第7話


 ミントが家に戻った時、ユズは寝ていた。タイムは「間が悪すぎるだろ」とゲラゲラ笑う。

 ついさっきまでは、起きていたのだ。


 何度も読み返したいからと、ボロボロになってもまだ大切にしている本を貸してやったら、ユズはそれを貪るように読んだ。

「これ、ぼくも好きだった。ううん。好きだったっていうのは違うかも。衝撃を受けたんだ。雷に打たれたみたいに。いや、雷に打たれたことはないんだけど」

 打ち消してばかりの言葉を聞き、タイムは微笑む。ユズの心の中に、ゆとりが育ったことに気づいて、どこか安心したのだ。

 ――大丈夫。こいつはここでやっていけるし、きっと任せられる。時が来たら、元に戻せる。

 ユズはそれを読んでいるうち、うつらうつらとし始めた。

 懐かしさと新鮮さに溺れて、そっと意識を手放したのだ。

「大丈夫だよ。じきに起きる」

「……そう」

「フルーツティー、飲む?」

「今日って、そんな贅沢していい日?」

「まぁ、ほら。それ持ってるし。いいじゃん、たまには贅沢したって」

 ミントはチャービルの毛を入れた袋を、ぎゅっと握りしめた。これがあるからって、それだけで? これは、とても貴重なものなのに。

 ――次は、私にミントをギューさせてもらう権利も付けとこっかな?

 チャービルの声が、記憶の引き出しから飛び出した。

 チャービルはきっと、今日、フルーツティーを飲んでも怒らない。ううん。今日は王子さまが目を覚ました記念日なんだから飲みなさい、って言う気がする。

「うん。飲む。飲みたい」

「そうこなくっちゃ」

 タイムがくしゃっと笑った。

 ミントも小さく笑った。


 ユズが再び目を覚ました時、部屋には誰もいなかった。すぅっと体が冷えていく感覚。怯えが血に乗って巡る。

「ミント? タイム?」

 小さな声で、ふたりを呼びながら家の中を歩いて回った。そういえば、案内されるわけでも、案内してとお願いするわけでもなかったから、どのような家なのか全然知らない。

 右へ、左へ。天井へ、床へ。視線をどこへ動かしても、大した情報はない。物が荒っぽく放られていることも稀にあるが、全体的には綺麗。母や姉が「こういうのいいよねぇ、憧れるわぁ」などと言うだけ言っていた、ミニマリストの家によく似ている。

「入るよー?」

 そっとキッチンへ足を踏み入れた。

 こぢんまりとした作業台の上には、何度も洗って使っているらしい、くたびれたドリンクボトルがある。中には半分くらい液体が入っていた。そばには、小さな紙。

 近寄りよく見てみる。手紙だ。丸みのある文字――おそらく、ミントが書いたのだろう。

『ユズへ

 ユズのぶんのフルーツティー、置いておくね。

 よかったら飲んで。

 ちょっと出かけてくるから、帰ってくるまで待っててね』

 ドリンクボトルの蓋を開けて、クンクンと嗅いでみる。フルーツティーの香りがする。よかったら飲んで、は、これのことで間違いなさそうだ。

 ここでのマナーのようなものを理解しきれていないユズは、行動をしようとするたびに迷い、怯えた。

 ドリンクボトルに口をつけていいのかすらわからない。こうも大切に使われているドリンクボトルに、口をつける勇気が足りない。

 洗ってあるらしいカップを手に取り、注いで飲んだ。

 それは冷たくも温かくもないけれど、体にも心にも深くじんわりと染み込んでいった。


 帰ってくるまで待っててね、とわざわざ書いたということは、ひとりで出掛けるべからずということだろう。いうてユズはまだこの近辺とて知り尽くし、覚え尽くしたわけではないので、ひとりで出れば迷子になることくらい、想像に難くない。

 だから、言いつけは守る。

 しかし、暇だ。

 雑然としている家なら探検しがいがある、というか、視覚的に飽きない。けれどここは、さっぱりしていて、フルーツティーにたどり着くまでにほとんど見てしまった。いくつか開けていない扉はあるけれど、それはおおよそミントやタイムの部屋なのだろうと察しがつく。誰かの部屋だと予想しながらも、勝手に開けて中を見るほど、デリカシーのない男ではない。この世界においても。

 最初の場所――玄関入ってすぐの、たぶんリビングなのだろう部屋――へ戻る。何か暇を潰せるものはないかと、隅にある小さな本棚を見た。これだけは、と大切にされている本たちが眠る場所だ。

 近づいて見てみる。日に焼けてしまったのか、背表紙が読めない本もある。すっと引き出してみると、表紙には文字が書いてあるのがわかった。その文字が、ユズが読めない文字であることも。

 何語であるかはわからないが、なんとなく英語っぽい感じがした。ヨーロッパあたりの国の言葉かなぁ、などと考えた。

 気になって、ぱらりぱらりとめくってみる。

 中も、もちろん読めない。

 だが、文字だけではなく挿絵があるそれは、読めなくてもなんだか楽しかった。次の絵を、次の絵を……と、ひたすらにめくり続けた。

 と、栞のように挟んであったらしい一枚の写真が、はらりと落ちた。ユズは焦り、それを拾う。

 これは他人のものなのだ。勝手にじろじろと見るべきものではない。けれど、視界に入ってしまったら、どうしても見てしまう。そこにミントの顔を見つけたら、気になって見てしまう。

「え……どうして」

 ミントの横に、自分の顔があったなら。混乱して、見入ってしまう。



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