第一章 ロンドンの咬殺魔(承前)

【04】

翌日バドコックは普段より早めに家を出ると、ロンドン市内中心部へとクーパーを走らせた。向かう先はKCL(キングス・カレッジ・ロンドン)である。今回の被害者の司法解剖結果について、担当者であるブライアン・ケスラー博士から直接聞き取るためだった。自宅から小1時間程でKCLに着いたバドコックは、正門脇の警備員の詰所を覗いた。顔馴染みの警備員がいたので来意を告げ、構内へと入る。ケスラーのいる研究棟に程近いパーキングロットに空きがあったので、ケスラーはそこにクーパーを停め、車外に出た。

昨日とは打って変わって、強い日差しが容赦なく照りつけてくる。

――最近の気候は一体どうなってやがるんだ?

バドコックは吹き出す汗をハンカチで拭いながら空を見上げ、心中でそう毒づいた。彼の若い頃は、この時期になると既にジャケットが必要だったのだが、ここ数年の外気温は86°F(30°C)を超えることも珍しくない。今もインナーの上にシャツ一枚という身軽な出で立ちにも拘わらず、止めどなく汗が噴き出してくる始末だ。

急いで空調の効いた研究棟に入ると、エレベーターで3階まで上がり、ケスラーの研究室のドアを叩く。すぐに室内から「どうぞ」という返事が返ってきた。事前に予告しておいたので、ケスラーは彼の到着を待っていたようだ。

言われるままに部屋に入ると、振り向いたケスラーが無言でデスク脇の椅子を勧める。そして腰かけたバドコックに向かって開口一番、

「また世間が騒ぐぞ。大変だな、フィル」

と、相変わらずの皮肉たっぷりの口調で言った。心無しか、口元が嘲笑っているようにも見える。

ヤードの殺人科に配属されて以来、ケスラーとは20年近い付き合いだったが、バドコックは未だにこの男のことが好きになれない。と言うよりも、仕事でなければ顔も見たくない程、はっきりと嫌いだった。その主たる原因はこの男の態度だ。皮肉屋で、傲慢で、自信家のこの男には、どうやら自分たち刑事はすべて馬鹿に見えているらしい。それはこの男の常日頃の言動に如実に現れていて、こうして面と向かって話す時には、いつも皮肉たっぷりの、人を小馬鹿にした様な笑いを常に口元に浮かべている。今や見慣れてしまったその表情は、間違いなくこの男は自分を見下しているのだろうと感じさせるに十分だった。例え本人にその自覚がなかったとしても、接する相手を例外なく不快な気分にさせる、ケスラーとはそんな男だった。

つまりは物凄く嫌な野郎なのだ。

バドコックは反射的に込み上げてきた怒りを鎮め、

「おかげさんで上からも散々絞られてるよ」

と、投げやりに言った。そんなぞんざいな口が利ける程、互いの距離が近くなっているのも確かだが、返ってそのことが彼の癪に障る。

「無駄話はいいから、さっさと鑑定結果を聞かせろよ」

バドコックが催促すると、ケスラーは作成済みの解剖検案書を彼の前に押し出し、表情も変えずに言った。

「結論から言えばこれまでと同一犯だろう。DNA鑑定に少し時間がかかるが、こんな馬鹿げたことをする犯人が複数いるとは考えられないし、考えたくもない」

それにはバドコックも同感である。

「しかしフィル。同一犯ではあるが、少し様子が違ってきているぞ」

「どういう意味だ?」

「今回の被害者もそうだったが、前回の被害者につけられた傷の大きさが最初の頃と随分違ってきている。検死報告書にも書いてあっただろう。見てないのか?」

最近報告書には直接目を通していなかった。部下も見落としていたようだ。バドコックは、ばつの悪さを押し殺して、

「いいからその先を言えよ」

と彼を促した。するとケスラーは口元に皮肉な笑いを浮かべながら、突拍子もないことを言い始めた。

「端的に言えば被害者の頸部に残されている犯人の口裂幅、つまり口の横幅だな。その幅が最初の被害者と、最近2件の被害者のそれとでは、倍以上も違っている。つまり犯人の口が倍以上大きくなっているということだ」

「口がでかくなってるだと?本気で言ってるのか?」

バドコックはその言葉に意表を突かれ、思わず訊き返していた。相手がケスラー出なかったら怒鳴りつけていただろう。それ程信憑性に乏しい説だった。彼の常識では、そのようなことは絶対にあり得ない。

「あいにく冗談でも妄想でもない。科学的に検証された事実だよ」

しかしケスラーは、机上の解剖検案書の該当箇所を指し示しながら、臆さず言い放った。

「いいか?フィル。最初の被害者スーザンの左頸部に残されていた犯人の口裂幅はほぼ2インチと推定される。少し大きめではあるが普通人の平均から、それ程逸脱していない。しかしこれを見てみろ。6番目の被害者エマ・バウアーに残されたものは4.5インチを超えている。つまり僅か二か月にも満たない期間に、犯人の口裂幅が倍以上に広がったということだ」

「馬鹿なことをいうな、ブライアン。そんなことはあり得ない」

「あり得ないと言っても、厳然とした科学的事実なんだよ、フィル。それだけではないぞ。この一か月余りで犯人の歯の形状が変化している。当初は遺体に残った歯形から、通常の人間の歯と推測された。これは既にスーザンの解剖検案書に書いたが、犯人は彼女の首筋の肉を喰い千切るのに、かなり苦労したようだ。具体的には数回にわたって噛み直した跡が認められる。それは当然だろう。人間の歯は上下32本あるが、そのうち肉の切断作業に用いられるのは切歯が8本と犬歯が4本の計12本、それを除く20本の臼歯は切断という作業には不向きだ。さらに人間の顎の力も、そこまで強くない。つまり人間の歯と顎は、人に噛みついて肉を千切り取るという作業には適していないのだよ。その代わりに、ナイフとフォークという便利な道具を我々は持っている。しかし今日の被害者の頸部を見る限り、ほぼ一撃でかなりの量の肉が喰い千切られている」

「それはどういうことだ?もっと分かりやすく言ってくれ」

話を聞きながら胸が悪くなってきたバドコックは、結論を急がせた。

「つまり犯人の口裂幅が広がっただけでなく、歯の構成が切歯中心に変化し、加えて咀嚼筋が短期間に発達したと考えられる」

「つまり一か月間で犯人の口の大きさが倍以上になり、歯が軒並み尖って、ついでに顎が馬鹿でかく膨らんだということか?まるで狼男だな、ええ?」

怒りを抑えながら、一言一言ゆっくりと確認するバドコックに対してケスラーは、「その通りだよ」とあっさりと返す。そして、

「君が怒る気持ちはよく解る。吾乍ら、実に馬鹿げた話をしていると自覚しているよ。しかしな。これは最新の科学技術を用いて導き出された結論なのだよ。この事実だけは動かしようがない」

と畳みかけた。そのケスラーをバドコックは睨みつける。ケスラーも怯まず、彼に強い視線を返す。二人の間に気まずい沈黙が流れた。

「科学的検査の結果は解った。しかし結論は違うんじゃないのか。あんたも科学者なら、人間が一か月やそこらで狼男に変身しないってことくらいは解るだろう。例えばそうだ、狼の口のような道具を作るとか、他の可能性は考えられないのか?」

少し冷静さを取り戻したバドコックは、ケスラーにそう質した。

「君の気持は解るが、その推論は否定せざるを得ない。まず犯人の唾液と口腔粘膜と思われる細胞が、これまでのどの被害者の傷口からも検出されている。そしてDNA鑑定の結果は、それらがほぼ同一人物のものであることを示している。つまり犯人は被害者を自分の口で噛んでいるのだよ」

「それだって道具を使って殺害した後に改めて傷口を噛んだ可能性だってあるぞ。そうだろう?」

バドコックはむきになって反論した。

「では何故、わざわざそのように面倒な道具を使う必要があるのかね?殺した後に噛みつくのであれば、ナイフのようなもので刺した方が遥かに簡単に目的を達成することが出来る。違うかね?」

その通りだった。

――この大馬鹿野郎の犯人は、何だってこんな面倒なことをしやがるのだろう。まったく頭にくる野郎だ。何で俺たちがこんな奴に振り回されて、世間から非難を浴びなきゃならないんだ?

抑えても抑えても、胸の奥から次々と込み上げてくる怒りを持て余し、バドコックは憮然として黙り込んだ。

「ところでフィル、少し気になることが出てきたんだ。聞きたいかね?」

「気になることだって?犯人のことなら勿体ぶらずにさっさと言えよ」

突然ケスラーが話題を変えてきたので、バドコックは恫喝気味にそう言った。しかし長年の付き合いで彼の性格を知り尽くしているケスラーは、そんなバドコックを気にも留めない様子で続ける。

「さっき犯人の残した唾液と粘膜のDNA鑑定の話をしただろう?実は少し結果に引っかかる所が出てきたのだよ」

バドコックはそれが何だと言わんばかりに、無言のまま目で先を促した。

「つまりスーザンの遺体から検出されたものと、その後の被害者から検出されたものを経時的に比較すると、合致率が少しずつ変化してきている。当初の2回は95%以上の確率で合致していたのだが、徐々に下がって前回は83%まで落ちている」

「それはどういうことだ?まさか人を噛み殺す大馬鹿野郎が何人もいるってことか?おい。俺のこの石頭でも理解出来るように説明してくれないか?」

バドコックは苛々して訊いた。

「先程も言ったと思うが、そんな非合理的な殺人者が複数いる確率はかなり低いね。まして同時期に、同一地域で犯行を繰り返す確率となると更に低くなる。限りなくゼロに近いだろう。まあ、同じ方法で殺人を実行する同好会でもあれば別だが」

「下らん御託はいいから、さっさと結論を言えよ!」

怒りを堪えかねて、バドコックは遂に怒鳴り声を出した。しかしそれも意に介さずケスラーは続ける。

「落ち着けよ、フィル。合致率が低いといっても80%を超えている。つまりこれまでの犯人はすべて同一人物であると、ほぼ断定出来る。同一人物ではあるのだが、その犯人に生体的な変化が起きているのではないかと推察されるのだよ」

「生体的な変化ってえのは一体何だよ?」

「さっき説明しただろう。最近犯人の口裂幅が拡大し、歯の形状が変化している可能性があるって。その解剖所見とDNA鑑定の変化が合致しているのだよ」

「つまり?」

「犯人の肉体がDNAレベルで変化している、という結論に行きつく」

一瞬考え込んだバドコックだったが、

「犯人が本当に狼男に変身したということか?まさかこの期に及んで巫山戯てるんじゃなかろうな?ブライアン博士」

と、最後の<博士>に強いアクセントをつけて心中に渦巻く怒りを表した。しかしケスラーは、バドコックのこのような反応には慣れっこで、彼の恫喝にまったく臆することもなく、真顔で答える。

