第28話
六月になって鬱陶しい梅雨空の日が続いていた。
僕は江美の会社帰りに梅田で待ち合わせをして、曽根崎通りにある居酒屋で飲んでいた。
「事務の仕事って肩がこるのよね。デパートに勤めていたころの立ち仕事は腰が大変だったから、そのころよりはまだマシなんだけど、あっそうだ、浩一、今夜うちに来てマッサージしてくれない」
最近はバイトに追われているという理由で、江美の家には週に一度も泊まらなくなっていたが、江美のほうも僕の留年を気遣って無理を言わなくなっていた。
「明日の朝からバイトがあるから今夜はだめだけど、近いうちに必ずいくよ。二時間コースの全身マッサージと濃厚な特別サービスが付いているから、今夜は我慢して」
「じゃあ許してあげるけど、特別サービスは時間制限なしよ、分かっているでしょうね」
江美のサバサバした回転の早い会話が僕は好きだった。
僕たちの席の近くで飲んでいるサラリーマンは、ひとり残らず江美のほうを一瞥した。
エキゾチックな顔付き、ほどよい胸の膨らみと奇跡的な腰のくびれ、そこから反転するように張り出した臀部、まるでモデルのような江美は一際目を引く女性に違いなかった。
そんな魅力的な女性と、この僕が親しい関係になっていることが不思議に思った。
「実はな、江美、七月から京都の太秦映画村っていうところの近くにある友人のアパートに居候させてもらおうと思うんだよ。家賃は要らないってそいつは言うんだけど、半分くらいは出そうと思っているんだ。
そして鴨川の近くに木屋町という飲み屋街があるんだけど、そこのキャバレーで夜はバイトするんだ。その友人の紹介なんだよ」
四月に滋賀県の「草津宿場まつり」でバイをしたときに知り合った赤井という学生のアパートに居候することを、僕は江美に話をする前に勝手に決めていた。
赤井は京都産業大生で、実家が滋賀県草津市にあって、通学に二時間あまりも要するため右京区にアパートを借りて住んでいた。
「えっ、どういうことなの?」
「つまり奨学金をストップされたから、できるだけ経費を節約して安定したバイト先を確保する方法を考えていたら、たまたまそいつと知り合ったってわけなんだよ。真面目な良い奴なんだ。一緒に住んでも大丈夫だよ、心配ない」
江美は少し眉を寄せた。
「私に相談もなく決めちゃったんだ。ふうん、私は浩一にとってはそんな存在だったんだ」
江美は僕の言葉を聞いてから十秒ほど何かを考えていた。
それからビールジョッキを口に運んで一気に飲んだあと、ドンっと音を立ててテーブルに置いて不機嫌そうな顔で言った。
でも僕はこういうときの江美の不機嫌顔は意識的だと知っていた。
彼女は簡単に怒ったりする性格ではない。
あるときには驚くほど女っぽいが、反面気性のさっぱりした男性みたいな部分を持ち合わせているのだ。
「だからと言って江美との付き合いがどうなるわけじゃないよ。京都なんて梅田から電車で三十分だ。
来年は留年できないから緊急打開策のひとつなんだ。でも前もって相談しなかったことは謝る」
「いいのよ、小野寺君は自由なんだし、私がしつこくお熱を上げているだけだものね。このお姉さんは小野寺君の経済的援助ができるほどの稼ぎもありませんからね」
「だから、打開策のひとつだって言っているじゃないか。それに小野寺君はやめてくれよ。僕だって江美とずっと一緒にいたいんだよ、分かってくれよ」
「あれ、小野寺君って呼んで何が悪いの?だって君、年下でしょ、四歳も。浩一さんなんて呼んでいたときはいつも背中に冷や汗かきながらだったんだからね。
何を言ってるの、人の気持も知らないで。あっ、すみません、生ビールお代わりください!」
