閑話  和子の場合  ②

「トード」

 ブラジル人に声をかけられた茂はもの慣れた様子で答えていたけれど、

「シゲ、エラエスアナモラーダ?」

 と、一人の奥さんが問いかけて来たため、

「ナオン!」

 と、真っ赤な顔で茂が答えている。


 洗濯の手を止めながら、

「今、何を言われたの?」

 と、和子が問いかけると、茂は顔を真っ赤にしながら答えた。

「俺の恋人なのか?って、尋ねられたんだよ」

 驚きで大きく目を見開いた和子は、慌てて顔を伏せながら言い出した。


「ご・・ごめんね!私こんな顔なのに、あなたの恋人なのか尋ねられることになっちゃって!ごめんね!」

「はっ?いやいやいや!俺こそ、ごめんっていうか、こんな顔ってなに?可愛いよね?」

「可愛い?」


 和子は顔を赤らめながら俯いた。

「可愛くないし、私の目、薮睨みの目って言われる目だし」

「え?薮睨みの目だった?」


 茂は気が付かなかった様子で、俯く和子を覗き込むようにして見ると言い出した。


「カマラーダとして働いているとさ、肌が黒い人、白い人、茶色の人、黄色の人って山ほど色々な人と仕事をしてさ、ブラジル人だけでなくって、イタリア人とかも居て、ええ?何処の国出身?もうなんなの?って、聞いていて訳がわかんなくなっちゃうんだよ。だからね、和子さん、顔上げてよ。日本人の顔なんか正直きちんと見ている人間なんかいないから。そもそも日本人はみんな同じ顔に見えて見分けなんかつかないって言われているんだからさ」


 和子の顔は真っ赤になっていたけれど、気が付けばブラジル人の奥様たちが集まり始めて、楽しそうにおしゃべりをしながら洗濯を始めていた。


「シゲ、ボアタールジ」

「シゲ、トドボン?」


 目の前の茂が色々な人に挨拶をされているのを眺めながら、

「なんでそんなに挨拶されているの?」

 と、和子が問いかけると、

「そりゃあ、俺らはみんなの厠を早朝から綺麗に掃除して回っているからさ!」

 と、胸を張って茂は答えたのだった。


「厠の清潔はみんなの健康に繋がるしね!それに、不潔だと嫌われるから洋服の数だけは貰い物も含めてやたらと増えたと思うよ!もちろん洗濯の腕も上がったしね!」

「ええー!すごーい!」


 和子が驚きの声をあげると、そんな和子の顔をまじまじと見ながら茂は宣言するように言いだした。

「和子さん、自分の目のことなんか気にすんなよ!馬鹿馬鹿しいって!」

「なっ・・」

「肌の色の違いもその人の個性だと思うんだけど、和子さんのその目も俺は個性だと思う。その個性は恥ずかしいものなんかじゃなくって、胸を張って良いものだと俺は思う」


 茂は多種多様な顔立ちの奥様たちを眺めながら言い出した。


「そもそも、こんな顔の濃いマダムたちに囲まれていると、薮睨みの目って、だから何っていう感覚に俺は陥るの。日本人はどうのこうのと言う人がいるかもしれないけれど、そもそもここ、ブラジルだし!」


 茂はまじまじと和子の顔を見ると、笑顔になって言い出した。

「息苦しくなったらこっちに来たら良いよ!ここは日本じゃなくてブラジルなんだからさ!ブラジル流に息を吸い込んで吐き出して、肩の力を抜いたって良いんだよ!」


「ブラジル流?」

「そう!だからさ、ブラジル流の美味しい珈琲をご馳走してあげるから、珠子ちゃんとか信子さんとか誘って遊びに来てよ!」



 その日、洗濯を終えた和子は、信子の家に声をかけに行った。次の日は日曜日なので、珠子も連れて、気晴らしに四人組のカマラーダのところへ珈琲を飲みに行こうと誘ったのだった。


「それって大丈夫なの?」


 怯えるようにして信子が言い出したのには理由がある。最近、雪江や美代の二人組は、男の子たちと一緒に楽しく遊んでいるのだが、時には空き家に籠るようにして遊んでいる。四人組も同じように自分たちの家に和子や信子を引っ張り込もうと考えているのなら、断る一択になるのだけれど・・


「変な雰囲気だったら逃げ出せばいいじゃない!」

 と、何かが吹っ切れた様子で和子が言い出した為、信子は太い眉をハの字に広げた。


 日曜日は安息日となるため、ブラジル人は働くことなどしないのだけれど、勤勉な日本人は外作地の畑の世話をするために、朝も早くから動き出す。


「あら!珠ちゃん大丈夫?」

「具合が悪いみたい!大丈夫?」


 外作地へと出かける準備をしている時に、和子と信子は大袈裟に騒いで、今日は休んだ方が良いと言い出した。


 最近の珠子の家族の当たり方は酷いもので、満足に食事を与えていないのは側から見ていてもよく分かる。明らかにやつれ切っている珠子に周囲の日本人も同情的になっているため、