「フィル。勿論私はふざけてなどいないし、必死で捜査している君たちを愚弄するつもりもない。それは解ってくれ。ただ、繰り返しになるが、今説明した推論はすべて厳然たる科学的事実から導き出されたものなのだ。私だって人間が狼男に変身するなどという絵空事を、頭から信じることはない。しかし犯人の肉体に、短期間に劇的な変化が起こっている可能性があることは念頭においてくれ」

ケスラーの断固とした口調にやや気圧されて、バドコックは黙り込んだ。

一瞬気まずい沈黙が流れる。それを払うように、

「ところでフィル。そっちに何か新しい情報はないのかね」

と、ケスラーが訊ねた。

バドコックは、「新しい情報ねえ」と言って少し考えたが、昨日部下からの報告にあった、今回の被害者に限って現金を奪われた可能性があるということをケスラーに告げた。バドコックは全く期待していなかったのだが、意外にもそれを聞いたケスラーが顎に手を当てて考え込んだのを見て、少し当惑する。そしてケスラーを、どうした?――という顔で見たが、彼は反応を示さない。

暫く無言で考え込んでいたケスラーは、やがて徐に顔を上げると、強い眼差しでバドコックを見つめた。

「いいかい、フィル。もしかしたら犯人は追い詰められていると考えられないか?」

その言葉はバドコックの意表を突いていた。

「追い詰められてるだって?どんな風に?」

一瞬ケスラーが、バドコックたち捜査員の無能さを揶揄しているのかと思ったが、その表情は真剣そのものだった。

「いいかね、フィル。犯人の肉体に変化が起こっているのだとしても、それは可逆的なものではない。都合よく夜だけ狼男に変身して、朝になると人間に戻ることなど出来ないということだよ。つまり犯人は、夜間を選んで行動しているのではなく、夜間にしか行動出来なくなっていると考えられないか」

「真昼間に、人前に出ることが出来ないということか?それがどうして追い詰められていることになるんだ?」

「犯人の外見の変化がどの程度のものかは実見しないと分からないが、人前に出れば、確実に注目を引いてしまうレベルなのだろう。仮にそこまでではない場合でも、少なくとも以前の犯人を知る者が見れば、すぐにその変化が分かる程度であるということは容易に推測出来る。もしその知人が現在の犯人の容姿を見ていたら、必ず話題になるはずだ。人間とはその様な他人の秘密を知った場合、黙っていられない生き物だということは、君もよく知っているだろう。まして今の時代、SNSを通じて、写真入りであっという間に世界中に拡散されていてもおかしくない。だが現在、その様な情報は世間に流布していない」

ケスラーは一旦話を切ってバドコックを見る。その勿体ぶった態度に苛立ってケスラーは、「つまり?」と先を促す。

「二つの可能性が考えられる。一つは犯人が現在、他者との接触をほぼ完全に遮断して暮らしているということ。もう一つは、犯人の容姿の変化や、もしかしたら連続殺人犯であることまで承知の上で、犯人を庇っている者がいるということだ。その場合は近親者である可能性が高いが」

「それは俺にも理解出来る。あんたの言う、犯人の野郎が狼男になったということが前提だが。しかし、それでも野郎が追い詰められているというのは、考えとして飛躍しすぎじゃないのか?」

「もう少し話を聞いてくれ。犯人がどのような姿になっていたとしても、ロンドン市内で生活するためには住む場所が必要だし、電気や水道などのライフラインを利用しなければならない。そして何よりも、生物である限りは食事をしなければならない。これらには全て対価が必要だ。つまり犯人あるいは犯人とその協力者は、今回の被害者から現金を奪わなければならない程、困窮し始めて入るのではないだろうか」

「そうか。野郎、金がなくなったから、今回の被害者の財布から現金を抜いたって訳か。確かにその可能性はあるな」

ケスラーの推論に、バドコックは思わず引き込まれてしまった。確かにそれは、今まで被害者の所持品に一切手を付けていなかった犯人が、今回に限って被害者の所持金を持ち去った理由として妥当だ。

――待てよ。

「犯人がホームレスという線もあるぞ」

バドコックは閃きを口にしたが、ケスラーはその意見を即座に否定する。

「確かに路上生活者であれば、元々貧困生活を送っているという点で、それ以上困窮することはないかも知れないね。ただ、この犯人が人前で顔を隠さなければならないという点を考えると、その説は非現実的だ。路上生活者であっても食事は必要だし、そのためには路上で物乞いをするか、あるいは慈善団体等が催している無料の食事提供の場を利用しなければならない。その際に常に顔を覆っていたのでは目立ちすぎるだろう。況してやこの猛暑だ。さらに言えば犯人は、殺害時に大量の血を浴びている。路上生活者がふんだんに着替えを所持しているとは思えないし、衣服に付着した血は隠しようがないと思うがね」

バドコックは、ケスラーの理詰めの反論にぐうの音も出なかったが、そこで自分が彼のペースに完全に嵌っていることに、はたと気づく。

「おい待てよ。そもそもあんたの理屈は、犯人が狼男に変身したことが前提じゃねえか。何度も言うが、それこそがあり得ないことじゃないのかね」

しかしケスラーは微動だしない。

「私も何度も言わせてもらうが、犯人に劇的な形態変化が起こっていることは、科学的根拠に基づいた<事実>に他ならないのだよ。君たち警察は実物を見ないと納得しないのかも知れないがね。それを認めないと、いつまでも犯人にたどり着けないまま、やがて破局を迎えることになりかねないぞ。フィル」

「破局ってえのは一体何のことだ?ええ?ケスラー博士よ」

「先ほども言ったように犯人は困窮し始めている可能性が高い。つまり被害者を襲う目的に、金銭奪取という項目が追加され、凶行が加速するのでないかということだよ」

「頻繁に襲い始めるということか?」

そう言ってバドコックはケスラーを睨む。その可能性は否定できないと考えたからだ。

「その通り。そして凶行が増えれば、当然逮捕される日も近づくだろう。それ程ヤードが無能とは思えないからね」

そこまで聞いたバドコックが怒声を上げよう取るのを手で制して、ケスラーはさらに言葉を続ける。

「だが、そうなる前にこの愚かな犯人を逮捕すべきじゃないのかね?フィル。これ以上被害者を増やすべきではない。だから私は被害者の検死に全力を尽くしているし、何一つ見逃すつもりはない。その結論が、先程から述べていることなのだよ」

そう言われるとバドコックも納得せざるを得ない。とはいえ、ケスラーに言いくるめられた感じがして、納得いかない部分もあり、その結果彼は憮然として黙り込んでしまった。そんなバドコックの様子を確認すると、ケスラーはさらに自説を展開し始めた。

「先ほど犯人の現状に二つの可能性があると言ったが、そのうちの後者、犯人に協力者が存在するという状況は、かなり可能性として低いと考えられる」

「どうしてそう思うんだ?」

もはやバドコックは、完全に彼のペースに嵌っていた。

「いくら近親者であっても、容貌が急激に変化していく者と一緒に暮らすのは、精神的ストレスが通常人の忍耐レベルを遥かに超えると思うからだよ。況してその者が凶悪な連続殺人犯だとすれば尚更だ」

「それでも、例えば息子を溺愛する母親だったら、あり得るんじゃないか?」

「確かにそれは否定しない。ただしその場合は、犯人に行きつくことが容易ではない。だからその選択肢は一旦おいて、もう一つの選択肢について考えてみてはどうだろう」

ケスラーの提案に、バドコックは無言で肯き、先を促す。

「前者の推論の場合は、犯人は職場や学校に行くことは出来ない。理由は先程述べた通りだ。つまり夜に犯行を起こす時以外、部屋の中でじっとしているしかない。すると犯人は、どのように食事を摂っているのだろう。無論自分で調理することも出来る。顔に覆面をするなどして、街に出て食材を調達することは可能だろう。だが、それを繰り返すと、自分の容貌が世間に晒されるリスクが高まることは避けられない。この猛暑の中、常に顔を覆っていれば、どうしても目立ってしまうからだ。大量に買い込んでストックするという手段も考えられるが、一度や二度が限度だろう。その場合やがて食材が尽きることになる。すると犯人はどうする?」

「デリバリーか」

バドコックは興奮して即座に返した。

「その可能性は高いと思う。最近では食材のデリバリーもあるそうだからね。その線から犯人への糸口を手繰って見てはどうだろうか、と言うのが私の提案だよ。フィル」

「しかし、世の中には食材や食べ物のデリバリーなんぞ、掃いて捨てる程あるぞ。それを一々当たるとなると、相当の作業だな」

少し興奮から覚めたバドコックは、今のケスラーの推論を現実の捜査に当てはめた場合に掛かる捜査員の労力を頭の中で計算しながら、そう呟いた。この敏腕警部は現実的である同時に、少しネガティブ思考でもある。ケスラーの説には説得力を感じるが、それだけに捜査方針を絞り込むことは、かなりのリスクを伴う。これまで通り、他の線にも捜査員を投入しなければならない。そうするためには、今よりもさらに捜査の人手が必要になるということだ。

「それでも、これまでの雲をつかむような状況からは、かなりの進歩ではないのかね。それに、やり方次第では思う程には労力が掛からないかも知れないだろう」

バドコックの内心を読んで、ケスラーは皮肉っぽく言った。いつもの人を小馬鹿にしたような表情に戻っている。

「どんな方法があるのか教えて貰いたいね」

バドコックが訊くと、

「それは君たち捜査員の仕事だろう 」

と、すぐに切り返された。

――まったく食えない野郎だ。

バドコックは心中で毒づく。そして、椅子から立ち上がると、

「まあ、参考にはなったよ」

と言いながら、挨拶代わりに少し手を挙げた。そして、そそくさとケスラーの研究室を後にする。

その後ろ姿を見送りながら、ケスラーは何故か深刻な表情を浮かべていた。


【05】

腹が減った。最近あまり食ってない。この前手に入れた金はあるけど、すぐになくなってしまいそうだ。だから今日も、ピザ一枚しか食えない。

噛みたい。最近噛んでないような気がする。あれ?そうじゃなかったっけ?

ピザがまだ来ない。そろそろ来る頃かも知れない。

噛みたい。この前いつ噛んだろう?思い出せない。

あ、呼び鈴が鳴った。ピザが来た。

噛みたい。随分噛んでない気がする。

女だ。女の声だ。何で?何で今日に限って女が配達に来るんだ?

噛みたい。女を噛みたい。物凄く噛みたい。早く噛みたい。

女だ。やっぱり女だ。何で怯えている?何を怖がってる?

俺の顔か?顔が怖いのか?

