第二章 教主林海峰(承前2)

【11】

ああ、苛々する。

馬鹿カップルめ。電車の中で公然といちゃつきやがって。

恥ずかしくねえのかよ。見てられねえわ。

全く朝っぱらから頭にくるぜ。くそっ。

こっちはもう40も近いと言うのに、未だに結婚出来る見込すらねえんだよ。

田舎の親も最近は諦めたのか、あまり煩く言ってこなくなったしな。

どうして俺は、こう女に縁がないんだろう?

しがない助教とは言え、一応アカデミックな仕事をしているのに。

世間的には、そこそこ良いポジションのはずなのに。

見てくれは、まあそれは、あまりパッとしないかも知れないけど。最近腹も少し出てきたけど。背も高い方じゃないけど。

それでも、そこまで酷くはないはずだ。多分。

それなのに何でなんだよ?

研究室の女学生共からは、ホモじゃないかと思われてるみたいだ。

違うよって言ってやりたいが、そんな度胸もないしな。

それにしても最近、性欲が溜まって仕方がねえな。

前の席に座ってる女。短いスカート穿いてやがるな。パンツ見えないかな。

あんまりじろじろ見てると、気づかれるな。やばいな。

それにしても本間の奴、いい女だな。いい体してるわ。

ああ、本間とやりてえな。駄目だろうな。絶対拒否られるだろうな。

それに学生に手を出したら、教授が絶対許さんだろうしな。

そう言えば、この前研究室に来ていた、教授の娘の未和子みわこもいい女だったな。

細身のくせに、かなり巨乳だったしな。

駄目だ。思い出したら勃ってきた。電車の中なのにやべえぞ。鞄で誤魔化すしかねえか。

くそっ、よりによってこんな時に。なんとかしなくちゃ。

よかった。何とか誤魔化せそうだ。

それにしても、俺はいつまでこんな情けねえこと続けてるんだろう?全く自分が嫌になるよ。

もうこうなったら、梶本でも口説くか。あれも男いなさそうだしな。

あ、駅に着いた。


***

その日永瀬晟(ながせあきら)は午後6時過ぎに仕事を終えると、研究室に居残っている学生たちに声をかけて回った。彼らの中には遅くまで実験を続ける者もいるので、大抵は職員が先に帰宅する。従って各部屋の消灯や施錠などは、最後に残っている学生の役割であることが多いからだ。最後に教授室の外から、「お先に失礼します」と室内に声を掛ける。すると中から、「お疲れ様」という蔵間の声がした。

研究室の出入口では、林海峰(リンハイファン)がいつもの様に居住いよく永瀬を待っていた。今日は珍しく、彼から夕食に誘われたのだった。独身の永瀬は自炊が面倒なので、食事は大抵外食かテイクアウトで済ましてしまう。従って林の誘いを断る理由は特になかったのだ。

「どこに行きましょう?」と林に訊かれたので、「お任せします」と永瀬は答えた。

どうしてもこれを食べたいとか、この店に行ってみたいという意欲が決定的に欠けているので、こういう時には必ず相手任せになるのが永瀬の常だった。我ながらつまらない男だと思う。未だにパートナーの一人すらいない理由の一つがこれなのだろうと、永瀬は思わなくもない。

「では、最近駅前に出来たイタリアンでよろしいですか?」

と林が提案してくれたので、彼は素直に「ええ」と肯いた。そんな店が出来たことすら知らなかったが、永瀬に特に異論はない。駅までの間は、あれこれと雑談をしながら歩いた。林は既にすっかり研究室に溶け込んでいて、職員や学生たちとも良好な関係を築いていた。学生たちの日常については、永瀬よりも詳しくなっているくらいだ。

レストランは駅から程近いビルの二階にあった。内部は照明を少し暗くしてテーブルの間隔も広めにとってあり、落ち着いた雰囲気の感じの良い店であった。しかし客席は半分も埋まっておらず、やはり新型コロナの影響なのだろうか――と、永瀬はぼんやりと考える。

