第二章 教主林海峰

第二章 教主林海峰

【09】

「今日の講義はここまでです」

永瀬晟(ながせあきら)が言うと、学生たちがテキストをしまう音や、ホワイトボードの板書を携帯電話のカメラで撮影する音で教室が騒めき始めた。板書の撮影を嫌って禁止する教員も中にはいるようだが、永瀬は時代の流れと割り切っている。永瀬が学生の頃にも、普段は碌に講義ノートなど取らずに、テスト前に友達のノートをコピーするちゃっかり者は大勢いたのだ。単に手段が進歩しているだけで、行為自体に変化はないと彼は思っている。

ここは東都大学キャンパス内の講義棟の一つで、永瀬が籍を置く理学部の、専門課程の講義に使用されることが多い建物だ。今も永瀬は、3回生を対象にした講義を終えたばかりだった。

永瀬は理学部生物科学科の教員で、肩書は准教授である。教員と言ってもそれ程頻繁に講義がある訳でもなく、今期は学部生と大学院生を対象に週に1回ずつ、それぞれ90分1単位の講義を担当している。残りの時間は研究室に所属する職員及び研究生、学生の指導と、論文作成などの業務に加え、研究室の予算管理や理学部全般に関わる会議への出席など雑務も多く、それなりに多忙である。永瀬の専門分野は大脳生理学である。彼が所属する研究室を統括する蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)教授は大脳生理学分野の世界的権威であり、主要な研究テーマの殆どが大脳の生理機能に関連するものだった。

昼休みに入る時間だったので、学生たちが急ぎ足で教室を出ていく。講義室の左右の扉の前では、出席カードの提出ボックスを持った助教の箕谷明人(みのやあきひと)と梶本恭子(かじもときょうこ)が、退室する学生たちからカードを回収していた。永瀬は学生の出席自体もあまり気にしていなかったが、こちらは学部長の方針として、全ての講義で必ず出席確認を取ることになっている。理由の一つは、単位取得の条件の一部として出席点を加算するという、学生への救済措置の意味もあるようだ。

ホワイトボードの板書を消し終えて講義室から出ると、梶本がドアの脇に立っていた。蓑谷は既に研究室に戻ったようだ。

「永瀬先生。先程学部長が来られて、講義後にお部屋に来て頂きたいとのご伝言を受けました」

梶本は生真面目なその性格通りの口調で言った。蔵間研究室で博士課程後期まで修了した梶本は、学位取得と同時に当時空席だった助教として採用された。勤勉で努力家の彼女は、教室の運営に関しても、自身の研究に関しても常に真摯に取り組んでくれる、非常に信頼のおけるスタッフだ。ただ、少し真面目過ぎて融通が利かないところがあり、同僚の蓑谷や研究室の学生と時折ぎくしゃくすることがある。しかしそれも、教室内の人間関係に波風を立てるようなレベルのことでもなく、永瀬も、そして教授の蔵間もこれまで問題視したことは一度もなかった。

「ありがとう。それから、ボックスはいつも通り僕の机に置いておいてくれるかな」

永瀬がそう言うと、梶本は「承知しました」と言って会釈し、研究室に戻って行った。

永瀬は講義室を出て、講義棟に隣接している本部棟に向かった。本部棟の2階に上がり学部長室のドアをノックすると、室内から「どうぞ」という富安学部長の声がした。部屋に入ると、正面のデスクに座った富安の温和な顔が待ち受けていた。そしてデスクの前に置かれた応接セットのソファに、見知らぬ男が一人腰かけている。

「永瀬先生、急にお呼びだてして申し訳ない」

富安はそう言いながら席を立つと、永瀬にソファを勧め、自身はその男の隣に座った。そして永瀬が席に着くのを見計らい、

「ご紹介します。こちらは林さんです」

と、隣の男を紹介した。そして男は富安の言葉を引き取り、

「永瀬先生、初めまして。林海峰(リンハイファン)です。日本語ではリンカイホウと発音します。よろしくお見知りおき下さい」

と流暢な日本語で挨拶した。

「は、初めまして。永瀬晟です」

慌てて永瀬も挨拶を返す。

「永瀬先生。蔵間先生から既にお聞き及びかも知れませんが、林さんは中国の成都大学から、本学に短期の研究生として来られた方です」

「ああ、その件は教授からお聞きしています。しかし、予定はもう少し先ではなかったですか?」

富安の紹介を聞いた永瀬は、少し不審に思い質問した。

「仰(おっしゃ)る通りです。確かに林さんの来日は少し先の予定だったのですが、事情があって早まったんですよ。蔵間先生にも先日メールでお知らせしたのですが、永瀬先生に伝わっていなかったようですね。まあ、あちらで大変な目に遭われたと聞いていますので、メールチェックが遅れているのかも知れませんね」