ああ、我慢出来ない。噛みたい、噛みたい、噛みたい、噛みたい、噛みたい。

……

しまった。噛んでしまった。まずいな。死んだか?死んだな。

死んだ、死んだ、死んだ、死んだ。

とうとうやってしまった。どうしよう?

そうだ!部屋だ。部屋の中なら警察にばれない。見られてないよな?誰にも見られてないよな。

ん?これはピザじゃないか。そうだ!ピザだ。俺が注文したんだ。腹減ったな。最近あまり食ってなかったからな。旨そうな臭いだな。

ん?こいつは誰だ?誰だっけ?

そうか!ピザの配達人だ。そうだ。今日はいつもの男じゃなかったんだ。そうだった。

あれ?死んでるぞ?どうしてだ?

そうだ!俺が噛んだんだった。とうとう噛んでしまった。また噛んでしまった。

俺は何してる?俺はどうなってしまった?

でも噛みたい。また噛みたい。まだ噛み足りない。

噛みたい、噛みたい、噛みたい、かみたい、かみたい、かみたい、かみ…。


***

その日フィリップ・バドコック警部は、スコットランドヤードの執務室にいた。

ブロードウェイにあった前庁舎から、ヴィクトリア・エンバンクメント通りにある現庁舎に移転して3年近くになるが、まだ何となく落ち着かないと言うか、居心地が悪い。今の部屋の方が広くて小綺麗で日当たりも良いのだが、以前の少し薄暗く狭い部屋が懐かしいと思う時がある。新しい環境に馴染むのに時間がかかるのは、子供の頃からの習い性だった。

――多分臆病なのだろう。

バドコックはそう、自嘲を含んだ自己分析をしている。我乍ら面倒な性格だと思わなくもないが、50を超えた今になって、それを矯正しようなどという考えが、彼の頭を掠めることもない。

連続咬殺事件の犯人は未だ逮捕されていないし、捜査には相変わらず明確な方向性が見い出せていなかった。そして当然のことながら、世間の批判も止むことなく続いている。特に最近はSNSとかいう、バドコックには全く関心のない場所で、ヤードへの非難の嵐が吹き荒れているらしい。さらに質の悪いことに、そのSNSというやつは一瞬で世界中に広がっていてくため、ロンドンに一歩も踏み込んだこともない輩までが、調子に乗ってヤード非難に参加しているようだ。

バドコックは、暇な奴らだ――と思うくらいで、そんな世間の騒ぎなど歯牙にもかけていないが、若い部下の中には一々その書き込みを読んで憤慨して者がいるし、何よりヤードの上層部が世間の評判を過剰に気にしている。その結果、彼に対するプレッシャーが日に日に強まっているのだ。

――全く迷惑な話だ。

バドコックはそう思って、あらゆる雑音を聞き流すことにしている。そんなことよりも、彼の心には先日のケスラーとの会話が引っかかっているからだ。

――犯人が追い詰められてるだと?この状況でか?

心中で舌打ちしながらそう思ったが、それでもケスラーの主張に、それなりの説得力があることも認めざるを得なかった。それが彼の心に引っ掛かっているのだ。考えた末にバドコックは、オフィスを出て最後の事件現場に行くことにした。何か思いついた訳でもなく、今更部下の見落としがないか確認しようと思った訳でもない。敢えて言うなら、何となく行ってみようと思っただけだった。オフィスにいると気が塞ぐというのも理由の一つであったかも知れない。

インフィールド自治区の事件現場付近までクーパーを走らせながら、バドコックは事件に思いを馳せていた。ネリー・クマールという名の最も新しい犠牲者は、RCM(王立音楽大学)に通う、まだ19歳の女の子だった。

――そういえば、現場に残されていた彼女のヴァイオリンはどうなったのだろう?持主と一緒に埋葬されたのだろうか?

バドコックの脳裏にそんな考えがふと浮かんだ。しかしすぐに自分の感傷じみた気分に気づくと、随分焼きが回ったかもんだな――と、心の中で自分に罵声を投げつける。

パーキングロットに車を停めたバドコックは、事件現場に向かって歩き出した。ネリーの惨たらしい遺体が横たわっていた路地の中は、ビルの陰になっているせいで、今日の様な晴天の日の昼間でも少し薄暗かった。思えば事件のあった日は、朝から強い雨が降りしきっていた。ネリーが身に着けていた赤のワンピースが、雨と彼女自身の血にどす黒く染まっていたのが、妙に鮮明に思い出される。

バドコックは一頻り周囲を見渡した。別に何かを期待していた訳でもないのだが、不審な点など見つからなかったし、小説に出てくる探偵の様な閃きもなかった。

――俺は何でこんな所まで、のこのこやって来たのだろう?

そう思うと自分の行動の無意味さに腹が立ってきた。すると何故か急に空腹を覚える。腕時計を見ると、既にランチタイムをとっくに過ぎていた。バドコックは昼食を摂るため、路地を出て周囲を見渡した。すぐに見つかったのはビルの一階にある、それこそロンドン中のどこに行っても見つけられるような、ありふれた大衆パブだった。夜はビター目当ての客で賑わう店なのだろう。

店に入ると、午後2時になろうという時刻にしては結構混んでいた。バドコックは空いているカウンター席に腰かけると、コーヒーとサンドウィッチを注文する。イギリス人は紅茶党が多いが、何故か彼はコーヒー好きだった。この辺りも、彼のやや捻くれた性格を表しているのかも知れない。

その時カウンターの向こうから、店主らしき男と店員の会話が耳に入って来た。

「おい、チャーリー。新人はまだ帰って来ないのか?」

「まだみたいだな。道に迷ってるんじゃないっすか」

「何言ってる。もう1時間以上になるぞ。電話してみろ」

「面倒くせえな」とぶつぶつ言いながら、チャーリーと呼ばれた店員は自分の携帯電話を操作し始めた。そしてしばらく電話を耳に当てていたが、「出ませんね」と諦めたように言った。

「呼び出し音は鳴ってんのか?」

「鳴ってんですけどね、すぐ留守電に切り替わるんすよ」

「まったく何やってやがるんだ?まさか事故ったんじゃねえだろうな」

「ないとは思いますがねえ。それより、あの客と悶着になってねえかの方が心配ですよ」

「何でだよ?」

「あのトーラスって奴、かなり変ですよ。俺、10回以上配達してますけど、顔見たの最初の2、3回だけなんすよ。そのうちドアから手だけ出して金は払うんですが、ピザはドアの前に置いとけって言われて。声も行くたんびに、だんだん小さくなって。終いには何にも言わなくなったんですよ」

二人の会話を聞くとはなしに聞いていたバドコックは、妙に話の中身が引っかかって、「おい、ちょっと」と店主を呼んだ。

「何です?」と言いながら、億劫そうに彼の前に来た店主に身分証を見せながら、「何かあったのか?」と質す。

「なに、警部さんが気になさるようなこっちゃないですよ。新人の女の子が配達に出た切り戻らねえんで。電話にも出ねえし、どこで油売ってやがるんだか」

店主はバドコックの手帳を見て、少々狼狽え気味にそう答えた。

「その新人の配達先ってのは、どこなんだ?」

「何です?何かあるんですか?」

店主はあからさまに警戒感を滲ませて言った。痛くもない腹を探られたくないのだろう。しかしそんな市民の反応は、バドコックにとっては日常茶飯事だった。

「ちょっと気になっただけだよ。それより質問に答えろよ」

強面のバドコックが凄むと、店主はやや怯えて答える。

「ここからバイクで10分くらいの所にあるアパートメントですよ」

「客は?」

「ト、トーラスとかいう、確か郵便配達人だったと思います。以前は偶に店にも来てたんですが、ここ一か月くらいは配達ばかりで」

「その客はよくピザの配達を頼むのかい?」

「そう言えば最近多いですね。ちょっと前までは、毎日注文が入っていたような…」

「毎日だあ?いくら好きでもそれはないだろ」

「本当ですよ、警部さん。最近は少なくなりましたが、二、三週間前までは、ほぼ毎日配達してたんですよ。なあチャーリー。そうだろう?」

店主は少し憤慨して、店員に同意を求めた。

チャーリーは、「そうだね」と返して肯く。

「最近はどうなんだ?」

「きっちり憶えてる訳じゃないですけど、多分二日に一回くらいですかねえ…」

バドコックは少し考えたが、そのトーラスという男を訪ねることに決めた。何もなければそれで良いという位の軽い気持ちだった。しかし何かが彼の心に引っ掛かったのである。それを明らかにしておかないと自分の性格上、いつまでも引きずりそうだった。

店主にトーラスの住所を教えろと言うと、彼は少し抵抗を示した。顧客に対する守秘義務ということだろう。しかしそんなことで引き下がるバドコックではない。

「店に迷惑はかけねえよ。それにこれは殺人事件と関係してるかも知れねえんだ。協力してくれよ」

最後はかなりドスを利かせつつも、丁重に頼んだ。

店主は少し怯えた声で「わかりました」と言うと、店の奥に消えて行った。そして戻って来た時には、手にトーラスの住所を書いたメモを持っていた。それを押し付けるようにしてバドコックの手に握らせる。これ以上関わりたくないという様子が明らかである。配達に出た切り戻らない新人のことは、もはや頭から吹き飛んでしまったらしい。バドコックは店主のその態度に苦笑を漏らすと、出されてもいないコーヒーとサンドウィッチの代金をカウンターに置いて店を後にした。

外に出ると真夏の日差しが容赦なく照りつけ、すぐに汗がどっと噴き出す。まったくうんざりする様な暑さだ。こんな日は昼間から空調の効いたパブで、ビターを流し込みたいところだ。しかし不名誉なことに、彼は最近、無能な捜査主任として世間に顔が割れてしまっている。昼間からビターなど飲んでいたら、それこそSNSとやらの格好の餌食になるだろう。そう思うと、とても馴染みの店に足を運ぶ気にはならなかった。

――まったくもって嫌な世の中になっちまったな

と心の中で舌打ちすると、

――最近舌打ちが癖になっていやがるな

と、続けて自嘲気味に思った。しかし周囲からは彼の舌打ちが昔からの癖であると思われていることに、彼は全く気づいていない。

炎天下を歩きながらバドコックは、ヤードに連絡して部下の誰かを呼び寄せようかとも考えた。しかし何もなかった場合のばつの悪さを想像して、結局一人でトーラスを訪れることにする。パーキングロットからクーパーを出し、ナビゲーターでトーラスの住所を検索して走り始めると、額の汗も引かないうちに目的地に到着した。降りた場所の目の前に立っているアパートがトーラスの住居らしい。こちらも先程のパブ同様、ロンドンのどこにでも見つけることの出来る、4階建ての年季の入った建物だった。

バドコックは3階にあるトーラスの部屋を目指して階段を昇って行った。最近では年のせいか、あるいはやや肥満ぎみなせいか、階段の上り下りが結構きつい。3階にたどり着いた頃には息が相当上がっていた。

踊り場で息を整えながら、アパートの狭い共用廊下を見渡す。廊下の右側には明り取りの窓が連なっていて、左側に住居のドアが並んでいる。隣の建物と密接しているために、壁に遮られて窓から射す光は乏しい。その上昼間だからなのか、天井の電灯も点いていなかったので、廊下はかなり薄暗かった。

ようやく息が落ち着いたので、ゆっくりとした足取りで廊下を奥に向かう。建物の中を、極力足音を起てない様にして歩くのは、長年培った刑事としての習性であった。奥に進むに従って、異臭が鼻を突いて来る。立ち止まって一段と薄暗くなった最奥の部屋の前の廊下に目を凝らすと、床になにか液状のものが溜まっているのが見えた。

――あれは血じゃないのか?