メニューを見ると、量も値段も手頃だったので、二人ともライトディナーコースを注文した。永瀬はグラスワインを頼んだが、自分はアルコールをたしなまないのでアイスティーにすると林は言った。

前菜には鱸のカルパッチョが出た。すると林が、

「魚のカルパッチョというのは日本発祥のアレンジだそうですね。イタリアでは元々牛フィレの生肉にパルミジャーノチーズをかけた料理だそうですが、日本で刺身文化をベースに工夫されたそうです。今ではイタリアでも逆輸入されて、出す店が増えているようですよ。これは酸味が程よく聞いていて、とても美味しいですね」

と言ったので、永瀬はすっかり感心してしまった。まったく何でも知っている男である。

「日本には美味しい食事を提供してくれる店が沢山ありますね。しかも価格がリーゾナブルで羨ましい限りです」

「中国にも、外国の料理を出すレストランはあるのでしょう?」

「ありますが、高価な店が多いです。それにバラエティは日本の方が遥かに多いですね」

「そうなんですか。しかし日本でも、高級料理店は、私なんかには手が届かないくらい値段が張りますよ。そう言えば林さんの郷里の四川の料理は、とても辛いんですよね?」

「はい、とても辛いです。四川料理の味の基本は麻辣(マーラー)ですが、麻はしびれる、辣は辛さを意味します。つまり、舌が痺れるような辛さという意味なのです」

「最近は日本でも四川料理の専門店が増えていますが、行かれたことはありますか?」

「一度ありますが、美味しかったですよ。ただ本国に比べると辛さがマイルドでした。やはり日本人の好みに合うようにアレンジされているのだと思います」

「そうなんですか。やはり本場の料理は辛いんでねえ」

「永瀬先生も一度、食されてみてはいかがですか?」

「あ、遠慮しておきます。辛いのは苦手で」

慌てて言う永瀬を見て林は、さも可笑しそうな表情を浮かべた。

この様に他愛のない会話と共に食事は進んだ。コースはサラダ、トマトソースのパスタ、仔牛肉のピカタと続き、最後にデザートのパンナコッタとエスプレッソが出て終わりだった。料理は全体に量が控えめで、上品な薄味だったので好みに合っていた。永瀬は久しぶりに美味しいものを食べた気がして、とても満足だった。普段の雑な食事とは大違いだ。

「林さん。日本には、もう慣れましたか?」

アルコールのせいで少し気分が高揚していたのか、永瀬は林の近況について訊いてみた。すると林は、

「皆さんがとても親しく接して下さるので、思っていたよりも早く慣れることが出来ました。ありがとうございます」

と、永瀬に向かってペコリと頭を下げた。

「と、とんでもない。学生たちも林さんから色々と刺激を受けているようで、助かってます」

永瀬は少し狼狽え気味に答えると、それを誤魔化すように、

「研究室はどうですか?」

と曖昧な問いを投げ掛けた。それにも林は微笑を浮かべながら答える。

「皆さん、和気藹々とした雰囲気で、真面目に研究に取り組んでらっしゃいます。それにはとても感心しています。ただ…」

最後に林が言い淀んだので、永瀬は「ただ?」と思わず彼の言葉を反復する。すると林は表情を改めて言った。

「基本的には皆さん仲良くされているのですが、やはり人間の集まりですので、多少の行き違いはあるようですね。先日も、梶本先生と4回生の本間雪絵(ほんまゆきえ)さんが、少し言い争いのようになっていました。箕谷先生が仲裁に入られたのですが、あれ以来、梶本先生と本間さんとの関係がややギクシャクしているようで、少し気になっております。永瀬先生はお気づきですか?」

「ええ、薄々は感じていましたが、気にする程ではないと思っていました。林さんには二人がかなりギクシャクしていると映っているのですか?」

「そうですか。永瀬先生がそう仰るのでしたら、私の杞憂に過ぎないのでしょう。研究室の方々は皆、穏やかな雰囲気ですので、私が過大に受け取っていたのかも知れませんね。詰まらないことを言って申し訳ありませんでした」

