くるしみの発露

 主神様は、最上階で極北の夕暮れを眺めていました。


「ああ、おかえり、ラインハルト……」


「……主神様。」


「もう、いいよ。」


「えっ?」


「お前は、歓迎されているらしい。

 向こうに行っていいよ。」


「主神様!」


 私は彼にそれ以上喋らせまいと、その小さい背中をぎゅっと抱きしめました。

 肩が、腕が、小さく震えているのが分かります。


「嫌です。私は必ずあなたと共に。

 あなたのお役に立ちたい。

 あなたが辛い時は、あなたの代わりに。

 何でもします。

 何でもおっしゃってください。」


 すると、主神様は私の腕を少し浮かせて、ゆっくりとこちらを向きました。

 その眉間にはくっきりとしわが刻まれ、目線は下を向いて、私の顔すら見ようとしてくれません。


「……もう何も見たくない。

 もう何も聞きたくない。

 もう何も感じたくない。

 ラインハルト……

 私を、殺せるか?」 


「……!」


 あなたの光を、取り戻す前に。

 その時が、来てしまったのですか。

 ……嫌です。

 まだ、あなたと一緒にいたい。


「私には、あなたが必要なのに……」


「……そう、だな。」


「待っていてください。

 あなたを殺す代わりに、

 あいつらを殺してきます。」


「いや……いい。

 それより、もう……

 今は何も言わず、私に抱かれてくれないか。」


「はい。」


 もう、あなたの目に映るのは私だけでいい。

 あなたが耳にするのは私の声だけでいい。

 あなたが触れるのは私の体だけでいい。

 つらいことは全て私が引き受けます。

 だから、どうか。

 私のそばで、生きて……




 主神様が世界を導くことを止めてから、

 世界は混乱し、それでも思ったよりも善戦し、

 導く神などいなくても、ヒトは生きていけるのだと、

 私は気づいてしまいました。


 夫達が反乱側に回っても、

 炎の神と水の神は淡々と自分の仕事を続けました。

 ですので、私も彼女達には祈りを回していました。

 積極的に加担しないというそれだけでも、

 今の私達にとっては救いでした。


 それ以外の祈りは、全て放置しました。

 私の分野の祈りは、世界が混乱している最中は元々ぐっと減るのです。

 それに、そんな最中に送られてくる祈りは、

 どうせちっともうつくしくはないので。

 神はいなくなったのか、と嘆くような奴らは、

 神に頼って生きてきた、

 飼われてきた、

 肥やされてきた、

 なんの輝きも持たぬ塵芥なので。

 私にとってはどうでもいいのです。



 主神様が世界を導くことを止めてから、

 反乱側の神々は意外にも、

 表立って動くことはありませんでした。

 奴らも奴らで、自分達の中の正義を戦わせているのでしょう。

 主神様が歯向かってこないなら、

 奴らが振り上げた拳は、届く先がないのです。


 みっともない、と思います。

 混乱する世界を楽しく見ているのはきっと、風の神だけでしょう。

 あの女にとっては今の世界の方が何倍も自然に近く、理想に近いのですから。

 地神は軽率だったと思います。

 奴は本当は、皆と共にいられればそれで良かった筈なのです。

 それなのに、主神様を斃すと口にしてしまったせいで、

 自分の首を絞めているのです。

 武神も愚かです。

 奴にとって現状は、弱者が混乱に苦しむ、理想とは程遠い世界です。

 それなのに、情に負けて風の神を救おうとしたせいで、

 奴は主神様の方に帰ってこれなくなっているのです。

 もっとも、帰ってきたところで、

 弱者を導く者はもういないのですが。

 雷神は頼まれて動いただけで、

 反乱の意思はなかったかもしれません。

 けれど、元々風の神と近い考え方の神でした。

 きっと主神様のやり方に戻そうとは思っていないでしょう。

 極北に帰ってくることも、ないのでしょう。


 どうして、お前達は、こんなやり方でしか主神様を変えられなかったのですか。

 馬鹿な奴ら。

 うつくしくありません。

 主神様が許すなら、すぐにでも殺してさしあげましょう。

 ……そう。

 主神様は処分しろとは言いましたが、

 殺せとは言わないのです。

 未練、だと思います。

 もうどうあっても取り返しのつかないところまで。

 斃すとか殺すとかいう言葉を使うところまで来ているのに。


 処分と言われたら、やり方は決まっています。

 死ぬまでそこを出られない、

 罪人の監獄。

 十字塔の地下の底。

 深淵の廻廊に、奴らを閉じ込めることです。

 監視の精霊魔法が使われており、

 その中からは転移で脱出することもできません。

 食事を摂る必要のない私達がそこに落とされると、

 モンスターに食われるか、

 狂って自殺する以外では死ぬこともできず、

 正しく生き直すこともできず、

 やがて長すぎる寿命が尽き果てるまで、

 闇の中を彷徨い歩くことになります。

 そして、その廻廊を維持しているのは、主神様の精霊達です。

 主神様は、やがて自分が死ねば奴らを解放できると思っているのでしょう。

 そんなのは、許しませんが。


 主神様が死ぬ時は、私が代替わりして管理者となる時です。

 主神様がいないなら、奴らを生かしておく理由がありません。

 私の主神様を、何度も絶望に落とした罪。

 その命で贖っていただきましょう。




 反乱の始まりから、三十年ほど。

 主神様は長寝をすることが増えました。

 

