第38話 母の気持ち
「全然綺麗になっていないじゃないのよ!もう一度洗って来なさいよ!」
最近、娘の増子が八つ当たりをするように妹の珠子に暴力を振るうようになっている。今も、せっかく洗濯をして綺麗にしたものを地面に投げ、踏みつけにして汚している。その姿を見ていると、まるで過去の自分を思い起こすようで、うんざりとしてしまうのだった。
珠子の母、正江は思わずため息を吐き出した。正江には二人の娘がいるのだが、姉の増子は自分に良く似た美しい面立ちをした娘であり、妹の珠子は姑に良く似た素朴で無害そのものの容姿をしている。
正江が酒屋の売り子として働いている時に、
「君、かわいいね」
と言って声をかけて来たのが増子と珠子の父であり、温泉宿の主人の息子で、
「正江ったら、玉の輿じゃない!」
と言って、祝言の時にはみんなに羨ましがられたものだった。
奥多摩にある鄙びた温泉街、宿も数件建ち並んでいる程度のものだったけれど、都心から癒しを求めてやってくる客も多かった。
「貴女には息子の嫁は勤まらないわよ」
誰もが美しい花嫁である正江を喜んで迎え入れてくれたのだけれど、義理の母となった姑だけは正江を認めようとはしてくれない。
「貴女には無理よ」
「例え子供が生まれたとしても」
「到底、我慢など出来ないわ」
温泉宿の跡取り息子の妻となった正江は、宿で働く女中たちを使う立場となったのだが、
「ああ・・旦那様・・いけません・・奥様に気付かれます・・」
襖の向こう側から漏れ聞こえる声に、体の奥底からぞわりとした感覚が湧き起こる。
正江は温泉宿の跡取り息子に望まれて結婚したが、夫が望んでいるのは計算が早く、帳簿をつけるのが得意な女主人となる女というだけのことで、戯れに何人も、何人も、女中に手を出しているような男だったのだ。
「だから貴女には無理だと言ったのよ」
姑はため息を吐き出しながら言い出した。
「女に現を抜かすのは遺伝よ、誰かれ構わず手を出すの」
正江が嫁いで来た時には舅はすでに亡くなっていたのだが、女遊びにかけては近辺でも有名な人であったらしい。
「私も貴女と同じ、温泉宿を回す力があるから嫁に選ばれただけ」
姑は煙管に火をつけながら言い出した。
「私には貴女の気性が良くわかる、到底、我慢など出来るわけがない」
姑にはそんなことを言われたけれど、
「お母様、私は我慢が出来ます」
正江は姑を睨みつけながら宣言をした。
「私は絶対に幸せになってみせます、絶対にです」
姑はタバコの煙を吐き出しながら笑っていたけれど、正江は絶対に自分は幸せになる、幸せになれると信じていたのだった。
夫は浮気三昧の日々を送っていたけれど、それは何処の家でも同じようなもの。浮気は男の甲斐性だって胸を張って言い出す人もいるじゃないか。二人目の子供である珠子が生まれて、
「この子は珠子と名付けよう」
と、夫に代わって姑が名付け親となってくれた時も、いつかは正江の元に夫は帰ってくると考えていた。
気の強い正江は、夫と深い関係になって見下してくるようになった女中には激しい折檻を繰り返すようになった。名ばかりの妻と悪様に言われたとしても、正江は親族も認める有能な妻である。
旅館を取りまとめられる優秀な妻と女中、どちらを選ぶかと言われたらそれは優秀な妻になるだろう。正江は夫に直接的な文句を言う代わりに、激しい折檻を浮気相手に加えるようになったところ、夫は家の中ではなく外に女を囲うようになったのだった。
珠子が四歳になった時に姑が亡くなった。夫は葬儀に顔を出しただけで、すぐに外に囲っている女の元へ戻って行ってしまったのだが、
「お母さん?」
自分を見上げてくる娘の珠子の顔を見下ろしていると『貴女は私に宣言した通りに幸せになったのかい?』と姑に問いかけられているような錯覚を覚えた。
珠子に折檻を始めたのはいつ頃からだっただろうか?
