第42話  後悔先に立たずとは言うけれど

 傷だらけの珠子ちゃんは、僕が抱え上げた時にはすでに燃えるように体が熱かった。家族から疎まれた彼女は、農場を抜け出して一人でサンパウロの中央都市を目指すつもりでいたようなんだけど、そんなことをしたらその日のうちに野垂れ死ぬだろうと言う程度に彼女は疲弊していたんだ。


 考えてみれば、珠子ちゃんはいつでもそうだった。奥多摩の温泉宿にいた時も、一人だけ苛烈な暴力を振るわれて、挙げ句の果てには食べ物も飲み物も何もないような状態で何日も納戸に閉じ込められて、救い出された時には酷く衰弱して、死にかけていたような状態だったのだ。


 この農場には親族となる徳三さんが居るし、虐待が酷くならないように目を光らせているようだったから、僕も、珠子ちゃんはきっと大丈夫だろうと思い込んでいるようなところがあった。


 まさか、僕が森に入っている間に、徳三さんがデング熱に罹って寝込むことになったなんて知らないし、徳三さんがきちんとしていなければ、誰も珠子ちゃんのことを気にかけない。暴力が振るわれようが、食事を与えられていなかろうが、放置されるだけ放置され続ける事実を改めて実感することになったんだ。


 傷だらけの珠子ちゃんを僕が住み暮らす小屋へと連れて行くと、二人の女の子と、カマラーダとして働く四人組が小屋の方へとやって来た。


「あの、珠子ちゃんの看病は私たちがしますから」

「松蔵さんは、オンサの方を何とかして欲しいって」


 門の前に放置をしてきたオンサは血抜きもせずに、腹も開いていないような状態だった為、腐る前に処理をしろということなんだろうけど。


「マツ!ウキエスタファゼンド!(何をしているんだ!)」


 カマラーダのリーダーであるジョアンがやって来て、何だかペラペラ喋っているんだけど、要するに、あんまりに大きなオンサ(豹)だったから支配人も喜んでいるし、出来たら毛皮に加工して欲しいみたいなことを言っているみたいだ。


「ジョアン!タマチャエスタマシュカンド!(珠子が怪我をしている!)」

「ウケ?(何?)」


 狭い小屋の中へと入って来たジョアンは、痩せて痣だらけの珠子ちゃんを見ると、

「ノッサセニョーラ!」

 と言ったんだ。本当にブラジル人はノッサセニョーラが好きだよなぁ。


「ジョアン!」

 カマラーダとして働いている清がカタコトポルトガル語で言い出した。

「エウイミニャアミーガ(僕と女の子の友達が)クイダードダタマチャ(珠子ちゃんの面倒を見るよ)」

 すると、茂までもが言い出した。

「マス、アジェンチ(だけど僕たち)ナオンテンヘメジオ(薬を持ってないんだ)」

「アータ(分かった)」


 ジョアンはバリバリと髪を掻きむしると、薬は自分の妻に持って来させると言って、

「ベンカ!マツ!」

 と言って僕を呼んだんだ。


 四人組の若衆と一緒にやって来た女の子は和子ちゃんと信子ちゃんという女の子で、今は気を失った状態の珠子ちゃんの衣服の着替えは、自分たちがすると申し出てくれたんだ。


 僕に抱えられた時点で珠子ちゃんは気を失ってしまって、とにかく熱が凄い。

「俺、日本から持ってきた解熱剤があるから!」

「打撲の塗り薬とかは持ってないけど、ジョアンの奥さんが来たら薬を塗ってもらうから!」

 僕はとにかく、帰ってくるなり滅茶苦茶イライラしていたんだけど、

「ベンカ!(こっち来い!)マツ!」

 と、ジョアンが呼ぶから、追いかけて行くしかなかったんだよ。


 僕の住む古屋は農場労働者が住み暮らす居住区からは少し離れた小高い丘の中腹にあるんだけど、ジョアンは狭い下り坂をおりながら僕に話しかけてきたんだ。


「マツ、タマチャスアナモラーダ(珠子はお前の恋人なのか)?」

 正直に言って、珠子ちゃんは僕の恋人ではないのだが、

「エ(はいそうです)」

 と、僕は即答していた。


 傷だらけになった珠子ちゃんの庇護者である母と姉はあんな人達だし、少しは改心したかと思いきや、やっていることは奥多摩の時と丸ごと同じじゃないか。こんなブラジルの田舎の珈琲農場で誰も珠子ちゃんを守らないと言うのなら、僕が守るしかないじゃないか。


「バイカザー?(結婚するの?)」

「エスペーロキシン(そう望んでる)」

「ウーフーン」


 足場も悪い細い坂道を下りながら、ジョアンはこちらを振り向きもせずに、

「シイッソ(それなら)テンキモラコンジュントネ?(一緒に住まなくちゃだね?)」

 と、言い出した。


「デビグアルダータマチャ(珠子を守らなくちゃいけない)ナオンエ?(そうでしょう?)」


 奥多摩に住んでいた時に、納戸に押し込められた珠子ちゃんを救い出すために、僕は自分の父母に声をかけ、近所のおじさんに声をかけ、彼女の住む温泉旅館で働く女中にも声をかけたけど、誰も彼女を助けるようなことは出来なかった。


 家の中のことに細かく口を出して良いのは親族だけという考えが周りにはあったし、まさか自分の子供を納戸に押し込めたまま、飲まず食わずの状態で放置しているとは僕らも思いやしなかったんだ。


 だけど、中で働く女中さんが、異臭がするって言い出して、それで、愛人との旅行から帰ってきた珠子ちゃんの父親を捕まえて温泉旅館へと向かったんだけど、助け出した珠子ちゃんは即入院というような状態となっていた。


 僕が無理矢理にでも扉を叩き壊していれば良かったんだけど、僕らを警戒した珠子ちゃんの母親は僕ら家族を家の中に上げようとはしなかった。危うく自分の子供を殺すところだったあの女は大いに反省しているような様子を見せていたけれど、結局、性根は変わっていなかった。


 そうして僕もまた、今回も珠子ちゃんを放置してしまったわけだ。

「ああ・・本当に・・後悔先に立たずとはこのことだよ・・」


 森の主とも呼ばれる大型のオンサを狩猟したことも、今となっては苦々しく感じてしまう。僕はまた、同じ失敗を繰り返しているのだから。


 

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