第2話


 買ってしまった。幻のタルトを手に入れてしまった。

 ぼくはアドレナリンで震える手でしっかりと箱を持ち、家に向かって歩き出した。

 なんていい日だろう。

 これを渡せば、姉ちゃんのテンションは爆上がり間違いなしだ。この先数ヶ月の運が全部これに注ぎ込まれていたとしてもかまわない。このガソリンを投入して、就職活動に精を出していただき、とっとと実家から遠く離れた場所に就職するがいい! そして、弟の大学生活にノーサンドバッグという光をくれ!

 足は勝手にスキップしそうになる。もしもスキップをしたらタルトが潰れてしまうじゃないかと、足をなだめながらそろり、そろりと歩いた。

 と、一瞬。ほんの一瞬、世界が止まった気がした。

 皆の動きがぼくより半拍遅かった気がした。

 気のせいか? アドレナリンのせいか?

 まさかの出来事に、興奮しすぎだ。このままでは、せっかくのタルトを無事に家まで運べる気がしない。

 落ち着け、自分。

 ふぅ、と大きく、吸って吐いた。

 未来を輝かせてくれるだろうタルトの護送は続く。一歩一歩丁寧に進んでいるおかげだろう、誰ともぶつからない。不意に進路を妨害されてもだ。

 その妨害者の背丈はぼくよりも低かった。それが柔らかいものであるなら可愛げがあっただろうに、鋭い視線がナイフのように凶暴な上目遣い。髪はイチゴのような赤ピンクで、味がないゼリーのようなキラキラを塗ったかのように艶やかだ。オシャレのセンスがあるのかないのか判別しがたい、乱雑に切られたショートヘア。服は、割と普通。普通だけど、たぶん自分に自信があるんだろうなって思う、体のラインを隠さないスタイル。ぼくはどちらかというと、フワってしてる感じの方が好きなんだけどなぁ。

「サイテー」

「……は?」

「あ、あたしが買うはずだったのに」

「……へ?」

「その! フルーツタルトをッ!」


 早く持って帰らなければ傷んでしまうのではないか、と不安になるも、激しい怒りを露わにする彼女をタルト片手に振り切るのはどうにも難しそうだ。

 どうすればこの場を収められる?

 彼女はフルーツタルトを買うはずだった、と言っていた。と、いうことは、これを彼女に譲れば、万事解決か?

 いいや、姉問題が残っている。それに、別にこれは彼女から強奪したものではなく、正当な手段でもって購入したものだ。なぜ、このワガママ女に譲らなければならない?


「あのぅ……。また今度、買えたらいいですね。で、では」

「もう、後悔したって遅いんだから」

「……ん?」

「あなたのこと、連れ込んだ」

「……は?」

「こっちの世界に連れ込んだ。そ、それで! あなたはもう、あたしにそれを渡す未来以外を選択できないんだから!」

 こっちの世界だとか、連れ込んだとか、こいつはいったい何を言っているのか。いよいよ相手にする気が失せた。ぼくはひとり、ツカツカと歩き出した。


 家に着き、鍵を開けようとするも、鍵がうまく入らなかった。これまで、何度か鍵が回りにくかったことがある。そんな時は、鍵に黒鉛を擦り付けて、滑りをよくすれば元通りになった。しかし、今回は少し毛色が違う。そもそも、うまく入らないのだ。回す以前の問題である。

 何か詰まっているのか? と、鍵穴を覗き込んでみる。小さな隙間の奥はよく見えない。目を細め、じぃっと中を、見ようとした。

「お兄さん、こんばんは」

「ふぇっ!」

 突然声をかけてきたのは、警察官だった。


 その家には、確かにぼくの家族が住んでいたが、ぼくのことなど知らないと言われた。

 この家は三人家族であり、弟などいないと。

 ぼくをサンドバッグにした姉ちゃんは、ちょっとだけ乙女な感じに見えた。怯えた様子で、父さんの背中に隠れている。父さんは父さんで、家族を守るんだ、感を匂わせている。

 ぼくは「家族が転居してからはじめてここにきたので、間違えたみたいです」とはぐらかし、なんども頭を下げて赦しをもらい、説教を受け、その場を離れた。

 家がないならどこへ行けばいいのかと悩み歩く。と、公園のベンチに、フォークを持ってスタンバイしている、さっきのイチゴ髪の女を見つけた。

 声をかけるより先に、女が言った。

「ほら。そのタルトをよこしなさいよ」

 いうてこのタルトは、ぼくのお金で買っている。やけ食いしたい気分だったし、「ぼくも一緒に食べていいなら」と言った。

 女は「仕方がないなぁ」とため息をつく。

 ため息をつきたいのは、ぼくのほうだ。

 ほんのりとあたたかいタルトを、ふたりで食べた。

 食べながら女はミントと名乗った。そして、こっちの世界に連れ込んだ、という言葉の意味を説明した。

 それは、いわゆるパラレルワールドの話だった。



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