バドコックは嫌な予感と共にそう思った。一瞬応援を呼ぼうかと迷ったが、とにかく床に広がるものの正体を確かめてからだと思い直し、ゆっくり部屋の前まで進む。ドアの前でしゃがんで確かめると、そこには紛れもない血溜りが出来ていた。

バドコックが立ち上がり、応援を呼ぶためにポケットの携帯電話を取り出そうとしたその時だった。ドアが勢いよく開かれ、室内から誰かが飛び出して来た。そしてその勢いで、バドコックは血溜りの上に弾き飛ばされてしまった。飛び出して来たのは男のようだった。そいつは血溜りに尻もちをついたままのバドコックの方を振り向くと、驚いたような表情を浮かべる。

廊下の暗がりの中に垣間見えたその顔は、人間のものではなかった。

頭部には所々毛髪が残っているが、ほとんど禿げあがっている。それでも顔の上半分だけは人間の名残を残しているが、その下半分、口の周辺部は左右に膨らんでいて、上部の倍程の大きさがある。鼻は突き出た口の部分に押し上げられて上を向き、二つの鼻腔が顔の真正面を向いていた。そして何よりも異様だったのはその口だった。口裂は左右に、通常の倍以上の長さまで広がっていて、膨張した顔の下半分が、真ん中からぱっくりと裂けた様に開いていた。その隙間から覗く歯は赤く染まっている。おそらく血だろう。その体形も異様だった。体幹や脚は少し痩せた人間のそれだったが、両腕が異様に発達しる。人体構造をまるで無視したような、バランスの悪い体形だったのだ。

一度見たら決して忘れることの出来ないその容貌を、バドコックの瞼にしっかりと焼き付けたその者は、すぐさま踵を返すと階段の方に物凄いスピードで駆けて行った。その後姿を、バドコックは呆然と見送るしかなかった。男が階段を駆け下りる音を聞きながら、バドコックはようやく我に返った。転んだ拍子に腰をしたたか打ったようで、立ち上がろうとすると強い痛みが走る。それでも何とか壁に手を突き、立ち上がってみると、両手も服も血まみれだった。

逃げた男を追いかけようかと一瞬思ったが、この為体ではとても無理だろうと思い直す。そして腰の痛みに耐えながらヤードに電話を掛け、緊急配備と部下の応援を依頼した。漸くそこまで済ますと、バドコックは開け放たれたドアから室内の様子を確認する。床の上を引きずった様な血痕がドア付近から室内へと続き、その先には女性の死体らしきものが俯せになって横たわっている。その周辺にはかなりの血溜りが出来ていた。

バドコックは慎重に室内に入ると、被害者の状況を確認した。予想通りだが、彼女は既にこと切れていた。振り返ってドア付近の床に目を向けると、そこにはピザが散乱していた。おそらく目の前に横たわっているのは、先程立ち寄ったパブの、運の悪い新米店員なのだろう。そしてバドコックは、今しがた自分が見たあの異形の者が、彼が追っている連続殺人犯に間違いないと確信した。その犯人を目の前にしながら、おめおめと取り逃がしてしまったのだ。応援を呼んでからここに来なかった自身の失態に、彼は激しく舌打ちをした。

室外に出たバドコックは、ドアの前の血だまりを避けて廊下の壁にもたれ、ヤードからの応援を待った。腰のあたりに周期的に強い痛みが走る。滅入りそうな気分の中で、バドコックは自分が先程目撃した男の顔を思い浮かべていた。

――あいつは一体全体何だったんだ?あれは人間だったのか?あんな人間がいてたまるか。それとも自分は幻覚でも見たのか?もし自分が見たものが現実であったならば、ケスラーの野郎が宣った戯言が事実だったということになる。奴はこう言った。犯人の野郎の口が裂けていると

確かに自分が目撃したものは、あの忌々しい検死医が予測した犯人像そのままだった。だとすると、ケスラーが主張する犯人の変化、最初は普通の人間だった者が、短期間にあの人間離れした姿になったというのも、事実だということになる。

――事実だと言うのなら、あの噛みつき野郎に何が起こったと言うんだ?

バドコックは思考を放棄したくなった。自分が半世紀以上かけて築き上げてきた常識が、全く無意味だったという誰かの宣告を聞いた気分だったからだ。

しばらくの間壁にもたれてとりとめのない思いに耽っていると、階段を駆けのぼってくる複数の足音が聞こえてきた。踊り場に目をやると、クリストファー・ウィットマンを先頭に見慣れた連中の顔が幾つも近づいてくる。バドコックの有様を見たウィットマンは、

「警部、大丈夫ですか?それにしても酷い有様ですね。」

と、激しく息を切らしながら訊く。

「ああ、無様過ぎて自分でも嫌になるよ」

そう言いながらバドコックは、ウィットマンの後ろに並んだ部下たちに、部屋に入るよう顎で指示した。刑事たちが部屋に入るとすぐに、「これは酷いな」という声が中から聞こえて来る。開いたドアから室内を見たウィットマンも顔を顰めた。

その背中に向かってバドコックは、「非常配備は終わったのか?」と訊いた。

「ええ、警部から電話をもらってすぐに、この一帯を中心に半径5マイルの非常線を張ってます。もう少し広げた方がいいですか?」

「いや、今はそれくらいでいいだろう。聞き込みは?」

「10人ばかり動員して、この近辺で目撃者探しをさせてます。ところで警部は犯人の野郎を見たんですか?」

バドコックは束の間躊躇したが、

「逃げていく後姿はな。中から飛び出してきた拍子に、突き飛ばされてこの様だよ。まったく見っともねえ」

と部下に告げた。敢えて自分が見た犯人の容姿について部下に伝えなかったのは、言ったとしても納得させるのに骨が折れるだろうし、何より自分がまだ半信半疑だったからだ。

「そうですか。服装とかはどうでした?」

「下は穿いていたが、上は裸だったよ」

「裸ですか?じゃあ、目立つな。聞き込みの連中と、それからヤードに連絡して非常線を張ってる連中にも、そのこと伝えときますわ」

そう言うとウィットマンは携帯を取り出し、少し離れた場所で連絡をとり始めた。その時、室内から若い刑事が一人出てきた。

「警部、被害者は首筋をごっそりと抉られてます。」

「他に外傷はないのか?」

「今のところ見つかってません。やっぱり例の奴ですかね?」

「まあ結論は検視の結果が出てからだが、十中八九間違いないだろう。被害者の身元は分かったのか?」

「ええ、身分証を持ってました。ダイアナ・リヴェラ、26歳、ハーリンゲイの西地区に住んでます。職業は今のところ不明ですが、入り口付近にデリバリーのピザが散らばってましたんで…」

「多分パブの店員だろう」

「え?何で分かるんです?」

「いいから、この前の被害者の発見現場近くにあるパブを当たるように、聞き込みの連中に伝えろ。赤い日除けのテントがある店だ。大通り沿いにある店だから、すぐに分かるはずだ」

若い部下は不得要領な顔をしたが、とりあえず離れた場所に移動して電話を取り出した。それと入れ替わりにウィットマンが戻ってきて報告する。

「男の話は全員に連絡しておきました。しかしまだ見つかってはいないようです。その、この部屋から飛び出してきた男というのは、この部屋の住人ですかね?」

「そいつは断言出来んが、可能性は高いな。クリス、お前このアパートのオーナーに当たって住人のことを調べてくれ。多分、トーラスという郵便配達員だ」

「なんですって、警部!?何でそんなこと知ってるんです?」

「後で話すよ。それより俺は一旦家に戻って着替えるわ。この格好じゃあ、ヤードに戻る訳にもいかねえからな」

「そうですね。でも警部。脱いだ服は袋に入れてヤードに持って来て下さいよ。一応証拠品ですから」

「ああ、分かったよ。じゃあ、後は任せるわ」

そう言い残して、バドコックは現場を後にする。階段を降りるたびに腰が痛んだ。汗が噴き出て来るのは暑さのせいなのか、それとも痛みのせいなのか分からなくなった。多分両方なのだろう。何とか外に止めたクーパーにたどり着いた時には、全身汗まみれになっていた。エンジンをかけると徐々にエアコンが利き始め、車内の温度が下がっていく。腰の痛みも少し落ち着いてきたようだ。漸くバドコックはクーパーを発進させると自宅に向かった。ここからだと、バーネットの外れにある自宅まで30分程度の道程だ。自宅に戻ったバドコックは、すぐにバスルームに向かった。共働きの妻は、当然のことながら職場に行っていて、家の中は無人だった。

バドコック夫妻には子供がいない。別に子供を望まなかった訳ではないが、残念ながら縁がなかったようだ。子供を諦めて既に10年以上が経つのだが、彼の妻は今でも時折、そのことを愚痴ることがある。しかし夫婦どちらかの責任ということでもないので、彼は妻の愚痴を逆らいもせず聞いている。ひとしきり愚痴ったら、それで清々したように話題を変えるので、今となっては特に苦にもならないのだ。

バドコックは脱衣所で汗と血にまみれた服をすべて脱ぎ、熱めのシャワーを浴びた。体にこびり付いていた殺人現場の穢れの様なものが、汗と共に全て洗い流されるようで心地よかった。バスルームを出ると新しい服に着替え、血の付いたシャツとズボンを摘まんで、ゴミ出し用のポリ袋に入れる。それを持ってクーパーに戻り、運転席のシートを見た途端にバドコックは、「ガッデム」と言って舌打ちした。シート全体がどす黒く染まっていたからだ。ズボンにはかなり血がついていたので、当然と言えば当然の結果なのだが、そこまで気が回らなかった自分の迂闊さを呪わざるを得ない。間違いなく、妻から冷たい視線を向けられるだろう。

