第45話 珠子の母親
「もう!周りの目が理解出来ないんだけど!悪いのは珠子でしょう!だというのに、何で私が周りから変な目で見られなくちゃいけないわけ!」
目障りな妹の珠子をようやっと追い出すことが出来た増子が清々したのはほんの半日ほどのことで、夕方になって洗濯をする時間となってからは、久平の前に汚れた衣服を投げつけながら、
「私は洗濯なんかしないから!久平さんがして来てちょうだいよ!」
と、言い出したのだった。
「何で僕が洗濯なんか・・そういった家の中のことをするのが妻の役目だろう?」
「私は久平さんの妻のつもりなんてありませんから!」
「はあ?」
「隣の百合子さんのところに入り浸っていたくせに、あっさりと捨てられて、挙げ句の果てには不細工な珠子なんかに手を出そうとしているのよ?女なんか誰でも良いっていうのが十分によくわかったもの!もう離縁よ!離縁!離縁しかないわよ!」
「ちょっと、お母さん、何とか言ってくださいよ」
久平が正江の方を振り返ると、夕食の支度をするつもりもないのか、竈に火も入れずに珈琲を飲んでいた正江が大きなため息を吐き出して、
「増子も久平さんも、夕食はお友達のところに食べに行くから、あなた達はあなた達で好きに食べておいてちょうだいね」
と、言い出した。
「はあ?どういうこと?」
「お母さん!僕たちの夕食は用意しておいてくれたんですよね?」
「なんで私があなた達夫婦の夕食を用意しなくてはいけないの?」
正江は大きなため息を吐き出しながらこう宣言したのだった。
「私は料理なんかしませんよ、今まで料理なんかしたこともないんですからね。だから今日は、私はお友達のところへ夕食を食べに行きます。あなた達も自分たちの夕食は自分たちで用意をするか、もしくはわがままを言って飛び出して行った珠子を見つけだして連れ戻すことね」
「珠子は出て行ったんじゃないのよ!何で連れ戻さなくちゃならないのよ!」
「だって自分たちで食事を用意したくないのなら、珠子に用意させるしか方法がないじゃない」
思わず顔と顔を見合わせた増子と久平は、黙り込んだままお互いを睨み合い続けることになったのだった。
珠子と増子の母となる正江は、とにかく家事というものが苦手だった。料理や洗濯をするのなら計算をしていた方が遥かに楽で、その間違いのない計算力を行商をする父も重宝していたものだから、
「正江を躾けるのなら年頃になってからでも良いよ」
と、正江の母に言っていたのだった。
掃除、洗濯、料理などを年頃となったら躾けると言われながら、結局、嫌なことはやらないまま。酒屋への奉公を始めた正江は帳場での計算では右に出るものはないほどの速さと正確さを叩き出した為、酒屋の主人にも気に入られて、女がやるべき仕事とは疎遠なまま商売に身を投じることになったのだ。
その奉公先で正江を見染めたのが珠子と増子の父となる人で、温泉旅館に嫁いで以降は、宿屋を守るために女将としてその才能を発揮した。離縁後、神戸の親戚を頼って移動した後も、掃除、洗濯、料理をすることもなく自分の才能を発揮する場に恵まれた。
親戚の家は小間物を扱う関係で、行商に出す品物の整理や計算をする者が常に必要な状態だったのだ。ここでも正江は重宝されることになり、男並みに働く正江はその後、引き抜かれる形で米問屋で働くようになり、そこの主人の後添えとなった。
夫が米問屋を営んでいる間は、御寮人として振る舞っていた正江は家事などに手を出す必要はなかったし、ブラジルに来て以降は、娘の珠子を家族のために働かせていた為、家事に手を出す必要がなかった。
掃除、洗濯、料理など一切、手を出さずに今まで歳をとってきた正江は、娘の増子にも家事を教えるようなことはしなかった。親切な人は増子にも一通りのことは教えた方が良いと進言してくれたのだが、お嬢様のように増子を育てたい正江は、そのような使用人がやるような仕事をする必要はないと思ったし、それなりの甲斐性がある男のところへ嫁に出そうと強い決意を抱いていた。
だから、正江と増子の親子は『家事』というものをこの年までやったことがない。それで今まで通ってきたし、通るものだと考えている。
確かに昨夜は娘の珠子に家から出て行けと大声を上げたが、出て行ったところで珠子は正江が腹を痛めて産んだ子供なのだ。今日のうちにでも涙でも流しながらおめおめと帰って来るに違いない。
万が一にも帰って来ないようであれば、増子と久平夫婦に迎えに行かせれば良い。どうせこの農場から逃げ出すことは出来ないし、捕まえるのは簡単なのだ。戻って来たら折檻をして、再び躾直さなければならないのが厄介だけれど、それは母親の役目と思って面倒でもやらなければならないことなのだ。
「久恵さーん!こんばんはー!」
今日は日曜日、今の時期はまだ日が暮れるのも早いので、正江は早足となって友人の家を訪れると、
「まあ!正江さん!よく来たわね!」
と、ブラジルまでの船も一緒で、配耕となった農場も一緒だった久恵が、笑顔で招き入れてくれたのだった。
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