永瀬は漸く状況を把握することが出来た。蔵間顕一郎は、2週間前にロンドンで開催された国際学会の演者として招聘され、渡英していたのだった。学術講演自体は問題なく終わったようなのだが、その後事件に巻き込まれ、帰国予定が伸びてしまったのだ。その事件というのは、蔵間が彼のイギリス留学時代の恩師であったケネス・ボルトン博士をロンドン郊外の自宅に訪ねた際に、博士夫妻の変死体を発見したことだった。そのため蔵間と同行していた娘の未和子は、警察の事情聴取を受けるために、滞在期間を伸ばさざるを得なかったようである。そのことは永瀬から富安に報告済みであった。博士夫妻の死因は、どうやら新型コロナウィルス感染に起因する重度の肺炎、つまり病死であったようだ。司法解剖の結果、死因が明らかになったので、蔵間父娘は日本時間の今夜の便でヒースロー空港を発ち、漸く帰国の途に就くことが出来る模様である。永瀬はそのことを、蔵間からのメールで、今朝知ったばかりであった。

「警察の事情聴取だけでなく、ボルトン博士夫妻の葬儀にも参列されたようですが、今日の便で帰国されるそうです。今朝教授からのメールで、その連絡を受けました」

「そうですか。それは何よりです」

永瀬が林を見ると、口元に微笑を浮かべながら二人のやり取りを興味深げに聞いている。

それに気づいた富安は、

「ああ林さん、これは失礼しました。先程少しお話ししましたが、蔵間先生は現在イギリスに滞在されているのですよ。まあ今の永瀬先生のお話ですと、明日には帰国されるようですが、いつ大学に出て来られるかどうかは今のところ分かりませんね。そういうことですので、今日は永瀬先生と一緒に研究室の方に行って下さい。永瀬先生、お願いしますね」

と一気に言って、最後は永瀬に下駄を預けてしまった。今日呼び出された理由はそれだったようだ。

永瀬は、「承知しました」と言って席を立つと、

「では林さん、取りあえず研究室に行きましょう」

と言って彼を促す。

林も永瀬に続いてを立ち、

「富安先生、どうもありがとうございました」

と言って、富安に向かって丁寧に頭を下げた。そして、

「永瀬先生、よろしくお願いいたします」

と、永瀬にも丁寧に頭を下げると、彼に従って学部長室を出た。

本部棟にある学部長室から研究棟までは、歩いて10分程の距離がある。その間永瀬は林と肩を並べて歩いたのだが、実は昔から初対面の人と気軽に会話することが苦手で、この様な状況は彼にとって少々気づまりだった。しかし無言でいるのも変だと思ったので、

「林さんは中国のどちらのご出身ですか?」

と、差しさわりのない質問をした。

「私は四川省の成都出身です。永瀬先生は成都をご存じですか?」

にこやかな笑みを浮かべながら林は答える。

「申し訳ありませんが、中国の地理はよく解らなくて…」

「そうですか。日本の皆さんにはあまり馴染みがないのかも知れませんね。四川省は中国の南西部にある、中国の中でもかなり面積の広い省です。急峻な山岳地帯に囲まれた芳醇な盆地で、昔から<天府之国>と呼ばれています。その省都が成都市です。先生は我が国の<三国志>と言う歴史書をご存じですか?」

「<三国志>ですか。ええ、知っています。確か三つの国が互いに争ったという…」

「はい、仰る通りです。その三国の一つである蜀漢の国があったのが現在の四川省で、建国者である劉備が国府と定めたのが成都です。内陸部ですが、温暖な気候で良いところですよ」

「そうですか」と永瀬が曖昧な返事を返すと、

「永瀬先生は東京のご出身ですか?」と、逆に聞かれた。

「ああ、僕は福岡市の出身です。ご存じないと思いますが」

「存じ上げております。九州最大の都市で、別名博多と呼ばれる街ですね。福岡県の県庁所在地で、政令指定都市の一つですね。それから、確かソフトバンクホークスというパシフィックリーグの球団の本拠地でしたね」

「随分お詳しいですね。行かれたことがあるんですか?」

「残念ながら、ございません。ただ今回来日する前に、日本の主要な都市については、予備知識として習得してまいりました」

林があっさりとそう答えたので、永瀬は驚いて一瞬立ち止まってしまった。何とも得体の知れない男だと思ったからだ。

「どうされました?」と林に訊かれた永瀬は、

「何でもありません」と慌てて答え、再び歩き始めた。

二人して研究室に戻ると、学生たちは昼食に出払っているようで、人気があまりなかった。入り口から真正面に見えるベランダまで続く長い廊下の左右に、実験室と職員や学生のデスクを兼ねる部屋が並んでおり、奥の右側にある部屋が教授室だ。入り口を入ってすぐ右の部屋を覗くと、窓際の自席で梶本恭子が昼食を摂っているのが見えた。

「梶本さん」と声を掛けると、彼女は永瀬の方を向いたが、横に立っている林を見て、やや怪訝な表情を浮かべる。永瀬は林を促して室内に入り、

「食事中にごめん。こちらは、中国から研究生として来られた林海峰さん。ほら、教授が先月の職員ミーティングで仰ってた」

と、彼女に早口で紹介した。すかさず林は、

「林海峰(リンハイファン)です。梶本恭子先生ですね?よろしくお願いいたします」

と、彼女に向かって丁寧に頭を下げた。

――誰にでも丁寧な人だな。それにしてもこの人は何故梶本君のフルネームを知っているんだろう?