――最悪の日だな

心中でそう嘆いた彼は家にとって帰し、ゴミ出し用のポリ袋を持って来てシートの上に敷いた。ずれないように何箇所かテープで固定する。見れば見る程不格好だったが、今はこれで仕方ないと諦めると、クーパーを走らせた。向かう先はヤードだ。途中の信号待ちの時間に携帯電話をチェックしたが、何も連絡は入っていなかった。ということは、被疑者はまだ発見されていないということだろう。

それにしても――と、バドコックは思った。

――自分が目撃したあれは一体何だったのだろう?何か安物のムービーに出てくる怪物の様でもあったが、あの顔半分と両腕だけが肥大した、バランスの悪い造作はいただけない。そもそもあれは人間なのか?あるいは本当に怪物なのか?奴があのパブの店主が言った通りの、トーラスという郵便配達員ならば、以前は人間として働き、生活していたことになる。ならば、あの姿は何だ?急にあんな怪物に変身したとでも言うのか?だとすれば、あの忌々しいケスラーの野郎の、科学的推論とやらが正しいということになるではないか。

その点をケスラーに問うてみたい気もするが、したり顔で講釈されるのが落ちだと思い、その考えを打ち消した。全く考えがまとまらない内に、クーパーはヤードに到着した。専用のエリアに車を停め、証拠品として持参した血まみれの服を袋ごと担当者に渡すと、オフィスに入って席に着く。彼に続くようにして入ってきた部下の刑事三人が、デスクの前に並んだ。

バドコックが顎で促すと、右端に立ったキプリスという若い刑事が報告し始めた。

「被害者は身分証にあった通り、ダイアナ・リヴェラ、26歳、ハーリンゲイの西地区の住人です。警部の指示通り、前の事件があった現場付近のパブに当たったところ、携帯電話で撮った顔写真で、店長から一応確認が取れました。かなり嫌がってましけどね。そのあと母親と連絡がついて、つい今しがた安置先のKCLまで来てもらい、本人確認が取れたようです」

キプリスはそこで言葉を切ってバドコックを見たが、特に反応がないので報告を続ける。

「母親はまだ証言が取れる様な状態はなかったんで、これはパブの店長の話なんですが、被害者はプロのダンサー志望だったそうです。しかしまだプロとしてはものになっていなくて、アルバイトをしながら、あちこちのオーディションを受けていたようです。今の店に勤め始めたのは先週の月曜からだそうです」

「運が悪い子だな」と、隣に立ったウィットマンが呟いた。

それを無視してバドコックは、「死因は?」と訊いた。

その問いには左端に立ったロックウェル刑事が答えた。

「遺体はこれから司法解剖されますが、鑑識担当によると他に外傷がなかったようなので、おそらく首筋の傷が致命傷だったと思われます」

「担当は例によってケスラーか?」

「ええ」

ロックウェルの返事を聞いたバドコックは、露骨に不快な表情を浮かべた。しかしこれまでの経緯から、今回もケスラーが剖検を担当することは当然と言えば当然だろう。

「それで、あの部屋の住人は確認が取れたのか?」

バドコックは気を取り直して訊いた。それにはウィットマンが答える。

「はい。あのアパートの管理会社に当たったところ、住人はベンジャミン・トーラス、33歳、スコットランドのアバディーンの出身です。あの部屋に入居したのは4年程前で、警部が言われたようにロイヤルメール(英国の郵便公社)の職員でした。しかし6週間程前に馘になってます」

「馘?」

「ええ、突然体調不良とかで会社を休んだ後、一度も出て来なくなったんで、そのまま」

そう言いながらウィットマンは、右手横に振って首を切る仕草をした。

「連絡もせずに馘かよ?」

「いえ、何度か上司が電話したようなんですが、言い訳するばかりで。終いには上司に向かって怒鳴り返す始末だったそうです。で、上司もとうとう切れちまったそうで。結局その後、一度も出てきてないみたいです。会社の方では残りの給料をさっさと精算して、奴の口座に振り込んだそうですが、それについても何の反応もなかったようでして」

「そのトーラスというのは、どんな野郎だったんだ」

「大人しい男だったみたいですよ。職場でもあまり目立たないような。人付き合いも良くも悪くもない、そこら中にごろごろしている平凡な男だったようです」

「そんな奴が上司に切れて、怒鳴りつけたのかい?妙だな」

「ええ、上司も訳が分からず、驚いたと言ってました。まあ、誰だって怒りに我を忘れる時くらい、あるのかも知れませんがね」

「ふん、まあいい。それでそのトーラスというのは、背格好はどんな奴だったんだ?」

「これがまた至って平凡で。身長は67インチ(約170cm)、体重は120ポンド(約54kg)足らずの小柄で痩せた男です。髪は長めで薄いブラウン、瞳はアンバー、履歴書の写真を見た限りじゃ、顔立ちにも目を引くような特徴はなかったですね」

「頭が禿げてるってことはなかったのか?」

「写真を見た限りでは、ふさふさしてましたよ。どうしてです?」

「いや、何でもない」

バドコックはそう誤魔化しつつ、逃げた男の姿を思い出していた。

――奴の頭はほとんど禿げあがって、所々に長めの毛髪が取ってつけたようにぶら下がっていた。だとすると、奴はトーラスではなかったのか?

「警部、どうされました?」

ウィットマンの言葉にバドコックは我に返った。そしてその場を取り繕うように、

「トーラスの部屋から逃げた野郎はまだ見つかってないんだな?」

と、ウィットマンに確認する。

「ええ、まだですね。非常線にも引っかかって来ません。あのアパートの近くに広い公園があって、結構樹木が生い茂ってますから、そこに紛れ込んでる可能性が高いですね」

「何でそう言い切れるんだ?」

「実はあの辺りで、妙な聞き込み情報がありましてね」

「妙な?」

「ゴブリンが走って公園に入って行ったとか。オークだったとか」

「ゴブリン?オーク?何だそりゃ?」

「ゴブリンとかオークとかいうのは、<ロード・オブ・ザ・リング>なんかに出て来る化物のことですよ」

横からキプリスが得意げに口を挿むのを睨みつけて制すると、

「質の悪いデマじゃねえのか?」

と、バドコックは改めてウィットマンに質した。

「俺も最初聞いた時は、そう思ったんですけどね。何人もそう言ってる目撃者がいるらしいんですよ。共通してるのは、上半身裸で頭の禿げあがった野郎が、公園に逃げ込むように入って行くのを見たと言うんですよ」

そう言って語尾を濁したウィットマンを、「どうした?」と言ってバドコックは睨んだ。

「いやそれが、目撃者が口を揃えて、そいつの口が頬まで裂けてたとか、両腕が異様に太かったとか、集団幻覚でも見たんじゃないかと思うくらい馬鹿げた証言で」

そこまで言ってウィットマンは、バドコックが一段と厳しい表情をしたのを見て、黙り込んでしてしまった。多分この狷介な警部を激怒させたかも知れないと思い、次にその口から飛び出して来る罵声に備えた。しかしバドコックからは意外な反応が返ってきた。

「そいつは、俺が見た奴だ」

「何ですって?」

慌ててそう訊き返す。

「だからよ、その禿げて口の裂けた野郎は、あの部屋から飛び出して来て逃げた野郎だと言ってるんだ。目撃者の証言は正しいって言ってるんだよ」

結局最後は、低い怒鳴り声に変わった。

「じゃあ、警部もゴブリンを見たと?」

バドコックの怒声に慣れきっているウィットマンは、平然とそう返した。

「ゴブリンだあ?そんなお伽噺に出てくる化け物じゃあねえよ。あれは多分人間だ。それでも目撃者の言うように、口が裂けて腕の筋肉が異常に盛り上がっていたのは事実だ。俺と目撃者が揃って薬にラリッてない限り、事実なんだよ」

束の間オフィスに気まずい沈黙が流れた。部下は三人とも信じられないという表情で、黙ってバドコックを見ている。彼の口からそんな科白が飛び出すとは、少なくとも普段の彼を知っている者からすれば、想定外にも程があるということだ。その妙に重苦しい空気を振り払うように、バドコックは言った。

「おいクリス、そのゴブリン野郎が逃げ込んだらしい公園に的を絞るぞ。広さはどれくらいあるんだ?」

「確か、50エーカー以上あったと思います」

「クリス。警邏の警官を動員して、二人一組の隊を10隊作らせろ。お前らも二人一組になって公園を隈なく捜索しろ。念のために銃は携行して行けよ。それから入り口には警官を三人ずつ配備して固めるんだ。今張ってる非常線は公園の周囲に範囲を絞り込め。上にはこれから俺が説明して納得させるから、すぐに動け。そらっ、愚図愚図するな」

慌ててオフィスを出て行く部下たちを一睨みした後、バドコックはデスクフォンで上司のヴァスケス警視長に内線電話を掛ける。幸いヴァスケスは席にいて、すぐに電話に出た。バドコックは状況を早口で説明すると、警官動員の許可を貰えるよう、半分脅すようにして頼み込んだ。その勢いに押されたのか、彼は思いの外すんなりと許可を降してくれた。バドコックは席を立つと、電話で何か指示を出しているらしいウィットマンに声を掛け、刑事部屋を急ぎ足で後にした。


【06】

のどが渇いた。水が欲しい。水が飲みたい。

腹も減った。もう何日も食べていないような気がする。

この前、いつ食べたっけ?

あれ?さっきピザを頼まなかったっけ?

そうだ、ピザだ。いつもの店に頼んだんだ。

あれ、あのピザどうしたんだっけ?

配達員が部屋に持って来て。

配達員?

そうだ!女だった。

いつもの男と違う、女の配達員だったんだ。

そうだ!

それからどうしたんだっけ?あれ?どうしたんだっけ?

部屋でピザを受け取って、部屋から出て、それから…。

あれ?何で俺、部屋を出たんだっけ?

そう言えば、ドアの所に誰かいたな。誰だっけ?

それにしても俺はどこにいるのだろう?

ここはどこだ?

ここはどこだ?

どこなんだ?

あれ?

あそこにいるのは誰だ?