林が真面目な表情で詫びたので、

「いえいえ。そんなに気になさらないで下さい」

と、永瀬は慌てて言った。

本間雪絵という学生は意思表示がはっきりしていて、学生の間でのリーダー格だった。顔立ちやスタイルもよく、同級生や院生の男子の間でも人気がある。そのせいかどうかは知らないが、教員、特に助教の二人に対する、多少反抗的ともとれる態度が以前から見受けられたのだ。本人にその積りはなくても、周りにはその様に映っている。それに対して箕谷は苦笑い程度で済ませるのだが、生真面目な梶本はまともに受け取ってしまう傾向があった。言い争いというのは、そのことが原因で起きたのだろうと、永瀬は思っていた。しかし周囲を冷静に見ている林の眼にギクシャクしていると映っているのであれば、自分が思っているより深刻なのだろうかと、永瀬は改めて最近の二人の様子を思い出そうとする。

その時、食後のエスプレッソを飲み終えた林が、改まって言った。

「さて永瀬先生、本日は夕食にお付き合いいただき、ありがとうございます。実は先生にお話ししなければならないことがあるのですが、この後のお時間のご都合はいかがでしょうか?」

永瀬は多分そうだろうと予測していたので、

「ええ、特に用事はないので構いませんよ。お話というのは?」

と林に応じた。こういうこともあろうかと、特に用事も入れていなかった。

永瀬の諾いに、「ありがとうございます」と微笑で答え、林は徐に話を始めた。

「永瀬先生と初めてお会いした日に申し上げましたように、私は成都大学に所属すると同時に、九天応元会(きゅうてんおうげんかい)の教主という立場にいます。その私が今回、研究生として来日した背景と目的について、一度先生にご説明させていただきたいと思い、この様にお時間をいただきました」

永瀬が頷く。

「そもそも私が遺伝子工学を専攻した動機ですが、それは生物の進化のプロセス、とりわけ進化のトリガーとなる、遺伝子の突然変異について関心を持ったからなのです。その当時の私は現在のように教団の中枢にいた訳ではなく、純粋な学問的興味から大学を選びました」

「つまり宗教とは関係のない動機だったということですか?」

「そうです。いつの頃からそのような興味を抱くに至ったのか、今では覚えていませんが、当時の私はどちらかと言えば宗教そのものに懐疑的で、教団幹部の祖父や父から見れば不詳の孫であり、不詳の子であったと思われます」

林はそこで一度、苦笑いのような表情を浮かべる。

「では今回の留学の目的も、林さんの個人的興味が動機なのですか?」

「個人的な興味も勿論あるのですが、それ以外にも我が教団の活動と関連する目的があります」

「それはもしや洗脳という様な…」

「いえ、誤解なさらないで下さい。私共は、科学を宗教的手段として利用する意図は全く持っておりません。ただ、我が教団が長年に渡って探求してきた事柄に関連することとして、先生方が研究されている大脳の仕組みと機能について知見を深めるために、既に自然科学の分野の素養を持つ私が、教団を代表して来たとお考え下さい」

「その林さんたちが探求されてきた事柄というのは?」

永瀬は思わず問い返した。既に林の話に引き込まれている。

「それをご説明するためには先ず、九天応元会の創設者であり、私の遠祖である林清虚(リンチィンシィー)についてお話しする必要があります。以前ご説明しましたように、清虚は汪愈(ウアンユー)という道教教団の主催者に師事し、彼から教団を継承しました。その当時の中国には儒仏道の三教に加え、様々な宗教が入って来ていました。清虚はそれらの宗教が持つ、<神>という概念の多様性に強烈に魅かれたそうです。やがて彼は教団の運営を幹部たちに任せ、一人西域へと旅立ちました」