この夜の江美はめずらしく本気で怒った。
いつもよりビールを飲むピッチが早く、結局このあと江美はワインを飲み、「私が松江から浩一を追いかけて来たって思っているんだわ。だからアンタは京都へ逃げるのね。どこかのグループの歌にそういうタイトルがあったわね。なぜアンタは京都へ行くんだとかなんとかいう歌がさ、どうなのよ!」と大きな声で言いはじめ、ついに酔っ払ってしまった。
近くの席のサラリーマンやOLたちが僕たちの姿を見て苦笑いをしていた。
僕は江美を抱きかかえるようにして彼女の家へ送って行った。
帰りの電車でも「誰がお前なんか追いかけるかよ。私を甘く見るな」と、ついにお前呼ばわりとなって僕を困らせた。
僕は江美の怒りは当然だと思って彼女の言葉を噛みしめた。
「お前どうして京都へ行くんだ?私から離れたいんだろう、本当のこと言ってみろよ」
「何を言ってるんだよ、江美。僕が君と離れたいわけないだろう。君が大好きなんだよ」
二階へ抱いて上がり、ようやくベッドにたどり着いた。
服がクシャクシャにならないように慎重に脱がせていても江美は僕を罵り、顔や手を叩いて暴れた。
僕が京都へ行くことが彼女にとって大きなショックだったのだ。
前もって江美に相談するべきだった。
そうする義務がある関係に僕たちはすでになっていたのに、自分のことだけを考えて物事を進めていた。
僕はいつもこうなんだ。
優里との付き合いでも、これまで自分のことを第一に考えて何でも決めてきた。
最初に優里と会ったのも、彼女の紡績工場へのいきなりの訪問だったし、京都で優里と会う日も僕が主導でこれまで決めてきた。
僕は今ベッドに仰向けになって苦しそうにしている江美の衣服を脱がせながら、自分の身勝手さを恥じた。
「なんとか言えよ。私の気持ちが重荷になってるんだろ。どうなんだよ、小野寺浩一!」
江美は仰向けになって、今度は僕の腹部や顔を蹴り始めた。
「江美、ごめんよ、僕が悪かったよ。江美に相談しなかったのは心配をかけたくなかったからなんだ。でも言わなかった僕が悪い。気がすむだけ殴ればいいよ」
足をばたばたさせてジッとしていない江美を脱がせるのは大変だった。
からだにピッタリとフィットしたスカートを脱がせて、ブラウスと一緒にベッド脇の椅子に丁寧に畳んだ。
ベッドで苦しそうにしている江美は下着だけの姿になった。
こんな事態になっているというのに、僕は欲望を抑えられなくなった。
そして同時に江美への愛しさが身体の奥の方から噴出した。
「江美、僕を許してくれよ」
僕は江美に覆いかぶさり、腕の中に抱きしめた。
江美は僕の顔を平手で何度も叩いた。
「何するんだよ、浩一。私たちそんな関係じゃないんだろ。京都でもどこでも行っちまえよ、馬鹿野郎!」
江美は目を閉じて腕を振り回しながら叫んだ。僕は江美にされるままにしていた。
何度か顔に平手打ちが飛んできたが悲しいくらい痛くはなかった。
次第に江美の手足の動きが弱まり、そしてその手がいつの間にか僕の背中に回されていた。江美の目尻から涙が流れ、しがみつくようにして泣きはじめた。
「江美、僕が悪かった。大好きだよ、ごめんよ」
僕は自分の身勝手さと不甲斐なさに苦しみもがいた。
心の逃げ道を江美に求め、彼女はそれを受け止めてくれていたのに、相談もせずに勝手に京都へ住むと決めてしまったのだ。
しばらく江美を抱いていると、彼女は酔いと暴れた疲れとで軽く寝息をたてはじめた。その顔を僕はとても素敵だと思った。
僕は江美の横に並んで静かに眠った。
自分は人間としてクズだと思った。
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