女だ。

噛みたい。

噛みたい。

噛みたい。

噛みたい。


***

ジェシカ・ミルトンは同僚のドナルド・モブスとコンビを組んで、インフィールド自治区東部にある公園内を巡邏していた。

この公園は彼女の担当区域外にあるのだが、今日の午後になって大規模な動員が行われ、彼女と相棒のモブスも召集されたのだ。ジェシカたちは当初、この地域を中心に張られた幾つかの非常線の一つに配備された。彼女が指定された現場に行ってみると、先着していた警官たちの中に常にない緊張感が溢れていた。公式な指示は出ていなかったが、現在ロンドン中を震撼させている連続殺人犯がついに特定され、逃走しているという噂が流れていたからだ。そのせいか現場は、彼女がヤードに入ってから、これまでに経験したことがない程に騒然とした雰囲気に包まれていた。

しかしその容疑者らしき男が、非常線に掛かることはなかった。そして2時間程前にジェシカたちの組は急遽非常線を離れ、この公園内の巡邏を命じられたのだ。彼女たち以外にも9組の警官が公園の巡邏に配備されていた。公園内の担当区域を決め、警官たちが二人一組で園内の巡邏を開始してから既に1時間以上が経過していた。目的は明確に告げられていなかったが、不審者が公園内に逃げ込んで潜伏しているようだった。それが連続殺人事件の容疑者なのかどうか、相変わらず明確な説明はない。しかしその不審者と関連しているのかどうか分からなかったが、妙な噂をモブスが拾ってきていた。この髭面の中年男は、その呑気そうな顔からは想像出来ないくらい、噂話の収集が得意だった。皆その顔に騙され、警戒心を解いてしまうのだろうと、ジェシカは常々想像している。そのモブスによると、公園に逃げ込んだのがゴブリンだと言うのだ。

「ゴブリン?何それ?」

ジェシカの当然ともいえる反応にモブスは、

「俺も信じている訳じゃねえよ。しかしそういう目撃情報が相次いでいるんだ。それだけじゃなく、バドコック警部までそのゴブリンを見たと言うんだぜ」

と、笑いを含んで追加した。

「バドコックって、あの?」

「ああ、あのバドコックだよ」

「あの、いつも仏頂面をして、部下を顎で使いまわしている、尊大この上ない警部様が?ゴブリンを見たって宣ってるの?信じられない!」

そう言いながらジェシカは爆笑した。モブスもつられて苦笑を浮かべる。バドコックを知る人間からすれば、彼がゴブリンを見たなどと証言するのは、イギリス首相がエイリアンとランチを共にしたと主張するのと同じくらい、信憑性のない与太話に過ぎないのであった。

「それにしても暑いな」

モブスが話題を切り替えると、ジェシカも賛同して肯いた。既に午後6時になろうとしているが、日が暮れる気配もない。気温は90°F(約32°C)を超えているようだ。汗で濡れた制服が背中に纏わりついて気持ち悪い。こんな日の巡邏は最悪だ。

いつまで続くのだろう?――とジェシカが思った時、背後から何かが近づいてくる気配を感じた。とっさに振り向いたジェシカが見たのは、何か大きな裂け目の様なものだった。中は白とピンクと赤が入り混じった色をしている。それが大きく開かれた口だと認識する前に、ジェシカの左の首筋を衝撃が襲った。反射的に体を後に引こうとしたが、両腕を強い力で掴まれていて身動き出来ない。ほとんど抵抗する間もなく、ジェシカは左の首筋の肉をごっそりと噛み切られ、意識を喪失した。

それはわずか数秒間の出来事だった。その間モブスは相棒を襲った突発的な状況を咄嗟に理解することが出来ず、巨大な口がジェシカに噛みついて首筋の肉を食い千切るまでの一連の動きをフリーズしたままで見ていた。しかし頸部から鮮血のシャワーを噴き出しながら彼女が崩れ落ちていく姿に、突然現実へと引き戻される。

彼の目の前に立っていたのは、人の姿に似た怪物だった。顔の下半分が膨らんで、上部の倍程もある。その下半分を横に切り裂くように口裂が広がり、少し開いた口からは血の付着した歯が覗いている。口の端からはジェシカの血が涎のように滴り落ちていた。鼻は膨らんだ口の部分に押し上げられて上を向き、二つの鼻腔が顔の真正面を向いている。頭部には所々毛髪が残っているが、殆ど禿げ上がっていた。そして貧弱な体幹に対して、両腕の筋肉が異常に発達している。彼はその時になって初めて、目の前の怪物が上半身裸であることに気づいた。

モブスは先程聞いたゴブリンという怪物の姿を知らなかったが、目の前のこの怪物こそがそれだろうと思った。彼は怒りと恐怖に駆られ、腰の警棒を引き抜くことも忘れて、その怪物に向かって突進した。口から意味不明の怒号を発しながら。しかし彼のその攻撃は、あっさりと撃退されてしまった。異様に発達した腕の一振りで弾き飛ばされてしまったのだ。

モブスが尻餅をついたまま見上げた怪物の顔は、不思議な表情をしていた。眼を大きく見開いたその相貌には、驚き、怯え、悲しみ、怒り、そして何よりも当惑の感情が強く表れている様に、彼の眼には映った。

モブスが立ち上がって腰から警棒を抜き出そうともがいている間に、その怪物は近くに藪に走って逃げ込んでしまった。そして彼が漸く警棒を手にした時には、怪物は深い茂みの中に姿を消していた。ジェシカが襲われてから怪物が逃げるまで、ほんの1、2分の間の出来事だった。モブスは狼狽えながらも、倒れたジェシカを抱き起こしたが、彼女の体は既に大量の血を失い冷たくなっている。辺りの地面は、流れ出した彼女の血で真っ赤に染まっていた。その時になって漸く、騒ぎを聞きつけた数組の警官が駆けつけてくるのが見えた。


【07】

怖い。

警察がいた。

何で?

何で警察がいる?

怖い。

逃げなきゃ。

捕まったら大変だ。

ママが悲しむ。

怖い。

ここはどこだ?

とにかく逃げなきゃ。

警察が追いかけてくる。

怖い。

逃げなきゃ。

大変なことになる。

怖い。

何で警察は追いかけてくる?

俺が何をした?

噛んだだけだ。

噛んだだけなのに。

どうして追いかけて来るんだ?

来ないでくれ。

俺は噛んだだけだ。

怖い。

助けて。

助けて。

誰か助けて!


***

バドコックが到着し時、現場は何故か不思議な静けさに包まれていた。

一目でそれとわかる程赤く染まった地面の周囲を、鑑識担当者が行き交いながら黙々と作業を行っている。その周囲には数人の警官が、一人残らず激しい怒りを内に押し込めたような表情で立っていた。同僚の警官が襲われ負傷したのだから当然だろう。バドコックの心も怒りで爆発しそうだった。

襲われたジェシカ・ミルトンという女性警官の姿はそこにはなく、既に病院に運ばれた後のようだ。少し離れたベンチには、制服を血で真っ赤にした男の制服警官が一人、頭を抱え込んだまま座っていた。ジェシカの相棒だろう。

「犯人はどうした?」

バドコックの問いに、一人の警官が少し怯えたような表情を浮かべると、20ヤード程先の藪の方向を指し、「あっちに逃げたようです」と答えた。

その時バドコックの中から、抑えきれない憤怒が溢れて出してきた。

「それが分かってて、何をこんな所でぼやぼやしていやがるんだ?お前らは木偶か?とっとと追いかけて捕まえて来い!」

その剣幕に弾かれるように一斉に直立した警官たちは、その場から逃げ出す勢いで、藪の方に向かって突進していった。その姿を憤然として見送っていたバドコックの背後から、

「警部、奴は貯水池の方に逃げたようです。今そっち方面に非常線を張らせてます」

と、ウィットマンが声を掛けた。その冷静な声に、バドコックのテンションは、急激に平常状態に戻って行く。

振り向いたバドコックは、「貯水池はここからどれくらいだ?」と確認する。

すぐに、「1マイルくらいです」という返事が返ってきた。

ウィットマンに、この場に残ってベンチの警官から事情聴取するように指示すると、バドコックは残り二人の刑事を連れて貯水池方面に向かった。速足で20分程歩き、かなり息切れがしてきた頃に、非常線が敷かれた現場が見えてきた。現場付近は、幾つかの貯水池と、リー川の流れが入り組んだ場所だった。バドコックはその場の指揮を取っている、顔見知りの制服警官に声を掛け、状況を報告させた。

「公園の現場からこっち方向に、30名の警官を動員して追い込んでいます。こんな状況ですから急いで拳銃を取り寄せて、全員に武装させています。包囲の網から漏れないように慎重にやらせていますから、ご心配なく。公園内で確保されなければ、もうすぐこっちに姿を現すと思われますが、見ての通り100人以上がこの付近に配備されてますから、出てきたら必ず捕まえますよ」

ベテラン指揮官の報告を聞いたバドコックは、

「人数が多いからといって油断するなよ」

と、一言注意した。指揮官は、

「分かってますよ」

と応えると、踵を返して配備された警官の群れの方に戻って行った。

バドコックが現場を見渡すと、貯水池沿いの歩道は警官隊が持ち込んだ照明で明るく照らされていた。一方で公園に続く雑木林は暗闇の中に沈んでいく。

――あの闇の中に潜んで、奴は何を考えているのだろうか?

バドコックは、あのアパートの部屋から飛び出し、自分を振り向いた時の犯人の顔を思い出していた。その相貌はケスラーが予想していたように、およそ人間とは思えないものだったが、その表情は自分が置かれている状況がまるで分かっていないような、当惑と怪訝さが入り混じったものに映った。少なくとも連続殺人犯が殺害現場から逃走する状況にはおよそそぐわない、何か場違いなものだった。

――何故奴はあんな表情を浮かべていたのだろう?

あの状況、殺人現場を第三者に見とがめられた場合には、通常怯えや驚き、場合によっては怒りの表情を見せるのが、バドコックがこれまで見てきた殺人犯に共通する特徴だった。しかしあの男は怪物じみた顔に、はっきりと怪訝さを浮かべていた。まるで自分が今置かれている状況が理解出来ないかの様に。その妙な違和感が、気持ちの中にわだかまって徐々に膨らんで来ている。そしてそのことが、容疑者を追い詰めている時に彼がいつも感じる、ある種の高揚感を阻害しているのだ。その結果、何となく気分が塞いで機嫌が悪い。部下の刑事たちも彼の不機嫌を敏感に察して、黙々と後ろをついて歩くだけだった。

その時少し離れた場所で、何か大きな声が響き渡った。続いてその場所から、大勢が発する怒声の波がバドコックの方に向かって伝播して来る。突如騒然と動き始めた現場を、バドコックは声の中心に向かって駆け始めた。二人の部下もそれに続く。彼は騒ぎの中心までたどり着くと、貯水池の土手を見上げた。その場所を照らすサーチライトの白い光の中に、そいつはいた。

所々毛髪を残して、禿げあがった頭。

肥大した顔の下半分に、裂け目のように広がる口。

半開きの口から覗く歯。

痩せた体幹に不釣り合いな、筋肉で盛り上がった両腕。

間違いなくバドコックが見た怪物だった。ライトの光が眩しいのか、怪物は大きな手で顔を庇う様にしている。顔には何故か、とても不本意そうな表情が浮かんでいる。両目からだらだらと涙を流している。口元を見ると何か言っているようだ。警官たちの発する怒声でよく聞き取れないが、その口の動きは、「助けて」と言っている様にバドコックには見えた。その時、10人余りの警官が拳銃を構えながら、包囲の輪を縮めていった。口々に、「動くな」と警告を発している。

