第二章 教主林海峰(承前)

【10】

「ど、道教の、き、教主、様ですか!?」

林海峰(リンハイファン)の口から出た言葉があまりに意表を突いていたので、永瀬晟(ながせあきら)は思わず大声を出してしまった。周囲から不審さを含んだ視線がいくつも永瀬に向けられる。それに気づいた永瀬は思わず俯いたが、林はその様子を相変わらずの笑みを浮かべて見ている。そして、永瀬のその反応を予測していたように続けた。

「先生が驚かれるのも無理はありませんが、これは紛れもない事実なのです。私ども道教の徒は、宇宙の根源である道(タオ)と一体化することを理想とし、日々修行に励んでいますが、それにつきましては話の本筋から外れますので、ここではそれを置いて先に進めたいと思います」

よろしいですか――と了解を求める林に、永瀬は只々唖然として頷く。

「九天応元会(きゅうてんおうげんかい)の基原は、今から凡そ1,100年程前に遡ります。私どもの教団が発足した当時、中国は晩唐の時代にありました。その頃の日本は、平安時代の前期に当たりますね。創始者の林清虚(リンチィンシィー)は私の遠祖とされています。当時彼は、首都長安近郊の県の役所で書記のような仕事をしていました。しかしその頃世を席捲していた黄巣の乱を避けるために職を辞し、苦難の末に家族と共に益州に移り住みました。現在の四川省は、その当時の益州の一部に当たります。清虚はその地で、師である汪愈(ウアンユー)と出会い、彼の指導の下に修行に入ったとされています。清虚は汪愈門下で瞬く間に頭角を現し、遂に師の後を襲って教主となりました。それと同時に、教団の名称を<九天応元道>と改めたのです。その後教団は、幾多の苦難の時代を乗り越えて連綿と現在に至っています。特に毛沢東が主導した、文化大革命による宗教弾圧は熾烈を極めましたが、現在では共産党政権との折り合いもつき、本来の活動規模を取り戻しつつあります」

「そ、その教団を率いておられる林さんが、何故遺伝子工学の様な、私からすると宗教とは相容れないような、自然科学を学んでおられるのですか?」

永瀬はそう訊かずにはおれなかった。今から27年前、永瀬がまだ中学生の頃に東京で起こった、カルト教団による無差別テロの記憶が彼の頭を過ぎったからだ。科学知識と技術の悪用によって、平穏な日常がいとも簡単に破壊されてしまうということを、単なる情報としてではなく身近な現実として目の当たりにしたことは、当時理系の大学への進学を目指していた永瀬に大きな衝撃を与えた。それは純粋に、科学それ自体が内包している危険性に対する衝撃だった。

勿論科学知識や技術そのものに善悪があるのではなく、それを行使する人間の問題であるという事は、中学生の永瀬にも理解することが出来た。しかし、もしかしたら科学が本来持っている力自体が、それを行使する方向へと人間を誘導してしまうのではないかという逆説的な思考に、当時の永瀬少年は捉われてしまったのだ。それは事件が、被疑者である教団の教主と幹部の逮捕によって落ち着くまでの間、永瀬の精神の中で熾火の様に燻り続けたのだった。

「先生のご懸念はご尤もです」

と、林はまたも永瀬の心中を見透かしたように言った。

「実際私が大学の遺伝子工学講座に在籍していることに、先生と同様の懸念を抱いている中国共産党の地方幹部がいることも、教団は把握しています。彼らは我が教団が、政府転覆の様な重大事案を画策していないかどうか、日々監視も行っているようです。しかしその様な行為は全くの徒労と言わざるを得ません。九天応元会は、純粋に道(タオ)との一体化を求める修行の場であり、現実世界での政治的な利益を求める野心は有しておりません。私が遺伝子工学を学んでいることには、別の目的があるのです」

「そ、それはどのような目的なんですか?」

永瀬は思わず訊いてしまった。

「それを永瀬先生にご説明することは吝(やぶさ)かではありません。しかし、少し説明に時間を要しますので、次の機会にさせて頂けませんか?それに先生もそろそろ、研究室にお戻りになる必要があるのではありませんか?」

そう言われて永瀬が腕時計を確認すると、既に午後2時を過ぎていた。確かに研究室に戻った方がよさそうだ。

「ああ、そうですね。では、戻りましょうか」

最後に話をはぐらかされたようで何となく釈然としなかったが、永瀬はそう言って林を促すと、空いた食器を乗せたトレイを持って席を立った。

林を伴って研究室に戻ると、永瀬は助教の蓑谷明人(みのやあきひと)と梶本恭子(かじもときょうこ)に声を掛けて、学生たちを廊下に集めてもらった。4回生と大学院生を合わせて総勢12名が、ぞろぞろと廊下に集まったのを見計らい、永瀬は彼らに林を紹介する。

「こちらは、今日から研究生として来られた林海峰さんだ。中国の成都大学から研究生として派遣された方で、大学では遺伝子工学を専攻されているそうだ。まだ日本に来られたばかりで色々と慣れないことも多いと思うから、皆で面倒を見てあげてくれ」

