第41話  ノッサセニョーラ

姉に殴られ続けた私は這う這うの体で逃げ出して来たので、顔は痣だらけ、髪の毛はボロボロ、それは酷い有様となっているに違いない。


「珠子ちゃん!どうしたんだよ!」

 驚きの声を上げた正一さんは、おじさんの甘言に騙されてブラジルまでやって来てしまった人で、現在、おじさん一家とは訣別をした四人組の一人で、カマラーダとしてこの農場で働いているのだが・・


「姉の夫に手籠に合いそうになって、すんでのところで姉が気が付いて・・で、この有様です」

「うわー・・」


 正一さんは私の姿をまじまじと見ると、

「女の子って本当に大変だよね〜、俺、男で本当に良かった〜」

 と、言い出した。


 そう、女は特に家の所有物という扱いをされるから、自立とかそんなもの、ブラジルまで来てしまえば余計に縁遠いものとなってしまっているわけで・・

「他所の女の子とか、きちんとした相手を見つけてやろうってことで、娘のために親が積極的に動いているっていうのに、珠子ちゃんのところはアレじゃあねえ」


 家の中で傍若無人な姉と母だけれど、日本人にもブラジル人にも評判が非常に悪かったりするのです。ブラジルくんだりまで来たというのに、米問屋のおかみさんみたい風情で、娘である私をこき使っているわけです。食事も作らなければ、洗濯だってしない。そんな有様に色々と思う人はいるわけです。


「ところで急いでいるみたいだけど、どうしたの?」

 私が問いかけると、正一さんはハッと我に返ったような様子で言い出した。

「松蔵さんが帰って来たんだよ!」

「はあ?」

「オンサを引きずって農場まで帰って来たんだよ!」

「ええええ?」


 森の主だか何だかを捕まえると言って、支配人の許可も得て森の中へと入っていってしまった松蔵さんだけど、さすが松蔵さん、奥多摩の森の中でも鹿やら猪やらを捕まえていただけのことはあるよね。


「これから支配人に伝えてこなくちゃいけないから!」


 正一さんはそう言って走り出したんだけど、小高い丘の上が農場主や支配人、監督官の居住区で、丘の下の方に広がるのが労働者の居住区。松蔵さんの家の前を通って行くとカマラーダの住居とか支配人の住居に最短距離で向かうことが出来るってわけ。


「ハーーッ・・オンサを捕まえて来たのか・・」


 そう言いながら、頭を抱えて俯いた。すごいな、松蔵さんは、本当に凄いと思うよ。


オンサを狩ったという松蔵さんに比べたら、私なんてこれからどうしたら良いんだろうっていう状況で、家に帰ることも出来ないし、何処かの家に避難することも出来ない。


日本人の間には、ブラジル人にも股を開くあばずれ女、みたいな噂が流れてしまっているから、ここの農場に居続けるのはかなり危ないと言えるだろう。


今までは徳三おじさんが抑止力となって、うちの母とか姉の暴挙は抑えられていた訳なんだけど、この徳三おじさんがデングに罹って以降、畑にも出て来られないような状況だもの。


「サンパウロ中央都市に向かおうかな・・」

 腹巻きの中には百合子さんから貰った金の小さな棒だって入っている。

「何とかサンパウロのリベルダージまで行けるかな・・」


 シャカラベンダ農場はサンパウロ州の端の方に位置しているそうで、中央都市はかなり遠いという話は聞いている。手持ちの金で行けるのか・・乗合馬車とかあるのかな・・私の言語力で行けるのか・・


 どうしたら安全、安心の方法でサンパウロ中央都市まで移動できるのか。本当は通詞の山倉さんについて行くのが一番安全なんだけど、今度、配耕される日本人がいつ、シャカラベンダ農場まで来るのかも分からない。


 八方塞がりとはこのことで、切り株に座り込みながらぐるぐる頭を回転させていると、そのうちに居住区の方が騒ぎ出し、居住区の門の方に人が集まっていく姿が目に入る。


「そうか・・松蔵さんが帰って来たんだもんね

 何でもオンサを引きずりながら帰って来たらしい。森で放置して帰って来ないあたりが彼らしい。

「最後にオンサでも見てやるか・・」


 外作地で源蔵さんの遺体を見つけた時に、オンサに腹を食い破られたその姿を見た時には、こんな風に人を食べるオンサってどんな奴なんだと興味を持つことになったんだよね。


人が一人殺されているのに不謹慎だとは思うけど、オンサは金色の獣っていうことで、吠えるような声だけは聞いたことがあったけれど、本物なんか見たことがない。


 門の前には日本人だけでなく噂を聞きつけたブラジル人も集まっていて、結構な人垣が出来ていた。枝木を組んで作った即席のソリみたいな物に乗せられていた豹は、それはそれは体が大きなもので、

「ノッサセニョーラ」

 と、ブラジル人たちが口々に呟いている。

 本当にブラジル人ってノッサセニョーラ好きだよな〜。


 日本人の方ではなく、ブラジル人の集団に紛れるようにして巨大すぎるオンサを眺めていたんだけど、

「珠子ちゃん!」

 ここまで苦労してオンサを運んできた松蔵さんが、私の名前を呼びながらこちらの方へと近付いて来る。


 松蔵さん、なんて目ざといのとか・・松蔵さん、ヒゲモジャが過ぎるだろうとか・・いや、こっちに来ても日本人に睨まれるだけだぞとか・・相当噂が酷いことになっているから、私の方に向かって来ないで姉の方に行きなよとか・・私の方に来ても碌なことにならないよとか・・そんなことを考えながら松蔵さんを見上げていると・・


「・・・」

 絶句した松蔵さんは私をそのまま抱え上げて、オンサは放置したまま自分の住居の方へと向かい出す。

「ノッサ」

 誰かが私たちを見ながら言っていた。



    *************************



 ノッサセニョーラ(ああ!マリア様!)は、現地の人はほんと〜に良く使います。短縮版 ノッサ! も使いますし、しょっちゅう耳にします。あらまあ!なんてこと!みたいな時に口ずさむんですけれど、さてさて珠子ちゃんはどうなるのか?珠子を落としめて高みに登ってやろうと考えるレディたちはどうなるのか?


ブラジル移民の生活を交えながらのサスペンスです。ドロドロ、ギタギタが始まっていきますが、当時、日系移民の方々はこーんなに大変だったの?というエピソードも入れていきますので、最後までお付き合い頂ければ幸いです!

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