第二章 教主林海峰(承前3)

【12】

18歳の誕生日を迎えたその朝、林海峰(リンハイファン)は浅い眠りから覚めた。

自然な目覚めではなく、誰かの手で、無理矢理現実世界に引き戻された――そんな不快感が彼の意識の中に残留している。目覚める直前まで見ていた夢の中に、外から突然誰かが侵入してきたという記憶が鮮明に残っている。しかしそれがどのような夢だったのか、そこに入って来たのが誰だったのか、もはや海峰は思い出すことが出来ない。あるいはその夢自体が、外部からの干渉によって、自分の意識の中に書き込まれ、覚醒と同時に消去されたものだったのかも知れないと、彼は思った。

壁の時計を見ると、午前5時まであと少しという時刻だった。しかし陽暦の8月に入ったこの時期、既に窓からは日の光が熱気を伴って室内に差し込み始めている。

今日も暑くなりそうだ――と海峰は思った。

寝台から身を起こすと、彼はしばらくそこに腰かけたまま、意識が完全に覚醒するのを待った。浅い眠りの淵から現の世界に帰還するのは、眠りが深い時よりも返って時を要する。浅い眠りの中では、精神世界と現実世界の境界が曖昧になっているせいなのかも知れない。

彼が今いる部屋は、中国四川省成都郊外にある九天応元会(きゅうてんおうげんかい)本部の一隅にあった。その前年に成都市内の高等学校を卒業した彼は、成都大学に進学する道を選んだ。勿論遺伝子工学に対する学問的な興味もあったのだが、生まれた時から自分を取り巻いている、宗教的な環境から離れてみたいという欲求の方が強かったからだ。その時彼は実家のある教団本部を離れて、大学の寮で生活していたのだが、その日はある事情で帰省していたのだった。

その当時教団には教主が不在だったため、最高幹部である祖父の林国祥(リングゥオシィアン)が実質上教団を取り仕切っていた。祖父と海峰との関係は家族というよりも、教団の最高幹部と道士見習という色合いが濃かった。祖父は道教の師父らしく元々が謹厳な性格の人だったが、それに教団内での立場も相まって、孫といえども海峰を決して甘やかすことはしなかった。従って海峰は、帰省中と言っても漫然と過ごすことは許されておらず、日々瞑想練気の修行を課せられていた。

しかし彼はその修行に、あまり大きな意味を見出せずにいた。瞑想自体は彼にとって、まったく苦ではなかった。むしろ、ひたすら自己の内面に向き合うという意味では瞑想は好きだったし、何時間でも座っていることが出来た。しかしそれが、道士としての修行につながっているかと問われると、答えは否だった。自己に向き合うこと自体が修行である――と言われればそうなのだろうと思う。しかしそれによって道(タオ)との合一に到達することは、少なくとも自分に関してはあり得ないと感じていた。瞑想は彼にとって、自身の内面世界を、まるで近所を散策して歩いているような感覚で見物して回っているようなものだったからだ。そんないい加減なことで修業が成るとは到底思えなかったし、真剣に修行に取り組んでいる、周囲の道士たちに対して申し訳ないという気持ちしか湧いてこなかったのだ。そんな彼の心境を、祖父だけは薄々見抜いている様子だったが、だからと言って彼の修行に対して一切口を挟むことはなった。もしかしたら祖父は、自分に道士としての修行の成果以外のことを望んでいるのかも知れないと海峰が思い始めたのは、ほんの数年前のことだった。

九天応元会は嘗て、文化大革命という名の元に行われた、国家的宗教弾圧の嵐を潜り抜け、国内やアジアはおろか欧米諸国にまで組織を拡大していた。教団の運営方針が、共産党政権にとって害の少ないものであるということが、政府による弾圧を免れた最たる理由だった。しかし海峰は教団には何か修業とは別の、特殊な目的があるような気配を漫然と感じていた。一般の道士たちはひたすら修行に励んでいるのだが、教団幹部たちは何か別の活動を行っている。断言は出来ないが、彼にそう思わせる雰囲気が、教団の本部内に漂っていたからだ。

――爷爷(イェイェ、祖父の意)たちはこっそりと何をしているのだろう?まるで何かの秘密結社の様だな

寝台に腰かけながら漫然とそんなことを考えていたその時、何かが彼の意識の片隅に刺さるのを感じた。その刺激は誰かが直接彼の心に直接呼び掛ける声のようだったが、小さすぎてその意味を理解することが出来なかった。ただその声がした方向だけは、明瞭に認識することが出来た。