永瀬が怪訝に思う一方で、梶本は、ああ――と納得した顔をして、

「助教の梶本です。こちらこそよろしくお願いいたします」

と、こちらも丁寧にあいさつを返した。そして、

「林さんは私のフルネームをご存じなんですね?永瀬先生からお聞きになられたんですか?」

と少し驚いた様子で尋ねた。彼女も永瀬同じ感想を持ったようだ。その問い林は、

「先程富安先生のお部屋で待機している間に、職員名簿を見せて頂きました。これからお世話になる先生方のお名前を知らないのは、大変失礼なことと思いましたので。蓑谷明人先生はお食事ですか?」

と、相変わらずの笑顔で答える。それを聞いて梶本は「はあ」と曖昧に答えた。

――まったく行き届いた人だなあ。

永瀬はそう呆れつつ、

「林さんの席だけど、3研の空きデスクでいいかな?」

と梶本に訊く。研究室内の席の配置は梶本の役割なので、彼女に確認する必要があったからだ。3研というのは5つある研究部屋の内の3号部屋の略だ。永瀬のデスクもその部屋にある。

「はい。今のところ3研しか空いていないので、そこでお願いします。夏休み中に、また席替えも考えますので」

「ありがとう。じゃあ、林さん。デスクに手荷物を置いてランチに行きましょうか。まだですよね?」

「ありがとうございます。ご一緒させていただきます」

「梶本さん、ご飯の途中ですまなかったね」

と言って永瀬は軽く手を上げ、話を切り上げた。梶本はまた、ぺこりと行儀よくお辞儀をした。林も丁寧にお辞儀を返す。

3研の空きデスクに荷物を置くと、永瀬は林と連れだって学内にあるカフェテリアに向かった。学生や職員のための食堂なので種類も豊富で値段も安い。林の経済状況が解らなかったので、無難な選択と言えるだろう。

昼休みも終わりに近い時間のためか、カフェテリアはそろそろ空き始めていた。大きな厨房と繋がるカウンターで、永瀬はいつもの日替わりランチを注文した。特に好き嫌いがある訳ではないので、日替わりにしておけばメニューの選択に悩まずに済むからだ。今日のメインはハンバーグだった。林を見ると、永瀬と同じものを選んでいた。

ちょうど中庭に面した大きな一枚ガラスの窓際の席が空いていたので、そこに座ることにした。ガラス越しに見える芝生広場には日差しが燦々と照りつけ、見るからに暑そうだった。そのせいか歩いている人はまばらだ。広場の中央には大きな桜の木があり、木陰に座って何やら語り合っている学生たちがいた。初夏のこの時期には既に桜の花は散り、緑の葉が生い茂っているのだが、春先の満開のシーズンには淡いピンクの花びらが巨木を覆いつくして見事に咲き乱れる。それは毎年受験生向けのパンフレットにも掲載されている、キャンパスの象徴的な風景の一つだった。そして永瀬も、ここから見るその景色が割と気に入っている。

向かい合って席を取ると永瀬は、「どうぞ」と林に勧め、自分も箸を取った。「頂きます」と林は、箸を取る前に行儀よく手を合わせた。居住いの良い男である。

二人とも無言のまま箸を動かし、10分程でプレート上のランチを大方平らげた。永瀬は食事をしながら人と話すのが苦手だったので、林が無言で食事を優先させてくれたのはありがたかった。人によっては食事中にやたらと話しかけてくるので、辟易とさせられることも多いからだ。

最後に冷茶を飲み干すと、林もちょうど食べ始めるときと同じ様に、「ご馳走様」と言って手を合わせるところだった。ひょっとしたら林は、自分の食事のペースに合わせてくれたのかも知れないなと永瀬は思った。そういう事をさらりとやってのける気づかいと器用さが、目の前に座っている男から強く感じられたからだ。

――不思議な雰囲気の人だな。

そう思うと、俄然と林に対する興味が湧いて来る。

「林さんは大学、成都大学でどのような分野を専攻されているのですか?」

永瀬が訊くと、

「私の専攻は生化学です。主に遺伝子工学を研究しています」

と、林は姿勢を正して答えた。その答を意外に思った永瀬は、

「遺伝子工学ですか?」

と聞き直した。大脳生理学とは関連が全くない訳ではないが、少し乖離した分野だと思ったからだ。その心中を察したように林は続けた。

「はい、そうです。しかし今回蔵間先生や永瀬先生にお世話になる目的は、実は私の大学での研究とは少し別のところにあるのです」

「別の目的ですか…」

「はい、そうです。しかしその目的をご理解いただくためには、私の背景について少し詳しくお話しした方が良いと思うのですが、構いませんか?」

「林さんの背景ですか。ええ、是非お聞かせ下さい」

興味をそそられた永瀬は、そう言って林を促した。すると林は穏やかな笑みを浮かべながら、驚くべき言葉を口にした。

「私は現在、中国に拠点を置く宗教団体の教主の座にいます。その団体の名称は<九天応元会(きゅうてんおうげんかい)>、大平道を起源とする道教の一流派です」

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