姑に良く似た珠子を見ていると、どうしても、今の自分が正解かどうかが分からなくなる。だからこそ、
「うるさい!黙りなさい!」
と、叫びながら可愛い自分の娘を殴りつける。
何だか責められているような気分に陥って、無視をする、食事を与えない、暴力を振るう。
「正江さん!貴女いい加減にしなさいよ!」
三件隣の神原の奥さんが、堪りかねた様子で正江に声をかけてきた。
「珠子ちゃんが死んでもいいの?自分の子でしょう?」
「ええ・・珠子は私がお腹を痛めて産んだ子ですよ」
三件隣の神原家も同じような温泉宿で、夫婦仲良く経営していることを知っているし、度々、珠子の食事の面倒を見てくれていることも知っている。
本来なら面倒を見てくれて有難うとお礼を言うべきところなのに、
「今後一切、娘の珠子には関わらないでください!」
そう言ってから、珠子を納戸に押し込めた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
いくら泣いても外には出さない、食事も与えず、水も与えず、死んでしまえいいとさえ思っていたのだけれど・・・
「お前には人の心っていうものがないのか!」
愛人の家から帰って来た夫が、死にかけた珠子を救い出すと、正江の頬を張りながら言い出した。
「離婚だ!離婚!お前なんかと結婚を続けていられるわけがない!離婚だ!」
珠子は本当に死にかけていて、助け出された後も病院に何日も入院するほどだった。面会に行くのは許されず、今まで正江を支持してくれた親族たちも、さすがに今回のことは問題だと言ってすぐさま離婚するようにと言い出した。
珠子はそのまま正江の母が引き取り、増子を連れて家を出た正江は親戚がいる神戸へと向かった。
元々計算は早く、間違えることなく帳簿をつけることが出来たのだ。女主人として温泉宿を切り盛りした経験もある。
「年取った私の後添えにと、君を望むのは迷惑かもしれないが・・」
米問屋の主人である夫にそう言われた時には天にものぼる心地であったし、
「増子さんは久平と一緒にさせたら良いと思うのだが」
夫の差配で娘の結婚も決まった。
「ブラジルに行けば金があっという間に儲けられると聞いている。今の日本は不景気で仕方がない状態だから、ブラジルに行って一旗あげようと思っているのだが、もし良かったら君が預けているというもう一人の娘さんも連れて行ったらどうだろう?」
夫の気遣う言葉に、正江は一瞬、躊躇することになったのだ。
珠子の面倒をみてくれていた正江の母は病にかかり先は長くないだろうと医師にも言われている状態で、近々、東京まで様子を見に行く予定でいたのだが、夫は東京に預けたままの娘のことまで気にかけてくれているらしい。
結局、正江の母はあっけなく病で亡くなり、一人ぼっちになった珠子を引き取ることを了承した夫は、正江たち親子を連れてブラジルへの渡伯を決めた。
恐れるように自分を見つめる珠子に笑顔を向けながら、
「私は幸せよ・・幸せなの・・」
と、姑に語りかけるように心の中で繰り返した。
ブラジルでの生活は大変だったけれど、夫の辰三がマラリアに罹って死ぬまでは確かに幸せだったのだ。夫が亡くなっても娘婿の久平もいるし、辰三の弟一家が同じ農場に配耕になったので、何とか生活を続けることは出来たのだ。
娘婿が隣の家の未亡人に懸想をして、しかもあっけなく捨てられておめおめと家に帰って来るまでは、それなりに微妙な均衡の中、うまく生活は回っていたと言えるだろう。
「あっ・・ごめんなさい・・」
目の前のコップが倒れて水がテーブルの上に広がっていく。
珠子が食事を配膳しようとしたところ、姉の増子が邪魔をしてコップが倒れてしまったのだが、
「珠子!お前は!」
立ち上がった正江は自分の鬱憤を叩きつけるようにして珠子に殴りかかる。
増子は神原松蔵を手に入れると言いながら、全く相手にもされていないことを知っている。浮気は嫌いだから相手にされないのは良いし、そもそも松蔵は馬鹿みたいに獣を追って森に入っているので生きているのか死んでいるのかも分からない。
「お母さん!やめてください!珠子ちゃんが可哀想じゃないですか!」
珠子を殴りつける正江の手を掴んだ久平が怒りの声をあげると、
「久平さん!まさか今度は珠子に手を出すつもり?」
と、増子がヒステリックな声をあげる。
ああ、最近は家に帰っても喧嘩ばかり。本当に、なんでこんなことになってしまったの?正江は椅子に座りながら頭を抱えて俯いた。何故、こんなに上手くいかないの?幸せになるはずだったのに、何故?何故なの?
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