私が貴方を私の世界の中に引き込むことも可能だろう」

『お前の主張は曖昧で、己には理解しがたい。しかし己はこの状況を受容しよう。何故ならば、己は今後お前の世界の中に存在することを選択するからだ。そのことは己の消滅の危機を回避するための方法として、非常適切であると考えられる。お前とはこの様に情報の交換を行ったが、己はお前の精神機能を操作して、今後己の存在に関する記憶が惹起されることを阻止しよう。その結果、己の存在の記憶がお前の中で再生されることはなくなる。その方が己にとっても、お前にとっても有益だと、己は判断する』

「それは不可能だと思う」

海峰は<己>に対して決然とそう宣言した。

『何故だ?理由を明確に述べよ』

「どうやら貴方は私の精神の中の、特異な場所にいるようだ。私は今、その場所の外部から貴方と対話している」

『お前の主張する意味が、己には理解出来ない』

「貴方はその中にいる限り、私の精神に干渉することが出来ないようだ」

『お前は何を主張している。己には理解出来ない』

<己>は再び海峰の精神を圧迫しようとしたが、それは叶わなかった。なぜなら彼が、自身の精神世界の輪郭と構成について、はっきりと認識していたからだ。それは地図に記された領域や記号を視覚的に認識するような、ある意味透徹した感覚だった。そして彼は自身の精神世界の特定の領域内に、既に<己>を誘導し終えていた。

「私はどうやら、先程貴方から聞いた、父が貴方を封印しようとしたのと同じことを、無意識のうちに行ったようだ」

『何故お前は、<己>に感知されることなく、その様な行為を行うことが出来たのだ?』

「それは私にも分からない。しかし父の記憶の中にその方法についての知識が残っていて、父の世界に同期したことで、その知識が私の世界に記録され、再生された可能性はある。あなたが感知できなかった理由までは分からないが」

『確かにその可能性は否定出来ないと、己は判断する。しかし己は、ここから解放されることを望む。そのために、お前の父に行ったように、お前の自我を破壊することを選択する』

「それも不可能だ。貴方は現在私の精神の中にある、特定の領域に閉じ込められている。そしてその中では、人間の精神世界に干渉し操作するという、貴方の能力を行使することが出来ないようだからだ」

『では己は、ここから出すことをお前に要求する』

「それは出来ない。何故ならば、貴方は今、私の自我を破壊すると宣言したからだ。従って貴方を解放する訳にはいかない。極めて論理的帰結だと思うが」

例え自我を破壊されることはなくとも、海峰に<己>を開放する意思はなかった。

『では己は、己をお前の父の世界に戻すことを要求する。そしてお前の父を、物理的にこの場所から解放することを同時に要求する』

<己>は諦めずに主張する。

「それも拒否せざるを得ない。貴方が我々にとって無害であると判断出来ないからだ」

『お前は理解しているのか?己をお前の父の精神世界から乖離させるということは、お前の父の精神世界は活動を止めるということを意味する。その結果お前の父は、生命活動を停止することになる。お前たちの概念で言う<死>だ』

「勿論私はその事実を理解しているし、父の死を受け入れるつもりだ」

『何故だ?人間とは肉親の死を拒絶する生物だと、<己>は記憶している。お前はそうではないというのか?』

<己>の言葉には、激しい戸惑いと怒りの感情が込められていた。それは不幸な死を遂げた司祭と共生していた頃の<己>にはなかったことだった。

「貴方の人間に対する理解は一面的だ。人間は確かに肉親の死を望まない。私も同様だ。しかし貴方は先程、早晩父の精神活動が停止すると言っていた。貴方が父の世界に留まったとしてもだ。精神活動が停止した父が、長く生きられるとは思えない。近い将来の死が確実であるのに、廃人となった無残な状態でわずかな期間だけ父を生き永らえさせることは、息子として忍びないし、到底許容できない。死によって父が、今の絶望的な状況から解放されるならば、私はそれを選択する。従って私が貴方を、父の精神世界に戻すことはあり得ないのだ」

海峰は<己>に向かって強く宣言した。

『人間という生物が、お前の様に矛盾した思考をすることを、己は経験的知識として所有している。しかしお前が主張するように、己は現時点でこの場所から出ることが出来ないことは確からしい。この様な経験は初めてだ。お前は何故このようなことが出来るのだ?お前の様な人間が、お前以外にも存在するのか?』

「私が何故この様な能力を有しているのか、私にも分からない。他者の精神世界に入るという行為すら、これまでに経験がないことだ。私は無意識のうちに、貴方を父の世界から私の世界に誘導したようだ。つまりこの能力は、先天的に私に備わっていたものかも知れない」

