第7話 尾呂血神社

 卑埜忌村に入って五日目の朝を迎えた。今日も幾重もの重苦しい雲が空を覆い、幕が下りたように乳白色の霧が神島を覆っている。朝食後、早速正一と連れ立って稗田医院へ向かうことにした。身を切るような風が吹きつける湖畔の道を並んで歩く。早速、何匹かの野良犬がしっぽを振りながら寄ってくると、隣を歩く正一の体が硬直するのが分かった。可哀そうに、顔色は蒼白だ。近くに落ちていた木片を拾い反対方向に思いきり投げると、犬たちは競ってそれを追いかけ去っていった。

 道中、大輔は稗田を先日訪問したことを簡単に話した。しかし正一は聞いているのかどうか分からない様子で、ただ何度も振り返りながら犬たちが再び寄ってこないかを気にしていた。そして、時たますれ違う村人たちから刺さるような視線を受けるたびに、小柄な正一は大輔の陰に隠れるようにして目を伏せた。

 やがて見覚えのある白い木造建築が視界に入ってくる。

 呼び鈴を鳴らすと程なくして先日の若い看護婦が現れ、二人を見ると驚いたように奥へと走り去っていった。やがて白衣を着た稗田が現れ苦々しげな視線を二人に向けた。まずは大輔を睨みつけ、それから正一に視線を移した。正一は大輔の後ろに隠れるように小さくなっている。

 稗田は、今回は渋々と二人を室内に招き入れてくれた。前回来た時には気づかなかったが、稗田は足が悪いらしく杖を片手によたよたと片足を引きずっている。稗田に続き誰もいない待合室を抜けて奥の診察室に入る。ツンとした消毒液の匂いが漂う中、重厚な黒革の診察椅子、白いシーツに覆われた診察台、様々な形のガラスの容器、内臓各部が露出した等身大の人体模型が目に入る。色鮮やかなステンドグラスからは柔らかい光が木の床に注がれている。大輔は幼少の頃お世話になった郷里の診療所を懐かしく思い出した。

 稗田は二人に丸椅子に座るように勧めると、自分は黒革の診察椅子に深く腰を下ろした。再びギロリと二人を睨めつける。隣の正一はずっと下を向いたままだ。やがて稗田が忌々しそうに口を開いた。

「皇宮警察本部から連絡があった。神島に渡りたいそうじゃな」

「は、は、はい」

 正一が下を向いたまま、消え入りそうな声を発した。

「あんたが皇宮警察から派遣されてきた天法さんか?」

 正一は細かく何度も頷くと、震える手で自分の名刺を稗田に手渡した。欠けた耳がさっと赤く染まる。稗田は半ば呆れたような顔で、受け取った名刺と正一の顔を交互に見やった。

「中央からどんな猛者が来るのかと思ったら、随分と頼りなさそうな輩が来たものじゃ」

 稗田は鼻で笑いながらそう言うと、ごみでも捨てるかのように名刺を机の上に放り投げた。

「巳八子様はお会いになるそうじゃ。渡しの重男には既に申しつけてあるので桟橋から渡し舟に乗るように。他に話がなければこれで」

 稗田が立ち上がろうとすると、突然、正一が顔を上げた。先ほどまでのおどおどとした表情はいつの間にか消えており、代わりに毅然とした瞳が稗田をまっすぐに捉えている。

「待ってください稗田さん、この写真を見ていただけますか」

 正一はよく通る低い声でそう言うと、鞄から一片のクリアファイルを取り出した。中には昨日大輔が目にしたセピア色の写真が挟まれている。稗田は突然様子が変わった正一に一瞬、驚いたようだったが、言われるままにクリアファイルを受け取った。そしてしばらくまじまじとその古い写真に目を落とした。やがてゆっくりと視線を正一に戻すと、吐き捨てるように呟いた。