「リンハイファンです。よろしくお願いいたします」

林はそう言って如才なく挨拶すると、全員に向かって丁寧にお辞儀した。

「いつまで日本に滞在されるんですか?」

と、学生の一人から質問が上がった。

永瀬が「ええと」と言い淀むと、「四か月の予定です」と、林がすかさず補足した。それを契機にして、学生たちが口々に質問を始める。中には、「お幾つですか?」と初対面なのに不躾なことを訊く者までいる。しかし林は、その一つ一つに丁寧に答えていた。

驚いたのは、彼が29歳ということだった。物腰が余りに落ち着いているので自分より少し下の年齢を想像していたのだが、そういう先入観を抜きにして見ると、確かに顔立ちは若く見える。永瀬は先程聞いた林のもう一つの顔、九天応元会教主という立場について学生たちに紹介すべきかどうか迷った。彼は特に隠し立てしている様子もないので、この場で紹介しても問題ないとも思うのだが、やはり躊躇われる。宗教団体と聞くと学生たちが引いてしまい、林との関係がぎくしゃくしかねないと思ったからだ。

それにもしかしたら林は、自分だけに打ち明ける心算だったのかも知れない。だとすれば彼の事前の了解なしに、学生たちにそのことを告げる訳にはいかないだろう。それと同時に、蔵間に先ずその事実を報告すべきだと思った。その上で彼の身分を学生たちに開示するかどうか、蔵間の判断に委ねるのがベストな選択だろう。

翌日。約三週間ぶりに蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)教授が研究室に出勤した。

驚いたことに蔵間は、娘の未和子(みわこ)を伴っていた。永瀬はやや面食らったが、教授室に二人が入った少し後で、林海峰を誘って教授室のドアをノックする。

室内から、「どうぞ」という蔵間の重厚な声がする。ドアを開けて中に入ると、執務用に特注したアームチェアに蔵間がゆったりとした姿勢で座っていた。応接セットの、濃いワインレッドのソファには未和子が腰掛けている。

「教授、失礼します」

永瀬が挨拶すると、

「永瀬君、留守中はありがとう。そちらは?」

と言いながら、蔵間は永瀬たちに未和子の向かい側の席を勧めた。

永瀬は、

「こちらは研究生の林海峰さんです」

と紹介しながら、林を促して席に着いた。

「林さん?ああ、成都大学から預かることになった。しかし来日予定は少し先ではなかったかな?」

未和子の隣に席を移した蔵間が訊く。

「蔵間先生、お目に掛かれて光栄です。リンハイファンです。実は大変申し訳なかったのですが、こちらの都合で来日予定を少し早めて頂きました」

すかさず林が流暢な日本語で、如才なく説明した。

蔵間は「そうですか」と言っただけで、林の言う事情についてはあまり気にしていない風だった。

「ところで先生」と、永瀬は話題を切り替える。

「ロンドンでは大変でしたね」

「ああ、ボルトン先生は残念だったね。奥さんも。先生にはお世話になったんだが」

「COVID19だったそうですね?」

「その様だね。郊外でのご夫婦二人暮らしだったのがいけなかったようだ。高齢で病状の進行が速かったんだろうね。その上周囲に、お二人の世話をする人がいなかった。それで病院に行くことが出来なかったようだ」

「お子さんはいらっしゃらないんですよね?」

「うん。お二方とも係累が絶えていて、結局友人や教え子たちで葬儀を行ったんだよ」

「そうですか」

そこで会話は途切れたのだが、蔵間とのやり取りの間中前の席に座っていた未和子が、興味津々という表情を浮かべながら、永瀬と林を交互に見ているのが非常に気になった。そもそも何故、蔵間は未和子を伴って来たのだろうと永瀬が考えていると、

「今日は学士入学の手続について確認しに参りましたの、永瀬先生」

と、まるで彼の考えを読んだかの様に未和子が言う。

「娘が以前から、本学で再度学びたいと言っていてね」

蔵間も横から補足する。

「そうですか」と永瀬は曖昧に答えたが、自分の考えを読まれたようで少なからず気味が悪かった。隣席の林の様子を窺うと、穏やかな表情を浮かべつつも、かなり強い視線で蔵間父娘を見つめている。一瞬気まずい沈黙が、四人の間を過った。

「さて、私はこれから留守中に溜まった仕事を処理するつもりだが。永瀬君、他に用はあるかね?」

「ああ、すみません。ご不在中特に報告すべきことは、林さんが来日されたことくらいですので。これで失礼します」

そう言うと永瀬は席を立った。隣の林も立ち上がりながら、

「蔵間先生。未和子さん。今後ともよろしくお願いいたします」

と言って、丁寧に頭を下げた。教授室を後にしながら永瀬は、何となく釈然としない気分だった。蔵間父娘から何か以前とは違う雰囲気を感じ、強い違和感を覚えたからだ。すると、

「蔵間先生は渡英される前と、少し雰囲気がお変わりになったのではありませんか?」

と、後から出てきた林がそう言ったので、永瀬は驚いて振り向いた。

「そう言われると確かにそうなんですが。林さんは何故そのことに?」

「富安先生からお聞きしていた印象と違っていたものですから」

林はそう言ったが、

――そもそも何故、渡英前後で違いが生じたと、この男は考えたのだろう?

と永瀬は不審に思う。しかし彼の表情からは、真意を読み取ることが出来ない。穏やかな微笑を浮かべている目の前の男から、何か得体の知れないものを感じ、永瀬は背中に寒気を覚えた。

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