「今日くらい休ませてあげなさいよ!」

「そうよ!具合が悪そうだし!一日休むくらいなんだっていうの!」

「いくらなんでも可哀想よ!」

 と、声を上げてくれたのだった。


「私たちが珠ちゃんの面倒をきちんと見ますから!」

「安心して畑に向かってください!」


 押し切る形で珠子の家族と切り離した和子と信子は、そのまま珠子を四人組のカマラーダの家へと案内したのだった。


 女の子が遊びに来るとあって、外に椅子とテーブルを用意した四人組は、焼き菓子やケーキをテーブルの上に用意していた。そうして珠子ちゃんの姿を見ると、

「珠子さん!」

「こんなに窶れちゃって!」

「お腹減ったでしょう!」

「ケーキを用意したから食べて!食べて!」

 と言って、和子と信子はそっちのけとなって珠子の歓待を始めたのだった。


 だけど、和子と信子の存在を忘れていない茂は、

「和子さんと信子さんも座って!座って!今すぐブラジル人も顔負けの珈琲を淹れるから!」

 と言って二人を座らせると、胸を張って薬缶を手に取ったのだった。


 まずは珈琲を入れたコアドール(布の袋)を底に穴が空いた陶器の器にかけた茂は、先が細くなった銀色の容器を自分の目線ほどの高さにまで持って来て、煮立ったお湯をコアドールの中へ回すように入れていく。そうすると黒い液体が陶器の下に置かれた薬缶の中へ音をたてて流れ落ちていくのだ。


「今日は女の子の友達を招待するって言ったら、ジョアンが特別に美味しい珈琲をわけてくれたんだ」


 珈琲の量、空気を混ぜながら落とす熱湯、この匙加減でコーヒーの味は一味も二味も変わってくる。湯は全部入れ切ってしまわずに少しだけ残して、マスカーボ(黒砂糖)を残った湯と匙で溶かした後に、薬缶の中の珈琲へ回し入れる。


「ジョアンがくれたなら売る用の珈琲じゃない?」

 顔色の悪い珠子がそれでも嬉しそうに問いかけるため、

「そうだと思う。俺らがいつも飲むのは駄物だから、味は全然違うと思うよ!」

 と、茂は言って、和子に向かってウィンクをしたのだった。


 珈琲は今まで飲んでいたものとは全く違った美味しさで、皆は大満足することになったのだ。


 その後、疲れ果てた様子で珠子は眠り込んでしまったけれど、珠子の顔に残る痣を眺めながら、今後、どうやって助け出せば良いのだろうかと、四人組と和子と信子は話し合うことになったのだ。


 とにかく、何とも言えない悪意が珠子に向けられているのは間違いない事実で、

「あのさ、エレーナさんが珠子ちゃんを引き取ろうかとか言ってくれているんだと、俺は思うんだけど・・」

 と、この中で一番ポルトガル語が聞き取れると自負する清が言い出した。

「エレーナさん、娘が居て、その娘と同じくらい珠子ちゃんを可愛がっているって言っているんだよね」

「それじゃあエレーナさんの家に移動させる?」

「でもどうやって?」


 意地悪な母親と姉は、珠子がブラジル人一家の家に移動するなんて絶対に許しはしないだろう。

「やっぱり徳三さんに相談をするしかないんじゃない?」

「熱も下がったとか聞いているし」

 とにかく明日以降、徳三さんのところへ話をしに行ってみよう。


 そう結論付けた六人は、まさかその日の夜に、姉の夫である久平が義妹の珠子に手を出そうとするとは思いもしない。そうして、夫を誘惑したのだと激怒した姉の増子が激しく珠子を折檻するなど、六人は思いもせずにその日を過ごすことになったのだった。


 だから、高熱を発して寝込んでしまった珠子の面倒を見ていた和子は心が千切れそうな思いでいたのだ。もっと自分が早く行動を起こしていれば、早くブラジル人の家へ移動させていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。


「でもさ、こう言っちゃなんだけど、男衆からの暴力ではないようで、まだ良かったわよ」


 信子の言葉は嫌に冷静で、

「あの変な男連中の餌食にならなくて、そこは本当に良かったと思うんだ。だけど、子供は親を選んで生まれてくるわけにはいかないんだから、産んだ親は責任持って子供の面倒を見て欲しいと思うのは間違いなのかな?」

 と、そんなことを信子は言い出した。


「本当に・・あの母と姉はどうかしていると思うんだけど・・」


珠子ちゃんがあの家に帰ることはもう二度とないし、松蔵さんが居るのなら、今後あの親子に煩わされることはないんじゃないのかなと、そんな風に和子は思っていたのだった。





   *************************



 珈琲豆を天日干しした後に販売していくわけですが、この段階で豆が欠けたり崩れたり傷ついているものははぶかれて、傷ついていない完璧な豆だけが高値で金持ちに売られていくことになります。今現在も、高級な豆は海外に輸出して、傷付いたり、砕けた豆は国内で消費されていくんです。向こうの安ーい珈琲は間違いなく『ブラジル産』なわけですが、味はぜーんぜん違います。ブラジルで高級品の珈琲を飲むのなら・・大きな街にあるお高いカフェで飲むしかないですかね。一般家庭の珈琲はお馴染みの安い奴オンリー、砂糖をたっぷり入れて飲みます。

 さてさて、次回から本編へ移ります。傷ついた珠子はどうなってしまうのか?


 ブラジル移民の生活を交えながらのサスペンスです。ドロドロ、ギタギタが始まっていきますが、当時、日系移民の方々はこーんなに大変だったの?というエピソードも入れていきますので、最後までお付き合い頂ければ幸いです!

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