第46話  あからさまな悪意

 久恵の家は五人の息子と娘二人の大所帯で、山からマンジョッカ芋を掘ってきては、大量に消費しているような家なのだ。農園の中にはパパイヤやマンゴ、バナナの木があるから飢えに苦しむことはないけれど、そうでなければ早晩、家族全員が飢えて困り果てることになったに違いない。


「今日は何をお土産で持って来てくれたのかしら!」

 久恵が正江を椅子に座らせながら弾んだ声を上げたので、正江は小さく肩をすくめながら答えたのだった。

「今日は何も持って来られなかったのよ。ほら、珠子がわがままを言って家を飛び出してしまったから」

「あらま!正江さんのところの揚げ団子が楽しみだったのに!今日はそれが無いだなんて本当に残念だわ!」


 珠子はブラジル人に料理を習って良く作っていたのだが、久恵が言い出した料理もその一つだった。それはトウモロコシの粉とマンジョッカの粉を水で溶いて練ったものを団子にして油で揚げたもので、黒砂糖をまぶしてあるから口に入れるとじっとりと甘い。


「珠子ちゃん、遂に家を出て行っちゃったんだって?」

 久恵は正江の向かい側に置いた椅子に座ると、ニコニコ笑いながら言い出した。

「実は私たちも珠子ちゃんのことは心配していたのよ。ほら、百合子さんが移動してから、あなた達家族の雰囲気がすごく悪くなっていたじゃない?」

「ああ・・」


 増子という立派な妻がありながら、久平は隣に住む未亡人に夢中となっていた。相手の方が一枚も二枚も上手で、利用されるだけ利用されて捨てられることになったのだろうが、あのことがあってから増子のヒステリーが多くなり、家の中はギスギスするようになっていた。


「ほら、増子ちゃんたら妹の珠子ちゃんを叩くじゃない?」

 久恵は目と口元を弧の形に歪めながら、愉快そうに正江を見つめる。

「最近では満足にご飯も与えないで、珠子ちゃんたら痩せる一方だったんだもの。私たちも、とても心配で、心配で仕方がなかったのよ」


「それは、増子も妹の教育のためにとやっていたことだから!」

「あらそう!教育!ご立派な教育もあったものだわ!下賎な私たちには全然わからない!だって、自分の子供を叩いて虐めるだなんて!ねえ!」


 あははっはと久恵は笑うと、

「今日は、本当に珠子ちゃんが家から出て行ったのかどうかを知りたかっただけなの。なにしろあの娘には私たちも恩があったからね」

 と、言い出した。


「家の中のことを他人が言うのもどうかと思っていたけれど、あんた達のやり方はあまりにも酷い。そろそろうちとしても、お父さんでも向かわせて珠子ちゃんを助け出してやろうかと思っていたところだったんだけど、無事に逃げ出せたのなら良かった!」


「な・・何を言っているの?」

 珈琲一杯、水の一杯も出されないテーブルの上をまじまじと見つめる正江の姿を見つめた久恵は、鼻で笑いながら言い出したのだった。


「あら!ごめんなさいね!うちは七人の子供を連れてきた大所帯だから、お宅さまみたいにお上品に肉だの何だのと食べることが出来ないのよ。私たちが果物を採って家に戻る姿を見ては、卑しい卑しいって言っていましたっけ?そうね、私たち家族は卑しすぎる貧乏人なんで、正江さんみたいなお上品な方に出す珈琲なんかありませんよ」


 あからさまな悪意を向けられた正江が立ち上がると、同じように立ち上がった久恵が正江を見下ろしながら言い出した。


「私はね、ブラジルまで来て、頼みの旦那まで亡くしたって言うのに、今までの生活を忘れずに、米問屋の御寮人みたいな生活を続けているあんたが大嫌いだったのよ!家事は下々のやることだからってことで娘一人に背負わせて、食事すら満足に同じ机で食べさせない、あんた達のやり方に辟易としていたのさ!」


「辟易としているのはこっちの方よ!冗談じゃないわ!」


 怒りで震えながら正江が家から出て行こうとすると、

「珠子ちゃんは絶対にあんたの家には戻らせない!それはあたしら皆んなの意思だよ!」

 と、断言するように言い出したのだ。


「何を勝手なことを・・」

「正江さん!あんた自分から出て行けと命じたんだろ!だったらもう諦めな!あんたの娘はあのまま居たら、あんたに殺されるところだった!」

「何を・・何も知らないくせに・・何も知らないくせに・・」


 確かに正江は一度、本当に娘の珠子を殺しそうになったのだ。だけど、本当に殺しそうになったのは一度だけだ。それ以降、珠子が死にそうになったことは一度もない。


 久恵の家を飛び出した正江は、何故か通りかかる日本人、日本人が自分に向けて軽蔑の眼差しを向けているように思えたのだ。それでも、これは全て気のせいだと思うことにして、船で一緒になり農場でも一緒だった友人の家へと顔を出すと、

「この時間に何の用?」

 と、迷惑そうな顔をあからさまに向けられることになったのだ。


「用という用があったわけじゃないんだけど」

「今はお父さんが居るから、帰ってくれる?」

 そう言って友人が後ろを振り返ると、

「あああ!意地悪ババアだ!」

 と、たまたま通りかかった友人の息子が正江を指差しながら大声を上げて言い出したのだった。

「これ!カツ!やめなさい!」

「だって意地悪ババアは意地悪ババアじゃないか!自分の子供を折檻する意地悪ババア!あんまり関わると殺されるぞ!」

「やめなさい!カツ!」


 息子の子供の口を塞ぐようにしながら、こちらを見る目が蔑むように見えた。後ずさるようにして正江が後ろに下がると、ピシャリと音を立てるようにして木の扉が閉められる。その閉められた扉を見て、嫌な予感が胸の中に広がって行った。


 そうして正江が呆然としたまま家へと帰ると、灯がともらぬ暗い家の中で、シクシクと泣く増子の泣き声と、久平の呻き声のようなものが聞こえてくる。


 まだ喧嘩を続けていたのかと、舌打ちしながら正江がカンテラに火を灯すと、痣だらけとなった久平が床に転がり、その久平の近くで、なすすべもなく増子がしゃがみ込んでいたのだった。


「なっ・・あんたたち・・一体どうして・・」

「珠子が悪いのよ・・全部・・全部全部、珠子が悪いのよ・・」


 そう言って泣き続ける増子は要領を得ない。仕方なしに正江は倒れた久平を、引きずるようにして寝床へと運んで行ったのだった。

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