第30話 川地雪江という女
川地雪江は、思わせぶりな態度を取るのが上手かった。集団がいればその中で誰が力を持っているか、誰が金を持っているかを見抜くのが得意だし、すっと懐に入り込んで甘い囁き声をかけて相手に取り入るのも得意だ。
雪江は父が外に囲った妾との間に出来た娘だ。父は本妻との間にすでに四人も子供が居たということもあって、本妻からは厭われていた。ただ、母親に似て街一番の美人と持て囃されるような華やかさもあった為、父からは本妻の子供以上に溺愛されることになったのだった。
妾の子でありながら蝶よ花よと育てられた雪江の生活がくるりと変わったのは16歳になった時のことで、
「雪江、お前には秋元様のところへ嫁に行って貰うことになったよ」
と、突然父が決めつけるように言い出したのだ。
戦後の不景気で父の商売は大きく傾くこととなった。このような経済状況で妾を囲っている余裕などないということで、妾宅から追い出されそうになった母が、苦肉の策として持ち込んだのが雪江の縁談だったのだ。
秋元様とは昔の母の客で六十を超えた老人となる。多額の支度金を用意するから妻として雪江を迎え入れたいと言っているという。高額で娘を売り渡す代わりに、今のまま妾宅を使わせてくれと母は言ったのだが、その金額がかなりの額だった為、父も二つ返事で了承することになったという。
父の正妻の子供たちは、妾の子供である雪江を極度に嫌っていた。ただ一人だけ、普通に接してくれたのが本妻の娘となる異母姉の安江だったのだ。
姉はすでに嫁いでいたのだが、子供を産んでから精神的に不安定なようだという話を雪江は母から聞いていた。その姉の元へ行ってみれば、
「幸吉さんが金儲けの為にブラジルへ行くって、家族帯同でないとブラジルには行けないから私も連れて行くって言ってきかないのよ」
と、姉は生まれたばかりの赤子を抱えて、身も世もなく泣いている。
戦後の不景気の煽りは何処の家も受けているようで『誰でも行けば金持ちになれる』というブラジルでの労働は、誰の目にも起死回生のチャンスのように見えたのだ。
「だったら私がお姉さんについて行ってあげるわよ」
赤子を連れての船旅は、子供の世話を手伝ってくれる女の家族が居なければ大変だろう。多額の支度金を目当てに娘を輿入れさせようと考えている家族が反対するのは目に見えている。そのため、雪江は船に乗り込むまで、家族の誰にも、姉の安江についてブラジルまで行くとは言いもしなかった。
誰にも言わずに家を出た雪江を、恐らく父も母も、正妻でさえも死に物狂いで探していることだろう。秋元様とはそれだけ評判も悪く、裏の世界にも顔が効く人物として有名な人でもあったのだから。
だけど、どれだけ探しても雪江を見つけることは出来ない。なにしろ家族が探し始めている頃には、雪江はすでに船の上の人となっているのだから。
そうしてブラジルへと渡った雪江を待ち受けていたのは、到底金持ちになれるとは思えない生活だった。そんな突然はじまったブラジルの田舎の農場での生活の中でも、雪江はまだまだマシな生活を送っているということに気が付いていた。
自分たちが乗った船の一つ前の船でブラジルへとやって来た、年齢も同じとなる日本人労働者の珠子は、家族から虐げられている娘だった。
姉の家族についてブラジルまでやって来てしまったという雪江と同じような境遇の彼女は、土間の隅に寝床を作り、朝から晩まで家族の為に酷使され続けているのだ。誰もが彼女を気にしないし、そんな余裕は日本人労働者にはない。
唯一、珠子を気にかけるのはブラジル人だけ。日本人がブラジル人と仲良くする?
「ふふふふっ、本当に信じられない!」
さすが故郷を同じくする日本人から排除されているだけある。なんて可哀想な娘だろうと思いながら珠子を見て、自分はまだまだマシだと考えている雪江は・・
「「珠子ちゃん!」」
「「一緒に外作地まで行かない?」」
と、四人の若者に声をかけられている珠子の姿を見て、思わず眉を顰めてしまったのだった。
珠子に声をかけて来たのは、第6便の船でブラジルまでやって来た労働者の若者たちで、源蔵さんの家に押し入ったその罰として、カマラーダとしてブラジル人の中で働かされていた若者たちだった。
「あら!四人は珠子ちゃんとお知り合いだったんですか?」
珠子に話しかけたのは、カマラーダと一緒に働くような目に遭ったから。珈琲畑の方で働いていなかった為、可愛らしい雪江に気が付くことが出来なったのだろう。
小首を傾げながら雪江が問いかけると、こちらを振り返った四人組のうちの一人が、
「あっ!」
と、声を上げながら指をさしてきた。
「お前!お前があそこの家には金があるとか唆すから!俺は大変な目に遭ったんだぞ!」
「ええ〜?なんのことですか〜?」
怒りで顔を真っ赤にさせる男を見上げながら、雪江はそういえばと思い出したのだった。
「私は、金の棒をご遺体が握り締めていたっていう噂を聞いたので、もしかしたら家に隠しているんじゃないかな?って言っただけですよ?」
雪江はにこにこ笑いながら、男を見上げて訴えた。
「それって私だけでなく、他の人も言っていたことじゃないですか?それに、あそこの家を襲え〜!だなんて、私は一言も言っていやしませんけど?」
確かに雪江は誘導するようなことは言っていたけれど、直接的に命令するようなことは一言も言っていない。
「雪江ちゃん、どうしたの?」
「何かあった?」
そうこうするうちに雪江の信奉者たちが集まり出した為、四人の若者は、
「もういいよ!」
「行こう!」
と言って、外作地の方へと向かってしまった。
気が付けばヤカンやら昼食を入れた籠を抱えた珠子もいなくなっている。四人組の若者について前の列の方へ移動してしまったのかもしれない。
「雪江ちゃん、大丈夫?」
そう問いかけられた雪江は、涙を浮かべながら訴える。
「だ・・大丈夫だよ・・誤解されただけだから・・」
「誤解って何の誤解だっていうわけ?」
「それは珠子ちゃんが・・」
そう言いかけながら、雪江は首を横に振って黙り込む。そうするだけで、珠子が雪江に対して何かをしたのだろうと周囲は勘繰ってくれるのだった。
雪江にとって珠子は同じ年で同じような境遇の、かけがえのない友人だった。彼女が居なければ、これほどまでに雪江がチヤホヤされることもなかっただろう。
「またあの娘か・・」
「本当に性格が悪いよな」
「雪江ちゃんのことが羨ましいだけなんだよ」
そんな言葉を聞きながら、
「みんな、有り難う」
雪江は輝くような笑みを浮かべる。
雪江が光だとするのなら、珠子は地面に這いつくばるようにして広がる影なのだ。影がいないと光は眩く見えることはない。雪江にとって珠子は必要な存在であり、いつまでも一緒に居たいと考える程度には執着を感じているのだった。
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