しかし怪物は動いた。貯水池の方に逃げようとして、その方向を塞いでいた警官を太い腕でなぎ倒した。口からは意味不明の叫び声を発している。それを見た数人の警官たちが、一斉に発砲した。バドコックが止める間もない、一瞬の出来事だった。

発砲音の余韻を残し、現場は静寂に包まれた。

静かに倒れていく怪物の顔は、口の部分が大きく抉られていた。顔に被弾したらしい。その眼がただ虚ろに見開かれているのを、バドコックは確かに見た。やがてその姿は、土手の向こうへと消えて行った。続いて何かが貯水池に落ちる水音が辺りに響く。その音が契機となって、再び怒声が巻き起こった。大勢が土手に駆け上がって行く。その傍らを、バドコックはゆっくりとした足取りで登って行った。

土手の向こう側は切り立った壁で、水面までかなりの高さがあるようだった。警官たちが、土手に運び上げたサーチライトで辺りの水面を照らし始める。しかしそこには怪物の姿はなかった。おそらく水中に沈んだのだろう。あるいはしぶとく生き延びたのか。

――さすがにそれは無理だろうな。

バドコックは急激に、虚しさに襲われた。

――あいつの口から、何でこんなことを仕出かしたのかを聞くことは、永遠に出来ないんだろうな。

そう思うと、欠足感が胸の中に広がっていく。

部下たちが指示を求めてきたので、貯水池と周辺の捜索を命じたが、気分はどうでもいいという、投げやりなものだった。これから奴が発見されたとして、それが生きたままであろうが死んでいようが、奴と事件との関連性を証明していかなければならない。その作業もうんざりだった。

――あいつは何だったのだ?

おそらく解答の出ないその疑問が、これからずっと自分の心にわだかまり続けていくことを想像して、バドコックはまた小さく舌打ちした。


【08】

翌日貯水池に沈んでいた容疑者の死体が、捜索に当たっていたダイバーによって発見され、即刻剖検に回されることになった。担当は例によってケスラーである。その知らせをヤードのオフィスで受けたバドコックは剖検に立ち会うことにして、KCLにクーパーを走らせた。相変わらず心中には、重たいわだかまりを残したままだった。

KCLに着くと、既に容疑者の死体は搬入され、既に解剖の準備が整っているようだった。ライトブルーの解剖着を着たケスラーと2名の助手が既に待機していて、バドコックの到着を待って直ぐに剖検が開始された。ケスラーたちの作業は淡々と、そして入念に進められ、開始から2時間余りが経過して漸く終了した。それから30分程の時間をおいて、バドコックはケスラーの部屋を訪ねた。

部屋に入るなり、デスクに座ってパソコンに向かっていたケスラーが、

「おや、警部殿。予想より遅かったね。気を使っていただいたのかな?」

と言ったのには閉口したが、勧められる前にデスクの前の椅子にどっかりと腰かけると、

「あれは何なんだ?」

と、単刀直入な質問を放った。

ケスラーはその迫力に動じることもなく、

「死因は訊かないのかね?」

と笑って返す。

「ああ、死因な。銃創か?」

「相変わらず端的な物言いだね。私や君の部下でなければ、意味が理解出来ないぞ。まあそんなことはいい。死因はもう少し検証が必要だが、おそらく頭部と胸部に受けた銃弾による創傷だね。頭部に2発、胸部と腹部にそれぞれ1発、そして右大腿部にも貫通痕が一つ、計5発が命中していた。普段拳銃を携行していないのに、ヤードの警官はなかなか射撃の練度が高いようだね」

バドコックは、そんなことはどうでもよいとばかりにケスラーを睨むが、それでも彼は全く動じない。

「頭部に受けた銃創は深刻で、下顎部の30%あまりが捥ぎ取られていた。さらにもう1発は、口腔内から入って後頭部に抜けていたが、その際に脳幹や小脳のかなりの部分に損傷を与えていた。そして胸部の1発は大動脈弓を破裂させていた。いずれも致命傷と言ってよいダメージだったよ。おそらく彼は、即死ではなかったにしろ、銃弾を受けてから1分も生きていなかっただろうな」

そう言ってバドコックの顔を見た。

「死因についてはよく分かったよ。それじゃあ、最初の質問だ。あれは一体全体何だったんだ?」

バドコックの問いにケスラーは、心もち俯いて考える仕草をしたが、すぐに顔を上げると、語り始めた。

「あれは間違いなく人間だ」

「間違いなく?」

「ああ、解剖学的見地から人間と推定される。極度に発達した上顎部と下顎部及び両腕と、口裂の大きさ、そして歯の形状を除けば、脳神経、心肺、循環器、消化器、排泄器その他、すべての臓器が人間のものだったよ」

「それだけ異常なものが揃っていていれば十分だろう。あれが人間だと言われても、俺には到底納得出来ねえ」

「君の言い分は尤もだ。しかし歯の形状と数を除けば、顔にしろ腕にしろ、本質的に我々と変わらないのだ。いずれにせよ、染色体を調べれば彼が人間であることは明確になるがね」

「しかし」と言い募ろうとするバドコックを遮って、ケスラーは続けた。

「顔や腕は本質的に変わらないとは言ったが、その形状は君の言う様に、人間の通常サイズとはかけ離れている。その点は疑う余地もない。だが彼のあの特異な肉体は、君や私と同様に、骨や骨格筋、血管、リンパ管などで構成されているのだ。ただそれが、人間の活動に必要と思われる上限を、遥かに超えたレベルまで発達しているというだけのことなのだよ。彼の肉体は、人間の上腕部を掴んで頸部を噛むという目的に特化した場合は、非常に合理的な形態と言える。では彼は、先天的にあの様な肉体の持主だったのか?仮にそうだったとすれば、彼はベンジャミン・トーラスではないことになる。何故ならば、ベンジャミンは最近まで、このロンドンで郵便配達人として働いていたからだ。ベンジャミンが生来あの様な肉体的特徴を有していたとすれば、今まで彼が大衆の話題に上らないとは考えられないからだ」

「確かにな」と、バドコックは肯定した。

「では彼はベンジャミン以外の人物なのか?その可能性は勿論否定出来ない。しかし私は、彼がベンジャミン本人であると考えているのだがね」

「何故だ」

「以前私がこの連続殺人犯に、形態的な変化が起きている可能性を示唆したのを憶えているかね?フィル」

「ああ、憶えてるよ。今回俺があのパブの店員の話に引っかかったのはそのせいだ。だがな、ブライアン。あんな風に口が裂けて歯が増えるなんてことが、わずか一か月あまりの間に起こるとは信じられねえ。やっぱり奴はトーラスとは別人と考えた方が、筋が通るんじゃないのか?」

「あの時も説明したと思うが、私の推論つまり、あんな風に口が裂けて歯が増えるなんてことが、わずか一か月あまりの間に起きたというのは、科学的な根拠から導き出されたものなのだよ。まあそれについて今更君と論争するつもりはないがね。彼の部屋から採取された標本を、現在DNA鑑定に回している。その結果が出れば、彼がベンジャミン本人であるかどうかについては、すぐに明確になるだろう。さて彼がベンジャミンかどうかは、今は置いて、彼の肉体的変化が後天的に起こったという前提で話そう。いいかね?」

バドコックは沈黙したままだった。ケスラーの饒舌に口を挿む気力を、既に喪失していたからだ。その沈黙を肯定と判断してケスラーは続けた。

「何が原因となって、彼はあの様な肉体的変貌を遂げたのか?例えば薬物と特殊な肉体的鍛錬を組み合わせることで、骨格筋の増強自体は可能だろう。両腕に関しては、その可能性はそれ程低くない。しかし顔に関しては、その様な方法は不可能に近い。そもそも上顎部と下顎部の骨格自体が変形している。口裂に関しては、外科的に広げることは不可能ではない。しかし歯は無理だ。なにしろ本来上下8本しかない切歯が、彼には16本あったと推定される。犬歯は元の配列に収まっていたが、臼歯は切歯によって奥に押しやられていた。しかもかなり短時間でだ。勿論彼が、少し前まで郵便配達員をしていたという前提だが」

「繰り返すが、奴がベンジャミン・トーラスだと確定した訳じゃないぞ」

「君の主張はまったく正しい。私が先程解剖した男が、ベンジャミンではない可能性はあるだろう。だが彼が別人だとしても、人間である限り結論は同じだ。彼があの様な肉体的変化をもたらす化学物質を、知らないうちに食物や薬物として長期間摂取することによって体内に蓄積させていたとしよう。その場合彼の肉体の変化も、短期間ではなく、ある程度の時間を経て進行すると思われる。つまりあの様な肉体の急激な変化の原因を、何らかの外的要因に帰することは極めて困難なのだ」

「大量の放射線を浴びたら、ああならないのか?」

バドコックは思い付きを口にしたが、即座に否定された。

「ふむ、面白い仮説だ。放射線の照射や薬物の投与、生化学的手法による遺伝子操作などで、人間をモンスターに変身させる可能性はゼロではないだろう。しかしそれは、小説や映画の世界の話だよ、フィル。放射線によって、あの様に特定の部位だけが影響を受けるとは考えられないし、そもそも、あれ程劇的な変化を引き起こす量の放射線に被爆したら、人間の肉体は持たない。とっくに死んでしまっているだろう。薬物にしても同じだ」

「じゃあ、あの怪物は、どうやって出来上がったと言うんだ?え?」

「外的要因が否定されるのであれば、内的要因ということになる。その場合考えられるのは、ある種の疾患による後天的変化だ。しかし私は、その可能性は殆どないと考えている。確かに人体を局所的に肥大化させたり、あるいは変形させたりする疾患が存在することは事実だ。しかし彼の形態変化は、詳細な検証は必要ではあるが、これまで報告されている様々な症例とは明らかに異なっている。その相違点について君に説明することは吝かではないが、今は時間の関係で割愛しよう。それとも聞きたいかね?」

バドコックは黙って首を横に振った。

「よろしい、では結論に移ろう。彼の肉体の変容は、おそらく内的要因に起因するものと推察されるが、その原因が何かは不明だ」

「おい!ふざけるなよ」

バドコックはその言葉に思わず怒声を上げた。しかしケスラーは全く動じることなく、彼を制して続ける。

「待ちたまえ、フィル。まだ続きがあるのだよ」

その言葉に、暴発しそうな自身の感情を無理やり抑え込むと、バドコックは話を聞く姿勢を取る。

「私だってあの様な肉体の劇的変化が、そんな短期間で起こるとは信じたくない。それに加えてその原因を、何がしかの疾患や放射線、薬物などの、我々が理解しやすい要因に求めたいのはやまやまだ。原因不明とするよりも、その方が安心出来るからね。しかし、それは無理なんだ。そして私は同様の事例を知っている。だから原因不明という、とても不本意な結論を選択せざるを得ないんだよ」

