第29話


 

 京都市右京区の太秦安井町というところに赤井が住んでいるアパートがあった。

 六月の下旬に暇を見つけて小さな荷物を少しずつ運んだ。


 わずか六畳一間に簡単なキッチンがついているだけのアパートだが、なぜか二段ベッドを赤井が置いていた。

 僕のために買ったのではなく、入居の際から誰かが泊まったときのために置いたのだと赤井は言っていた。


 アパートの敷地は東映映画村とは関係のない映画制作会社の所有だった。

 その敷地の隅に二階建ての二十世帯程のアパートがあり、いくつかの部屋は映画を撮影する期間に関係者の宿泊所に利用されていた。


 赤井の部屋は一階の端部屋で、隣には京友禅染の彫刻師の卵という一風変わった青年が住んでいた。



 大学がそろそろ夏休みに入る日の夕方、僕は赤井と四条河原町で待ち合わせをして、木屋町の高瀬川をはさんで河原町側に所在する「ニューパラダイス」というキャバレーにバイトの面接に訪れた。


 背が低く腹がでっぷりと出た、まるで豆狸そっくりの中年の支配人だった。


「少ない人数のバイトでやってるから休まんように来てくれるかな。真面目に働いてくれたら時給も上げるよってに頑張ってな。分からんことがあったら赤井君に訊いてくれ」


 豆狸は簡単に説明し、いつから働いてくれても構わないと言うので七月一日からお願いしますと返答した。


 ニューパラダイスの時給は、夜の仕事だけあってそこそこ良かった。

 毎週火曜日から金曜日まで週に四日、夜七時から零時までの五時間働くことにした。


 休まなければ生活費は十分稼げたし、「まかない」がついているのがありがたかった。

 初めての水商売だが、テキ屋もいわば水商売みたいなものだから、躊躇なく難なくこなせた。


 仕事は、ボーイ兼ウエイター兼ときには週末の「特出し」と呼んでいたストリップショーの照明係というふうにバラエティーに富んでいた。


 店は商業ビルの一階にあり、かなり広いスペースに背もたれの高い四人掛けのボックス席が二十ほども設置されていて、満員になれば八十人近くも収容できそうだった。


 ただ、実際は満席になることはほとんどなかった。


 店内の照明は微かに足元が確認できる程度で、客が来ればドアボーイが席へ案内する。


 先ずホステスの指名の有無を訊き、特になければ待機のホステスが順番に接客にあたる。


 ホステスが席について、客から飲み物やつまみの注文を受けてからマッチを擦る。

 暗闇にマッチの火が点ればウエイターが急いでその席へ行き、ひざまずいて注文の書かれた紙をホステスから受け取る。


 そして厨房へオーダーを並べ、飲み物は自分で冷蔵庫から取り出して運ぶのだ。

 これがウエイターの基本的な仕事だった。


 バイト初日はウエイターの仕事だけをするように言われた。


「どう、簡単な仕事だろ?」


 この店に二年以上も働いている大野という仏教系の大学生が新人の僕に気遣って言った。

 細身の体躯に長髪を肩まで伸ばしていて、せっかく真っ白なシャツに蝶ネクタイをつけても、ウエイターには全く似合っていない髪形だった。


「ちょっと足元に注意しないと危ないですね。ビールを落としそうになりますよ」


「ビールなんかはシルバーの上に乗せて、反対側の手で持って運べば良いんだよ。格好なんか気にする必要ないからね。

 それとホステスとは仲良くしておいたほうが良いよ。チップを客から取ってくれるからね。チップは結構大きいんだ」


 大野は気さくで、いつもヘラヘラと笑っている奴だったが、実は大学六回生との噂だった。


 赤井は「奴はすでに終わっている。水商売でバイトして落ちて行く学生の典型」と醒めた目で見ていた。

 でも僕は大野に好感を持った。


 結局、この先われわれ三人は生きて行く世界が異なったが、ずっと友人関係が続いた。


 午前零時になれば店内に「蛍の光」が流れはじめる。