誰かの言葉が聴覚を通さずに直接意識を刺激する――その様な現象を、海峰は幼少期から時折体験していた。しかしそれが非常に特殊な状況であることに、幼かった彼は気づいていなかった。そしてその様な現象が起こった後には。必ずと言ってよい程、今いる場所とは違う世界に自分がいることに気づくのだ。それはほんの僅かな間の出来事だったのだが、違う場所であることだけは、はっきりと分かるのだった。一人で遊んでいる時、突然誰かの言葉が頭の中を通過して行く。周囲を見回してもそれらしき言葉を発する者は誰もいない。そして今まで自分がいた場所とは別の場所に自分がいることに気づく。幼かった海峰にとってそれは、単に不思議な体験に過ぎなかった。しかしそれが自分にだけ起きている現象であることに気づいた時、彼は底知れぬ恐怖を感じ怯えたのだった。

彼が何かに怯えている様子に、最初に気づいたのは母だった。海峰の母はまだ幼かった息子から、彼を苛んでいる恐怖の原因について辛抱強く話を聞いてくれた。話を聞き終わった彼女は、彼に聞こえる声が決して幽霊や怪物の声などではなく、その声に怯える必要がないと、我が子に優しく言い聞かせた。そしてその声が聞こえることは彼と母だけの秘密にして、誰にも言わないでおこうと言ったのだった。何故それを秘密にする必要があるのか、母は理由を告げなかったが、海峰は母との約束を守って父にもそのことを告げなかった。その後も姿なき者の声が聞こえてくることは時折あったが、成長するにつれてその頻度は減っていった。そしてその日までの10年以上もの間、一度もその声を聞くことがなかったため、やがてその奇妙な体験は彼の記憶の片隅へと追いやられてしまっていた。それがその時、突然復活したのだ。既に成人していた彼は無暗にその現象に怯えることはしなかったが、この機会にその原因を詳らかにしたいという欲求が、彼の心の中で首をもたげたのだった。

海鋒は寝台から立ち上がり部屋を出ると、声のした方向へと屋敷の回廊を進んだ。今はまだ声が頭に響いて来るだけで、違う世界に行くことはなかった。

その時また、声が届いた。それは先程よりかなり明瞭で、はっきりと彼を呼んでいるようだった。その声に誘われるまま、海峰は屋敷裏の庭園に足を踏み入れた。もはや向かう先は明確だった。

やがて庭の奥、教団本部の敷地内に続く裏山に穿たれた、天然の洞穴の前に海峰は立った。入り口には堅牢な鉄格子が填められている、牢獄のようなスペースだった。洞穴の中から凄まじい臭気が漂って来た。中にいる人物が発する悪臭だった。その人物とは、一か月前から牢内に幽閉されている海峰の父、林紫嶺(リンズゥリン)だった。父が幽閉された理由について、教団の最高幹部の一人である祖父も、他の幹部たちも、詳細は一切語らなかった。ただ幽閉されたその時点で、海峰の父は既に廃人となっていたらしい。らしい――と言うのは、その様な噂を漏れ聞いただけで、海峰が直接父を見た訳でなかったからだ。紫嶺は幽閉される一か月程前に失踪し、成都市に隣接するチベット族自治州を放浪しているところを保護されていたようだ。彼が何故失踪し、一か月間どのように過ごしたのかは、一切不明だった。既に廃人となっていた父からその理由を聞くことは、最早不可能だったからだ。

父の帰還を知った時、海鋒は安否を気遣って大学の寮から急遽教団本部に戻った。しかし祖父は一切の理由を告げることなく、彼が父と会うことを禁じた。父は日々の食事は与えられるが、牢から出されることは決してなかった。海峰以外の教団関係者たちも、林紫嶺との一切の接触を禁じられていた。食事の世話も幹部たちが交代で行っているようだ。

牢に至る道筋には、行く手を塞ぐようにして設置された詰所があり、普段は二名の不寝番が、交代で駐在して人の出入りを見張っている。しかし何故か今日に限っては、彼らの姿が見えなかった。理由は解らないが、そのおかげで帰還した父に接触する機会が、初めて海峰に訪れたのだ。

牢内は暗かった。灯りはないようだ。その暗さに目が慣れてくると、奥にうずくまっている、人らしいシルエットが見えてきた。その姿は闇に溶け込んだように曖昧模糊としていて、まるで実体のないものの様にも見えた。

海鋒はその影に向かって、「爸爸(パーパ、父の意)」と呼び掛けてみる。しかし返事はおろか、いかなる反応も父からは返ってこなかった。繰り返し呼び掛けたが、結果は同じだった。父は既に生きていないのではないか――そんな考えが頭をよぎる。

――だとすれば祖父たちは、何故父をこのまま放置しているのだろう?そこに何か意図があるのだろうか?そんなことをして何の意味があるのだろうか?

取り止めのない思考が、海鋒の頭を駆け巡る。

波状的に襲ってくる強烈な臭いに耐えながら、海峰はしばらく牢の奥を見つめていた。やがて海峰は、闇の中にうずくまる影の肩の辺りが、ほんのわずかだが上下していることに気づいた。それはおそらく父が呼吸をしている証だろう。

――爸爸は生きているのだ

そう思った海峰が、影に向かってもう一度声をかけようとした時、突然彼の意識は暗転した。

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