第8話


 写真が挟まっていたページがどこであるかはわかっている。同じページにそれを挟みなおした。正直、向きまではわからない。だから、完璧に元に戻せたわけではない。

 なにか意味を持って挟んでいたとしたら、バレて怒られたりするだろうか。いや、隠し通そうとするのではなく、この棚の本を見たと正直に伝えるべきだろう。

 しかし――

 ミントがこの写真のことを口にしないのには、何か理由があるんじゃないのか。彼女の口が、話す準備が整うまで、触れず急かさずじっと待つというのも、ひとつの優しさなのではないか。

 ユズは別の本をそっと引き抜いた。かつて観た映画の原作小説。これがいちばん都合がいいと思った。ところどころ忘れているが、大体の内容を理解しているし、「懐かしい本を見つけてつい」などと言える。写真が挟まっていた本の近くにあったので、写真のことがバレても、「この本を取るときに、ドジって散らかしちゃって……」と、苦しいながらも言い訳できるとも思った。


 ユズは本を読みながら、過去の自分の感情に触れた。

 暗い劇場。

「めっちゃいい映画らしいよ!」と誘われて大枚をはたいたものの、劇場という異空間をもってしてもなかなか引き込まれることがなかったそれ。ペットボトルや缶とは違う味がするコーラと、ほかほかのポップコーンに伸ばす手と嚥下は止まらない。しかし、物語が進むにつれて、気づかぬ間にその世界に引き込まれていた。自分はスクリーンの向こうの世界の、通行人Rになっている。AやBのように、顔をしっかり映してもらえたり、演技の出来を気にされる立場じゃない。本当に、モブ中のモブ。けれども確かに、中の人。

 心は熱くなっていく。コーラはぬるくなっていく。ポップコーンは冷めていく。

 引き込まれてもなお、自分の一部は現実の、劇場のシートの上に残されていた。「この製作陣、つかみはイマイチだけど上手いな」などと、上から目線で批評した。

 友人はエンドロールが始まるなり、「帰ろうぜ」と言った。ユズは「この後なんか小ネタがあるかもしれないから、最後まで観てく。先に出てて」と囁き、劇場内に朝が来るまで、しっかりと観た。最後に小ネタなどなかった。しかしそれを不満に思うこともなかった。

 ユズは座ったまま、ひとり音を立てずに拍手した。スタンディングオベーションは、やりすぎだ。というか、ひとりでやるのは恥ずかしい。けれど、喝采を、と思ったのだ。本当に、いい映画だった。もう一度観たなら、今度は掴みから没入できるだろう。その時、この作品の真の姿を見られる気がした。

 また観たい、とは思ったが、なかなか都合がつかなかった。なんとなく観る作品から真面目に観たい作品へと昇格してしまったから、しっかりと時間を確保してから観るべしと、自分の行動を縛ってしまった。

 ようやく週末には行けるだろうか。その時に観なければ、上映終了となってしまって、しばらく観られなくなってしまう。と、心おどらせていたとき、姉が言った。

「あの映画、マジ駄作。めっちゃいい映画とか言ってるヤツの頭、腐ってるって」

 瞬間、弾けた。

 言い負かしてやろうという気持ちが湧いた。けれど、まだ真の姿を見ていないユズには、それは無理だった。

 姉という城は、落ちない。

 姉という城は、言葉という兵を無尽蔵に送り出す。

 瞬間、砕けた。

 もうこの人を言い負かそうとしてはならない。ご機嫌を取らなければ平穏な日々はやってこないのだから。仮に不満に思うことがあっても、それは飲み下さなければならない。自分がすべきことは、嘘でも共感することだ。

 それでも、もし、負の感情を育ててしまった時には、謝罪の品を献上しよう。そうして、悦に浸らせておけば害はない。



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