 ときには酔っ払ってなかなか帰らない客もいたが、店の扱いはかなりぞんざいで、会計さえすめば客を引きずってでも店の外に放り出していた。


 店の片付けが終われば、われわれバイトもホステスたちと同様に店のマイクロバスで家まで送ってくれた。


 決められた順番で送るので僕と赤井の住む右京区は最後になり、いつもアパートに帰るのが午前二時ごろになってしまうのだった。



 大学が休みになってからは、毎週土曜日と日曜日は岡田のいる「安東総業」の事務所の電話番を引き受けていた。


「暇つぶしに来い、昼飯と少しだけだがバイト料を出すから」と岡田の誘いがあったからだ。


 岡田は十歳も年下の僕のどこが気に入り、頼りにしてくれているのか分からないが、「小野寺、何があるか分からんから、平日でも一日一回は事務所に電話をかけてこい」と言うのだった。


 事務所は平日よりも土日祝日が比較的忙しいようだった。

 仕事は地方へバイに出ているテキ屋衆からの連絡や、祭事のある庭場の世話役などからの電話応対などが主で、簡単なものだった。


 ただ、中にはシマの親分衆からの電話も入るので言葉遣いには注意を要した。

 やっぱりテキ屋の事務所とはいってもヤクザの事務所のような雰囲気もある。


 事実、事務所はテキ屋関係の仕事だけではなく、ビルの上階には別の部署があって、見るからにそれらしき人物の出入りをときどき見かけた。


 岡田にさりげなく訊いても「小野寺、俺にも言えることと言えんことがあるんや。お前やったら分かるやろ」と言うだけで教えてはくれなかった。



 大学生になって三度目の夏、昨年の今頃は各地へ夏祭りのバイへ出ていたことを思い出した。

 江美と知り合ったのは松江市の水郷祭のときだった。


 振り返ればこの一年はあっという間だった。

 今年はキャバレーのバイトがあるので夏祭りの仕事は手伝えそうになかった。


「小野寺、夏祭りの期間だけでも夜のバイトを休まれへんのか。今年も忙しいんや。せめて二週間でもバイ手伝えんか?キャバレーのバイトより何倍も稼げるぞ」


 夏祭りと年末年始はテキ屋の稼ぎどきだ。それぞれ出張先の庭場で確保できる露店数には限度があるが、本数が多ければそれだけ儲かる。

 岡田は人の確保に苦労していたようだ。


「地元のバイトを雇うというのも簡単にはいかんからな。こっちから一緒に行った方が確実なんや。ウチの若い衆はイマイチ頼りないからのう。お前が行ってくれたら助かるんや」


 事務所にも留守番や使い走りの若者がいたが、ヤンキー崩れのような奴らで信頼が置けないと岡田は言った。

 僕はキャバレーの支配人に相談してみると返事した。


「八月五日には松江に入る。去年と同様、そのあと松山へ飛ぶからな。こっちに戻るのはお盆明けになるが、それに合わせて休めるか?」


 僕は岡田にそうすると返答した。

 キャバレーのボーイなんかよりテキ屋の仕事のほうがずっと好きだった。


 ただ、テキ屋の世界が僕のような大学生が踏み込めるものではないと常々感じてはいたから、少し距離を置きたいとは思っていたのだ。



 七月半ばを過ぎたある日、僕はいつもより少し早く店に入り、事務所のドアをノックした。豆狸に休みを相談するためだった。


「どうしたんや、小野寺君。何か話か?」


 豆狸が帳簿のようなものに書き込みをしながら訊いてきた。

 事務所といっても壁に向かって机がひとつあり、丸椅子がいくつか置かれているだけのものだった。


「実は、働き始めてまだ二週間ほどしか経ってなくて言いにくいのですが、八月初旬からお盆明けまで休ませてもらえませんかと・・・」


「田舎に帰るのか?そりゃ構わへんで。お盆は店も暇やしな、ホステスも何人かは田舎に帰るよってな。それでいつから休むんや?」


 豆狸は意外に簡単に了解してくれ、結局、八月五日から十五日まで休みをもらえた。

 僕は今年の夏も少しだけ地方へバイに回ることになった。

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