此方と彼方を分けるように設けられた門の向こうには、無限かと錯覚するほどに長い階段が続いている。階段の端と真ん中には手すりもある上、段差もそこまで高くはないが、その光景を見た富樫は、途方に暮れた顔をした。


「富樫くん、ネバギバ」


 黒崎の言葉に富樫は返事をせず、二人は階段を昇り始める。

 俯きがちに昇る富樫の前に黒崎はおり、危険にも後ろ向きに進みながら、目の前の富樫の表情を覗き込んでいた。疲労混じりの苛立った視線を、時折富樫から向けられても、黒崎はその行為をやめない。


「もうすこーし、もうすこーしだよ富樫くん」

「……うっさい……」

「聞こえてる聞こえて……おっと」


 昇ること五分、そろそろ段差がなくなる、という所で黒崎は顔を上げ、足を止めた。急なことで富樫は止まれず、黒崎の身体にぶつかってしまうが、彼にしては珍しくからかいの言葉がない。


「どうか、したん、ですか」

「……多分いたやー。なんか、めっさぼりぼり食べてる」


 黒崎はそれしか言わなかった。

 富樫はすぐに、黒崎の横に立ち、荒い呼吸をできるだけ押さえて、黒崎の視線の先を辿り──声を上げそうになったのか、自分で口元を押さえていた。

 富樫の目にはきっと、件の雌牛の姿がそのままの姿で映っているだろうが、自己暗示を掛けていた黒崎の目には、全体的に黒いモザイクが掛かった状態で見えている。

 誰かの墓の上に腰掛ける雌牛は、脚を適当に揺らしながら、一定の動作で淡々と──手の中にある骨壺の中身を食らっていた。


「……あの、お供え物を食べているはずでは?」

「そのはずだけど……変だね」


 なるべく音を立てないよう近付き、二人は草むらに隠れる。雌牛に気付いた様子はない。


「食べる物なくって遺骨に手を出したのかな。でも、牛って骨食べるもんなの? 美味しくないよね、骨。オレ、骨嫌いだわー。魚の骨、取るの毎度面倒なんだよね。骨のない魚とか生まれればいいのに、オレの為に」

「……知りませんよ」

「つれないなぁ」


 黒崎がじっとりとした目を富樫に向ければ、彼はショルダーバッグからスケッチブックを取り出している所だった。手早く紙を捲ると、鉛筆も出して構え、じっと雌牛に視線を向けている。鉛筆の柄がなかなか、どきつい色の紫に黄色の水玉模様と派手なものだった。

 吐息を溢して黒崎は、右手を腹ポケットに突っ込んで、雌牛の動きに集中する。

 しばらくは、小さな鉛筆の走る音が、風や草木の音に紛れて黒崎の耳に届いていた。雌牛の動きにも変化はない。日暮れまで時間もある。今回はいつもより楽に仕事が済むんじゃないか、などと思っていたが……。

 突如、雌牛が骨壺を落とした。

 がちゃりと派手な音を立てて割れる骨壺。風が止み、富樫の鉛筆の音が心なし大きく辺りに響く。

 雌牛は胸を押さえているように見えた。身体を曲げて、辺りを見回し、ふいに動きを止める。──激しい怒りの込められた視線を感じ、黒崎はすぐに前に飛び出した。


「どれくらいで終わる?」

「最後に脚と、墓石に取り掛かり始めた所なので、もう少し」

「なるはやでよろ」


 腹ポケットに突っ込んでいた右手を取り出すと同時に、雌牛の身体が黒崎にぶつかる。鳥肌が立つのを感じながら、黒崎は右手に力を込めた。

 ハリセン。

 最近ではそんなに見掛けなくなったが、何かしらボケた人間をひっぱたくのに使う、張り倒すための扇子、略してハリセン。黒崎が手に持っていたのは──腹ポケットに入れていたのは、それだった。

 けっこうな長さがあるが、どうやって腹ポケットに入れていたのか、謎である。

 襲い掛かる雌牛を、黒崎はハリセンで捌いた。きっと特別製のハリセンなのだろう、まるで折れる様子はない。何度も何度も張り倒すが、雌牛の勢いは衰えない。


「まだー?」

「そろそろです!」

「ちゃちゃっと描いてよそれくらい」

「刺しますよ!」

「こわっ。今時の中学生こわっ」


 激しく叩くハリセンの音、素早く走る鉛筆の音に合わせて雌牛が嘶くが、黒崎の耳には放送禁止音にしか聞こえない。

 間もなく、五分が経つかという頃、ふいに雌牛の勢いが弱くなる。黒崎はここぞとばかりに頭部に狙いをつけた。まるで、地面にめり込ませようとばかりに。

 叩いて、叩いて、叩いて。

 何度目かで、叩いていた感触が消えた。


「……終わった?」

「……はい」


 雌牛の姿はもう、黒崎の目の前にはなかった。彼は振り返り、富樫のスケッチブックを覗き込む。黒崎はそこで初めて対峙していた雌牛の姿を目にし──世にも嫌そうに、顔を歪めた。


「上手いね」

「はい」


 黒崎が腹ポケットにハリセンを仕舞うと、富樫もショルダーバッグにスケッチブックや鉛筆を片付けて立ち上がり、特に会話もなく、階段を降り始めた。

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