第13話 親友

 こんなに朝寝坊をしたのは何年ぶりのことだろうか。いつもは、時間に几帳面な啓一に合わせて目覚まし時計にたたき起こされ、慌ただしく朝食の準備に追われている頃だ。その啓一も今はもういない。昨日の午後、制服を着た警官に連れられて玄関を出ていった啓一の姿が脳裏をよぎる。最後まで恵美子とは目を合わせずに俯きながら去っていく痩せた背中。もう二度と会うことはないだろう。恵美子は誰もいない寝室で大きく伸びをした。

 寝巻の上にセーターを羽織ると、台所で薬缶を火にかけた。お湯が沸く間、ポーチからタバコを一本取り出す。啓一が嫌がるので普段は滅多に吸わないタバコ。火をつけ深くニコチンを肺に吸い込みながら美穂のことを考えた。私の幼い時からの親友。でも、親友って一体何だろう。


 中学、高校といつも一緒だった。美穂と二人、美形女子としてクラスの男子からちやほやされていた頃が懐かしい。ただ、勉強は美穂に全くかなわなかった。いつも美穂に対して入り組んだ感情を抱えていたことを思い出す。憧憬、親愛、羨望、そして嫉妬。

 美穂が村を飛び出して東京へ向かったと聞いたとき、大都会で一人心細く生きていくその身を案じるとともに、自分にはとてもできないことを断行したその勇気と行動力が眩しかった。その後ぽつりぽつりと美穂から届く近況報告の手紙で、なかなか希望する職に就けずに爪に火を点す生活を強いられていることを知り、気の毒に思うとともにどこかに安心している自分がいた。ずっとそのまま思い通りにいかないでもがき続けていて欲しい、と願う心の奥の声に気づかないふりをした。村に残った自分の方が幸せなのだと自分に念を押したかった。やがて美穂から、念願の出版社のライターの仕事に就いたとの手紙を受け取る。著名人や芸能人とも接点がある華やかなキャリア。生き生きと充実した都会生活が伝わってくる文面に、美穂を祝福するとともに何故か得体の知れない焦燥感に苛まされた。そして大輔という才能ある男との新生活の報告。美穂の踊るような文面を読みながら、煮えたぎったコールタールのような羨望が全身の血管を巡った。自分には何も無い気がした。山陰の田舎で何のとりえもない平凡な主婦として、このまま単調な日々をただ過ごしていく間にどんどん歳をとっていく。かつては男たちの視線を浴びていたのに、誰からも注目されなくなってから久しい。最近では啓一との会話もほとんどなく、陰に女の気配さえ感じる。誰も自分を見てくれない。日常の全てが急速に色褪せていった。


 十三年ぶりに村に姿を現した美穂と再会した時、その都会的に垢抜けた風貌に圧倒された。雑誌モデルのような金髪、高校時代と変わらないスリムな体形、そして刺激的な毎日によって更に光を増した瞳。美穂の目には、ぶよぶよと田舎のおばさん化してしまった自分の姿はどう映っているのだろうか。自分に向けられた美穂の視線の中に勝ち誇ったような優越感の片鱗を探してしまうのは、単なる自分の卑屈な思い込みからだろうか。それでも美穂の昔と変わらない態度や話しぶりに接するうちに、美穂に対する親愛の気持ちが蘇ってくる。父親を亡くし、その死に目にもあえなかった可哀そうな美穂。心から同情し、葬式の最中はずっと寄り添ってあげた。お互いにどんな悩み事や秘密でも、何でも話し合えた高校時代の絆が戻ってくる気がした。

 そうだ、啓一のことを美穂に相談してみよう。美穂なら何か良い解決策を教えてくれるかもしれない。そんな気持ちから葬式が終わった後、啓一の浮気のことを相談した。美穂はICレコーダーを啓一の服に忍ばせることを提案してきた。それで何かが解決するのかどうかよく分からなかったが、美穂の言うとおりにすることにした。だって昔から美穂は勉強ができたのだから、きっとそうすることが正解なのだろう。

 あの日二人で峠に上り、美穂は私の前でICレコーダーを再生した。私に対しては決して発しないような、啓一の艶っぽい声がレコーダーから流れてくる。相手はやはり巳八子だった。僕はこれからもずっと、巳八子のことだけを考えて生きていくつもりだ。僕には妻がいるが、お前もよく分かっている通り僕の心は常にお前と一緒だ。頭からすっと血がひいていく。惨めだった。聞いていて涙が溢れた。美穂、私を助けてよ。昔から困ったことがあると、たいてい美穂が解決策を考えてくれたものだ。頭の良い美穂のことだ、今回も何か解決策を教えてくれるのではないか。レコーダーから視線を上げて、すがるような気持ちで美穂を見上げた。美穂の労わるような優しい言葉が欲しかった。でも美穂は私の視線には気づかず、興奮気味にレコーダーを食い入るように見つめていた。やがて高ぶった声で、秀全のことや秘密の坑道のことなどをまくし立て始めた。違うよ美穂、私が欲しいのは解決策だよ。美穂はそんな私の気持ちに気づかず、早口で何やらしゃべり続けた。もう何も耳に入ってこなかった。