 そして起きてくると口癖のように、

 今日は殺してくれるか、

 いつ殺してくれるのか、

 そう私に問うてきます。

 その度に、私は笑顔で、

 駄目ですよと答えます。


 私は奴らを残らず深淵の廻廊に落とすべく、

 着々と準備をしていました。


 この十字塔は、墓標です。

 かつて居た長命種達の。

 主神様に従わぬ者達の。

 そしていつかは、主神様のための。


 短命種の信徒達もよく、

 十字塔を模した墓標を自分達の墓に建てます。

 それは、死後迷わず命の巡りに還れるように、

 精霊達に迎えに来てもらう目印、だそうです。

 極北の神は昔から精霊と共にあれば良かった。

 聖獣など、過ぎた力だったと、私は思います。




 名を交わさずとも大精霊を召喚使役する術。

 私はそれを手に入れるため、

 いくらか治世の真似事をしました。

 嵐神の領域から離れた東方の地で、

 それなりの大国を作らせ、

 主神様の代わりにそこを導き、

 学問に手を出す余裕を持たせたのです。

 すると、やがてその地が美の神の加護を得ていると知った世界中の学徒達が、その国に集まってくるようになりました。


 なるほど、必要なのは、格差だったのです。

 全てをうつくしく統治する必要などなかった。

 ヒトを効率的に動かすには、

 より良い明日、

 落ちるかもしれない深淵、

 両方が目に見えている必要があったのです。

 ヒトの動き方の法則が、ようやく理解できてきました。



 ですから、あいつが極北に帰ってきた時も。

 不思議ではなく当然の帰結だと、

 肩を竦めて受け入れることができました。

 あまりにもつまらない、

 うつくしくない、

 所詮作られた長命種に過ぎない。


「どの面さげて帰ってこられたことやら。」


「すまぬ……だが、限界だった。

 弱き人間達がこれ以上苦しむのを見て平気でいられるほど、

 俺は……」


「いいですよ、ただし主神様には近づかせません。

 あなたがたのせいで、あの方は心を病んでいます。

 今は私が主神様の仕事を代行している。

 ですから、平和に貢献したいというのであれば、

 私の仕事を手伝いなさい。」


「そう、なのか……。

 よくやっているのだな、アウヅ。」


「……ラインハルトです。」


 私が抗議すると、

 武神はふっと笑って、

 私の頭を撫でてきました。

 もうあなたより背が高いのに。

 私の方が正しかったのに。

 どうしてそうやって、

 救う側に立つの。


「……つらい思いをさせたな。」


「っ、父上……!」


 何故、私は泣いているのか。

 この涙は、主神様への裏切りではないのか。

 ああ、どうか、眠っていて。

 こんな弱い私を見ないでください。

 あなたの前では常に、あなたの為に生きていたいから。

 私の為に流す涙など、あってはならない、のに。


「父上の、馬鹿……!!」


 こんな武神として当たり前の動きでさえ、

 凍りつきそうだった私の心には温かくて。

 この男に救われたくなどないのに。

 私の救いは主神様ただ一人であるべきなのに。

 恥ずかしくて、中々顔を上げることができませんでした。



「主神様。武神が帰ってきましたよ。」


 私は寝所で塞ぎ込む主神様に報告しました。

 ああ、愚かにも、主神様の顔を見もせずに。


「帰ってなど、こないよ。」


「いえ、それが、先程大広間に……」


「あいつは!!

 あいつは二度と帰ってこない!!!

 俺の大切な相棒は、

 二人で好きな子を牽制し合ったライバルは、

 俺の一番隣に居て欲しかった奴は!!

 二度と!

 二度とだ!!!」


 まさに霹靂でした。

 私は驚いて主神様に取りすがりました。


「申し訳ありません!

 主神様、ごめんなさい、主神様!」


 小さい体をしっかりと抱きしめ、

 怒りが収まるまで謝り続けます。


「っ、ああ……」


 主神様は、やがて我に返ったようでした。

 そっと私の背中に細い腕が回りました。


「ラインハルト……」


「はい。」


「すまない、失望させたな。」


「失望など、いたしませんよ。

 私が軽率でした。」


「いいや。

 ……私が一番隣に居て欲しいのは、

 この千年間ずっと、お前一人だよ。」


 そういうことに、しておいてあげましょうね。

 私は無言で抱きしめる腕に少しだけ力を込めました。

 ひどいひと。

 私の上に父と母を見ていたなんて。

 ねえ、このまま押し倒したら、

 今のなんか、簡単に組み敷けるんですよ。

 力の差なんか、とっくに逆転しているんですよ。


 主神。主神。

 しゅしん、さま。

 ねえ、気づいていないんですか?

 うつくしい私の、うつくしくない感情に。

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