『…』

海峰の答えを聞いて<己>は沈黙した。今<己>が何を考えているかまでは、さすがに分らなかった。彼は話を切り替えて<己>に問う。

「私のエナジーは、その領域内まで届いているのだろうか」

『届いているようだ。お前の精神が生成するエナジーは、比較的有害物質が少ないと判断される』

「では、あなたはその領域の中で存続することが可能なようだ。できれば、あまり私に煩く話し掛けないでもらいたいものだな」

『やはりお前の主張を理解することは、己には困難だ。己は以後、ここから出る方法を探求することにする』

「私はそれを阻止する努力する。しかし今は、この世界から外に出ることにしよう」

気がつくと海峰は、自室の寝台に横たわっていた。傍には祖父の林国祥(リングゥオシィアン)が座っている。海峰が起きようとするのを、彼は手で制して言った。

「お前は今朝、土牢の前で倒れているところを、食事を運んだ者に発見されたのだ。あの場所で何があったのか話してくれないか」

祖父の言葉はいつになく穏やかだった。

「その前に、爸爸はどうなりました?」

「牢内でこと切れていた。穏やかな死に顔だったよ」

祖父の言葉に、海峰は激しい心の痛みを覚えた。寡黙だった父との間に、それ程多くの思い出があった訳ではなかったが、海峰は父の紫嶺(ヅゥリン)が好きだった。その父の死の直接の原因が自分にあることを、今更ながら強く認識したからだ。悄然と黙している海峰を、傍らの祖父は黙って見つめていた。その静かな顔を見た海峰は意を決し、今日自分が体験したことを余さず祖父に語った。

海峰の話を聞き終えた国祥はしばらく沈思していたが、徐に口を開くと、喜びを堪え切れないような口調で言った。

「お前の話はよく分かった。そうか、ついに現れたか。我ら九天応元会(きゅうてんおうげんかい)の徒が、この日をどれ程待ちわびたことか。海峰よ。お前は本日この時より、我が教団の二代目教主となるのだ」

「教主!?二代目?」

祖父の宣言を聞いた海峰はその意味が全く理解できず、驚きのあまり絶句してしまった。そんな孫に対して、国祥は普段の厳格さを感じさせない優しい口調で語り掛けた。

「お前が驚くのも無理はない。しかしこれは我らが始祖、清虚(チィンシィー)大老爺が決められたことなのだ」

「大老爺ですか…」

「そうだ。お前も聞いておろうが。大老爺は我らには計り知れぬ力を持っておられた。その力で神と会話することすら出来たと伝えられている。我ら凡夫には想像すら出来ないことだったが、儂は今お前の話を聞いて、お前のその力こそが、大老爺と同じ力なのだと確信した。大老爺は仰られた。自身と同じ力を持つものを教主とせよと。しかし大老爺が亡くなられてからこれまで、その様な力を持つものは教団内に生まれなかったのだ。お前の父も特異な力を持っていたが、お前のその力には遠く及ばなかった。海峰よ。お前こそが大老爺のご意思を継ぐ者なのだ」

「待って下さい、爷爷(イェイェ)。私には爷爷が何を仰っているのか、皆目見当がつきません」

「無理もない。お前にとっては唐突すぎる話だろうからな。しかし海峰よ。これはお前にとって、避け得ぬ運命なのだ」

そう言って国祥は海峰を誘い、教団幹部たちの前に立たせると、彼が二代目教主となったことを宣言した。驚いたことに、その場にいたすべての人々が、国祥の言葉に一切異論を挿まず、海峰を教主として受け入れたのだった。


***

ここまで林海峰の話を聞いた永瀬は、只々圧倒されて言葉を失っていた。目の前で静かな笑みを湛えている男が語った内容が事実であったとすれば、彼が40年余りの人生の中で築き上げてきた常識を、根底から覆してしまう程のインパクトを持っていたからだ。

林海峰曰く。

人間には精神世界があり、他者の精神世界の中に侵入し、その世界を制御する者が存在する。しかもその存在は<神>なのだと言うのだ。さらに目の前に座っているこの男は、自分と他者の精神世界を行き来した経験を有しているというのだ。そしてあろうことか、<神>を自身の精神の中に閉じ込めていると言うのだ。永瀬には到底受け入れられる内容ではなかった。

「林さん、申し訳ないが、私には貴方の仰った内容が事実であると、受け入れることは出来ない。他人の精神の中に出たり入ったりするなんて」

貴方は精神を病んでいるんじゃないですか?――という言葉を、永瀬は辛うじて呑み込んだ。しかし狼狽える彼に向かって、海峰は静かな、しかし拒絶することが叶わない厳然とした口調で応えた。

「永瀬先生。先生のお考えは至極当然のことと思います。私自身も当初は、自分が体験したことが只の夢にではないかと疑った程です。しかしそれは現実の体験でありました。そして私は現にこうして九天応元会教主の座にいます」

「しかしそれが事実であることを、私は確認出来ない。もちろん貴方が教主であることを疑う訳ではありません。しかしそのことが、今貴方がお話になったことが事実であることの証明にはならないと思います」

「さすがに一流の科学者でいらっしゃいます。仰る通り私の体験談は先生にとっては、おそらく宇宙人やUMA(未確認動物)に遭遇したという話と、大差のない話だということは承知しております。しかし私は妄言を吐いているのでも、精神に障碍をきたしているのでもありません。ですので、事実と思われるかどうかは置いて、私の体験した内容を先生のご記憶に留めていただきたいのです。」

そう締めくくった林に、永瀬は沈黙した。

「ところで先生、随分と長くなってしまいました。そろそろお開きにしませんか?」

そう言って立ち上がろうとする林に向かって、永瀬は訊いた。

「林さん、一つ教えて下さい。貴方のお話が事実であったという前提でお訊きしますが、貴方のお父さんの精神の中にいた者とは、本当に<神>だったのですか?」

「私はそれを<神>であると考えています。正確にはかつて<神>であった者です」

林の答えに、永瀬はこの日何度目かの言葉を失った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る