 いつの間にか薬缶がピーッと蒸気音を鳴らしていた。タバコを灰皿に置き、インスタントコーヒーの粉を入れたマグカップに薬缶の湯を注いだ。ドリップ式コーヒーしか飲まなかった啓一が、インスタントコーヒーを飲む私に対していつも冷めた視線を向けていたことを思い出す。


 突然、妊娠という言葉が耳に飛び込んできた。思わず美穂を見上げる。舘畑という才能のある男との間に子供を授かったらしい。恥じらいながらも溢れるような幸福感に満ちた美穂の瞳が眼前にあった。それは女の私から見ても口惜しいほど愛らしい瞳だった。啓一は私に指一本触れようとしないのに。

 美穂、あなたは全てを手に入れ、私には何もない。そんなの許せない。頭の中で何かが弾けた。同時にどす黒いヘドロのような感情が胃の中に広がる。自分でも驚くほど嫌な臭いを発する感情。それは激しい憎悪だった。美穂も啓一も破滅すればいい。


 タバコの火がフィルターを焦がしていることに気づき、流しに投げ捨てた。もう一本タバコを取り出し、火をつける。誰に気兼ねする必要もなかった。


「明日の午後、秘密の坑道を通って神島の二本松を調べに行ってみるつもり」

 そう美穂が言ったことを聞き逃さなかった。家に帰り、押入れからワープロを引っ張り出してキーボードに向かった。


 葦原啓一殿、父は重病を患っていたのに誰からも看病されず、一人寂しく亡くなりました。私が村の掟を破って村を出たことで我が家に黒い手紙が届いていたからです。でも、その村の掟を司っている尾呂血神社の宮司が自ら村の掟を破っていることが分かったら、村人たちはどう思うでしょうか。あなたが輝龍巳八子と深い関係にあることを知っています。それだけではありません。村の功労者である秀全を殺害したこと、そしてその遺体を二本松のもとに埋めたことも知っています。口外されたくなければ、明日の午後、二本松に来て下さい。山根美穂


 自分でも驚くほど、すらすらと文面が頭に浮かんできた。プリントアウトして封筒に入れ、啓一の名前を表に書いて郵便受けに入れた。時計を見るとまだ午後四時だった。几帳面な啓一がいつも夕方五時に郵便受けを見にいくことは知っていた。

 その晩、私が床に就いても啓一は離れに籠ったまま、遅くまで出てこなかった。翌朝、啓一は言葉少なげに朝食を済ますと、いそいそと出ていった。そして日暮れ前に死人のような蒼い顔をして戻ってきた。美穂が神島から湖に身を投げたと聞いたのは翌日のことだった。すぐに啓一の仕業だと分かった。可哀そうな美穂、私の親友。せっかく都会で憧れの職業に就き、愛する男を手に入れ、子供まで授かったというのに。啓一は罰せられるべきだ。私の親友に酷いことをしたのだから。そして私を裏切ったのだから。ICレコーダーの存在が公になれば、啓一は逃げられないだろう。その為にはICレコーダーを探し出さなくては。樵荘に残された美穂の荷物を山根家の実家に運ぶ手伝いを買って出た。隙を見て美穂のハンドバッグとスーツケースの中をくまなく探したが見つからなかった。

 しばらくして美穂の男が現れた。ちょっと渋みのあるいい男だった。話していると美穂のことを真剣に愛している様子が痛い程伝わってきた。可哀そうに。何故か意地悪な気持ちが湧き上がってきて、美穂が妊娠していたことを告げてやった。案の定、相当ショックを受けていたみたい。いい男は茫然とした表情も様になるものだ。そうだ、この男なら啓一の所業を暴いてくれるかもしれない。後日、その男を呼び出した。啓一の浮気の相談を美穂にしたこと、ICレコーダーを仕掛けたことを男に話した。ただ、私は録音されたその内容を聞いていないことにした。だって、もし啓一宛ての手紙がどこかから出てきた時、私が偽装したと疑われるのが嫌だったから。

 なかなかICレコーダーが見つからなくて、やきもきした。だって、このままだと美穂は自殺したことになり、啓一と巳八子は今まで通り関係を続けてしまう。それでは私の人生は何も変わらない。

 静香の手元にICレコーダーがあったとは驚きだった。でも、お陰で事はとんとん拍子に進んでくれた。啓一は全てを自白して連行されていった。もう帰ってこないだろう。酷いことをしたのだから罰せられて当然だ。おまけに巳八子までいなくなってくれた。いい気味だ。清々する。そして誰も私のことは疑っていない。だって私は何も悪いことはしていないのだから。美穂が生きていたことは驚きだった。でもよかった、これからも親友でいられるから。


 マグカップを置いて鏡台の前に立った。濃いめの口紅をひき、鏡の中の自分に向かって笑顔を作ってみる。

 これから私は人生をやり直すつもり。だって私はまだ若いのだから。秀栄が私に色目を使っているのは前から知っていた。あんな男、今までは眼中になかったけれど、秀胤が輝龍家の当主になったということは、その次は一人息子の秀栄。輝龍家に嫁いで神島に住むのも悪くないかも。巳八子を崇めていたように、これからは村の皆が私に注目してくれるかもしれない。だって、私の人生はまだこれからだもの。

 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

尾呂血 @yagaiatsushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画