「他にも知ってるだと?」

「そうだよ、フィル。今から32年前の話だ」

沈黙するバドコックを前に、ケスラーの述懐が始まった。

「当時私は、KCLの解剖学研究室で助手をしていた。パルマー教授の元でだ。パルマー先生は非常に私に目をかけてくれ、独身だった私を、しばしば自宅でのディナーに招待してくれた。夫人のクレアさんも私に良くしてくれた。そして一人息子のトミーも私に懐いていた。君には信じられないかも知れないがね」

確かにそうだ――とバドコックは思った。この男に子供が懐くなど、到底信じられない。

「ところが、ある日を境に私はパルマー家に招待されなくなった。その頃パルマー先生はお父上を亡くされていたので、最初はそのせいかと思っていた。しかし、パルマー先生の様子が日に日に変わっていったのだ。物静かで温和だった先生が、ちょっとしたことで癇癪を起こし、突然研究室のスタッフを怒鳴りつけるようになったのだ。最初私は先生の変化に戸惑ったが、それまでに先生から受けた恩を考えると、やはり黙ってはいられなかった。そして意を決し、何があったのか先生に問い質したのだ。先生は私を見つめて、しばらく黙考されていた。やがて先生は、私に見せたいものがあるので、週末に先生の家を訪ねるように言われた。私はそれ以上何も問うことが出来ず、黙って先生の言いつけに従うことにした」

淡々と語るケスラーの眼に、何故か悲痛な色が浮かぶ。それを見たバドコックは、彼の話に口を差し挟むことが出来なくなってしまった。

「私が家を訪ねると、クレア夫人が出迎えてくれた。私は彼女を見て言葉を失ったよ。たった二か月程お会いしない間に彼女は頬がこけるまでやせ細り、以前のふくよかで明るい様子は見る影もなかった。顔色も随分と悪かったので、私は彼女が深刻な病気を患っているのではないかと疑った。それが先生の変化の原因ではないかと思ったのだ。だが実際は違った。先生に案内された部屋で、私は変わり果てた姿のトミーを見た。最初はそれがトミーだと認識することが出来なかった。いや、人間であるとすら思えなかった。暗い部屋の片隅に横たわっていた彼の手足と首が、異常に長かったからだ。トミーはかなり小柄な少年だった。彼の胴の部分は10歳の年齢そのままの大きさだったが、彼の手足の長さは、おそらく以前の倍以上になっていた。そして頸部は」

当時を思い出したケスラーは、痛ましそうな表情を浮かべて話を切った。バドコックは信じられないという表情で、彼を見ている。

「トミーの頸部はおそらく、30インチ(約75cm)以上に伸びていた」

「馬鹿な!」

思わずバドコックが口を挿んだ。しかしケスラーは動じない。

「私もそう思ったよ、フィル。目の錯覚ではないかとね。何しろその半年ほど前に見たトミーは少し小柄だが通常サイズの体格をしていた。しかしその時私が見た彼の変わり果てた姿は、紛れもない事実だった。背後で号泣していたクレアさんの声が、今でも耳から離れないよ」

バドコックは話のあまりの凄惨さに声を失ってしまった。

「私はパルマー先生に目で問うた。言葉を発することが出来なかったからだ。彼はトミーに起きた変化の原因は分からないと言った。この様な病態は聞いたことがないと。トミーは病気ではないのだと。私も先生の意見に賛同せざるを得なかった。それは30年経った今でも変わらない」

「医者には診せなかったのか?」

「あの様な姿になったトミーを、他人の目にさらすことにメアリーさんが猛烈に反対したそうだ。だから私は特別だったのだろう。あるいは私に、何らかの助言を期待しておられたのかも知れない。いずれにせよパルマー先生は、解剖学の権威であったと同時に優秀な医師でもあった。彼は夫人の意見を容れ、ご自身で原因を調べることにしたのだ。そして彼は二か月間あらゆる文献を精査したが、結局原因は分からなかったんだ」

そう話すケスラーの顔には、バドコックがこれまで見たことのない、悲しげな表情が浮かんでいた。

「結局先生は、何故その日私を呼んでトミーの変わり果てた姿を見せたのか、何も仰らなかった。幼い彼を襲った悲惨な運命を、誰かに知って欲しかっただけなのかも知れない。その日私は無言で先生のお宅を後にした。そして先生はその日から研究室に姿を見せることはなく、1週間後に自動車事故で亡くなられた。クレアさんとトミーも一緒だった」

「トミーはどうなったんだ?」

バドコックは苦いものを吐き出すように訊く。

「ご両親と一緒に亡くなったよ。どうやら車に大量のガソリンを積んでいたらしく、崖から落ちて炎上した後、爆発が起こって、跡形もない程ばらばらになってしまったそうだ」

「それは」

「おそらく心中だろうね。トミーの姿を世間の目から永遠に葬るための」

「ちょっと待て。いくらトミーの姿がそんなでも、死なせなくてもいいじゃねえか。その子にだって生きる権利があったはずだ。ちゃんと治療すれば、治ったかも知れねえだろう?それを親だからといって、勝手に奪う権利はねえぞ!」

「私も君の考えには同意するよ、フィル。しかしトミーは、恐らく長くは生きられなかった。私が見たトミーは、多分伸びてしまった頸部の構造のせいだと思うが、いつ呼吸が停止してもおかしくない様子だった。とても苦しそうで、見ていられなかったよ。もしかしたらトミーは、事故の前に既に亡くなっていたのかも知れない」

そう言ってケスラーはバドコックから顔をそむけた。バドコックも黙り込んでしまった。二人の間に重苦しい沈黙が流れる。

少し間を置いて、その沈黙を破ったのはケスラーだった。

「当時パルマー夫妻は、イングランド国教から他の宗教に改宗されていた。後からパルマー先生に聞いた話では、夫妻は以前から、その東洋の宗教に強い関心を持っていたそうだ。しかし先生の父上が敬虔な国教の信徒だったので、改宗を言い出せなかったらしい。その父上が亡くなった後、先生ご夫妻は密かに改宗していたようだ。思えば先生のご自宅に、見たこともない道具の様なものが並べられるようになったのもその頃だった。私はパルマー家の人々が亡くなった後も、トミーの症状について調べてみたが、彼に当てはまる疾患の記録は皆無だった。その結果私は、トミーの変化がその東洋の宗教が原因だったのではと考えてしまった。何か呪術の様な、そんな非科学的な原因で、彼があの様な姿になってしまったのではないかと」

「あんたの口から呪術なんて言葉が出て来るとは驚きだな。まあしかし、そのトミーという子が、あんたの言う通りの姿になったんなら、あんたがそう思ったのも無理はないがな。で、今でもあんたはそう思っているのかい?」

「いや、今ではやはり、そんなことはあり得ないと思ってるよ。尤も、未だにトミーの変化の原因は謎だがね。ところでフィル」

そう言ってケスラーは急に話題を転じた。

「私が解剖室を出た直後、君がこの部屋を訪ねる直前に、政府関係者を名乗る男から電話があったよ」

「何だと?」

「その男は、今回の容疑者の遺体と剖検結果、その他の全てのデータを、彼らに引き渡すよう要求してきた。勿論私は、引き渡しの可否については、ヤードの許可が必要だと断ったがね。するとその男はヤードの了承は既に得ていると言った。彼が派遣する者が、その書類を持参するとね。その電話の直後に、君の上司のヴァスケス警視長を名乗る人物から電話があって、引き渡しを要請されたよ。政府のかなり上層部から命令が出ている可能性が高いな」

「ふざけるなよ!そんなことは俺が認めねえ」

「君の気持は分かるが、書類が正式なものである限り、私には引き渡しを拒否することが出来ない。君が引き渡しに抵抗するのを止めはしないが、君も政府機関の一員である限り、上司の命令は拒否出来ないのではないのかね?」

バドコックはケスラーを無視して、その場でヴァスケスに電話をかけた。しかし彼の答えはケスラーの言葉通り、その政府関係者に容疑者の遺体とデータを全て引き渡すというものだった。彼は必至で食い下がったが、上司は頑なに命令であることを繰り返すのみだった。そして最後に、

「抵抗しない方が、お前の身のためだ」

と付け加えた。

バドコックは最後に口汚く上司を罵って電話を切る。その様子をじっと見ていたケスラーが徐に言った。

「フィル、恐らく君にも私にも監視がつくだろう。もう既についているかも知れない」

バドコックは無言で肯定した。その可能性は十分にあると思われたからだ。先程のヴァスケスのあの口振りからすると、かなりの上層部から、相当強い圧力がかかっていると想像出来る。

「君は今回の件について、沈黙を守る方がよい。その方が賢明だ」

「だが、俺だけが奴を見た訳じゃない。大勢の警官や市民も見ているんだぞ。どうやって全員の口封じをするってんだ?」

「ヤードには箝口令が敷かれるだろう。とは言っても、完全に情報を封鎖することは出来ないだろうがね。世間に噂話として流布していくことは間違いないな。しかしヤードが否定し続ける限り、それもやがて時間とともに風化し、都市伝説となっていく。そのことも既に織り込み済みなのだろうね」

ケスラーの言う通りだろうとバドコックは思った。しかしどうにも怒りのやり場がない。部下たちがこれまでの捜査に費やした時間と努力が、全部無駄になってしまう気がしたからだ。憤懣やるかたなく席を立ったバドコックに、背後からケスラーの声が掛かった。

「フィル、自重しろよ。君たちが犯人を阻止したことに変わりはない。今後犠牲者が出ることを防いだのだから」

バドコックは振り向きもせずに片手を挙げ、ケスラーの研究室を後にした。

その後に起こった事は、概ねケスラーの推測した通りだった。ヤードには警視総監名で厳しい箝口令が敷かれ、マスコミへの対応も広報部の担当者が一元管理して、不都合な情報が出されることはなかった。犯人はベンジャミン・トーラスであり、彼が連続殺人犯であると特定され、連続殺人事件の終息が宣言された。とは言っても、犯人の目撃情報は既に世間に流布していた。それをネタに、執拗にマスコミ各社が広報担当に食い下がったが、結果は同じだった。やがてケスラーの予言通り、騒動は徐々に鎮静し、以前と変わらない日常が戻ってきた。そしてバドコックは、新たに発生した事件の捜査に忙殺されることになったのだ。

しかし事件の結末に対する憤りと、何よりもベンジャミン・トーラスという男に関する未解決の謎が、いつまでも彼の心の底に、澱の様に沈殿したままになっている。

――何故奴はあんな姿になったんだ?

その疑問は、いつまでも重苦しく彼に付きまとっていた。

――これは多分、古傷となってこの後一生俺を苛むんだろうな

バドコックはうんざりした気分でそう思うのだった。

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