「それは何故ですか?」

「<神>を探すためだと言われています」

「<神>を探すため、ですか…」

「そうです。荒唐無稽に思われるでしょうね、永瀬先生。しかしその旅で清虚は、<神>に触れたと伝えられています」

「触れた?出会ったのではなく触れたのですか?それは何か異境の<神>についての所見を得たという意味でしょうか?」

「先生が言われるのは、宗教的な文物や見聞から得た知識によって、<神>についての何がしかの結論に至ったという意味ですね。残念ながらそれは違います。彼は実在する<神>に触れたのです」

「実在する<神>ですって?とても信じられない」

「驚かれるのは無理もありません。私が今お話ししていることが、先生の常識からかけ離れていることは十分に承知しております。しかし一旦、<神>の存在を是認するか否かについては置いて、先に進めさせて下さい」

永瀬は彼の話す内容の意外さに驚きながらも、いつの間にか興味を覚えている自分に気づき、内心苦笑した。

「よろしいでしょうか?」

そう断って林は話を続けた。

「<神>に触れた際に清虚は、<神>に関するいくつかの知識を得ました。それは所謂神託のようなものではなく、<神>の本質に関わるものでした。彼はその様な知識に触れることが出来る、精神的・肉体的な素因を持っていたようです。西域から戻った彼は、旅で得た知識を元に<神>に関する研究を始めました。その時から九天応元会は、修行の場と研究の場という二つの顔を持つことになったのです。図らずも<神>についての真理を探究する道が、我々が目指す道(タオ)に通ずることを、清虚の得た知識によって知ったからです。我々は連綿とその知識を積み重ね、1,100年経過した現在に至っています」

「そして貴方が現在教団を率い、その研究を受け継いでいるということですね?」

「そうです」と林は頷く。

「しかし私はやはり、<神>が実在していたということを容易に受け入れることが出来ません。それは私が自然科学の徒であるからでしょう。勿論私は、自分が直接見たもの以外を信じないという、ある意味傲慢な意識でそう考えてるいのではありません。林さん、貴方の仰る<神>というものが、具体的にイメージ出来ないからです。貴方の教団は道教であると仰った。そうですね?」

林は黙って首肯する。

「では林清虚さんが触れた<神>というのは、道教の<神>を指すのでしょうか?確か道教の<神>は老子でしたか。私の乏しい知識では明確なことは言えませんが、老子は紀元前の人物だったと記憶しています。清虚さんはその老子と、1,100年前に邂逅したということでしょうか。それはやはり、あり得ないことだと言わざるを得ません」

「どうやら、先生を混乱させてしまったようですね。申し訳ありませんでした。確かに太上老君――老子は、現在ほとんどの道教宗派で神格化されていますが、厳密には所謂<神>ではありません。勿論過去現在、またいかなる宗派を問わず、殆どすべての道教は老荘を代表とする老家思想をその源としています。しかし老子は、宗教としての道教の始祖ではありません。道教が宗教として展開していくプロセスで、<神>の如く尊崇される存在になったのです。つまり老子は、イエスやブッダの様に教祖的存在として人々を導き、やがて信者から<神>として、または<神>の如く尊崇されるようになった訳ではありません。また古代ギリシアのオリュンポスの神々の様に、その存在自体が<神>として定義された存在でもありません。複雑な話ですが、お解りいただけますか?」

「解ります。<神>として崇拝されるに至るプロセスが異なるということですね?」

と、永瀬は肯いた。

「仰る通りです。そして林清虚がかつて邂逅し、以来我が教団の研究の対象となっている<神>とは、キリストやブッダ、オリュンポスの神々を含む、より普遍的な意味での<神>なのです。それをご理解いただくために、私自身が体験してことについてお話ししたいのです。少し長くなりますが、よろしいでしょうか?」

永瀬は肯いて林を促した。

「ありがとうございます」と言って林は、11年前に彼の身に起こった出来事について語り始めた。

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