「若かりし頃の輝龍秀全」

「その通りです。秀全さんは十七年前に忽然と行方不明になったということですが、何かご存知のことはありませんか」

 クリアファイルを持つ稗田の手がかすかに震えた。

「いや、何も」

 クリアファイルを正一に返しながら、稗田が小さな声で呟く。

「あいつはろくな男じゃなかった」

 意外だった。卑埜忌村に来て以来、秀全を称える声ばかりを聞いていたが、初めて否定的な声を聞いた。それも氏子総代から。

「秀全さんはどのような人物だったのでしょうか」

 正一の質問に稗田は黙ったまま、不愉快そうに首を振った。

「あの男のことは思い出したくもない」

 稗田はそう言うと黙ってしまった。沈黙が流れる。柱時計の振り子の揺れる音だけが規則正しく室内に響いている。

「それではもう一つ質問します。天狗岩で山根美穂さんの靴とハンドバッグを見つけたのは稗田さんで間違いないですね」

 大輔は驚いて正一を見やった。美穂の死に関しては今回の正一の任務とは関係がないはずだが。稗田が強張った顔で正一を睨む。

「ああ、わしが見つけた」

「その日はどのような用件で神島に?」

 膝の上で握りしめている稗田の拳がかすかに震え出す。

「巳八子様との打ち合わせじゃ。わしは氏子総代だからのう、色々と巳八子様と相談することがあるのじゃ」

「天狗岩にはどうして行かれたのですか?」

 稗田の顔がみるみる赤くなる。

「あんた、わしを疑っておるのか。巳八子様との打ち合わせの帰りに、たまたま通りがかっただけじゃ」

 稗田が目を剥いて正一を睨みつけた。しかし正一は全く動じる様子を見せない。

「ところで稗田さん、近々手術を執刀するご予定でも?」

 一体正一は何を言い出すのだろうか。途端に稗田の肩がわなわなと震え出した。

「お前の知ったことではない」

 稗田の鷲鼻が怒りで赤く染まる。

「分かりました。いずれまた詳しくお伺いさせていただきますが、今日のところはこれで結構です」

 正一は涼しげにそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。大輔も慌てて立ち上がる。正一の後に続いて診察室を出ようとした時、ふと壁に掛けられている古い賞状に目が留まった。そこには見覚えのある名前が記されていた。


 第三十五回鳥取県木工工作コンクール中学校の部

 県知事賞 葦原啓一殿


 何故、啓一の賞状が稗田の診察室に飾られているのだろう。振り返ると、稗田はその骨ばった長身を診察椅子に投げ出していた。

「稗田さん、何故、葦原啓一さんの賞状がここにあるのですか」

 稗田は白髪の間から疲れたような瞳を大輔に向けると、抑揚のない声で呟いた。

「啓一はわしの甥っ子じゃ。わしの妹、千代の子じゃ。啓一が三歳の時に千代が亡くなり、わしが引き取ってここで育てたのじゃ」

 そうか、恵美子の夫の啓一は稗田の甥だったのか。啓一の整った顔が頭に浮かぶ。そう言えば顎のあたりの輪郭が稗田に似ているような気もする。

 稗田は鉛のような倦怠感を顔に漂わせ、診察椅子に体を投げ出したまま二人が出ていく姿をぼんやりと見ていた。


 稗田医院を出ると、二人は桟橋へ向かうことにした。早速、先程の件で正一に質問をする。

「正一君、美穂の死に関して何か不審な点でも?」

 正一はしばらく考えているように黙っていたが、やがてゆっくりと大輔を振り返った。

「いや、まだ何も。いずれもう少し何か分かる時が来るでしょう」

 正一はそう言うと、しばらく稗田医院の方角を見つめていたが、不意に大輔を振り返った。

「大輔さん、確か美穂さんの遺品は神島に残っていたにもかかわらず、渡しの男は美穂さんを乗せていないと言っているのでしたね」

「そうなんだよ。一体どうやって神島に渡ったのだろう。目撃者がいるので美穂が神島に渡っていたことは確かなようなんだけど」

「簡単なことです。舟を使っていないのなら、他に島に渡る手段があるというだけのことです」

 正一はさも何でもないことだといった様子で大輔を見上げた。

「えっ、他の手段とは?」

 正一は何を言い出すのか。

「大輔さん、この辺りの地層には石灰岩が多く含まれていることをご存知ですか。石灰地層は長年の降雨や地下水の浸透によって少しずつ浸食され、地中に空洞が広がっていくという特性があります。俗に言う鍾乳洞ですね。湖の下を通って神島に通じる鍾乳洞が形成されているとしても不思議ではありません。恐らく卑埜忌村のどこかにその入り口があるのでしょう」

 正一は神島にその視線を向けた。

「僕がより興味があるのは、何故美穂さんは神島に渡ったのかということです」

 正一はそう言うと桟橋に向かって歩き出した。大輔も慌てて後に続く。ふと、先程正一が稗田に投げかけた言葉がひっかかった。

「正一君、さっき、手術がどうのと言っていたけど、何のこと?」

 並んで歩く正一が前を向いたまま答える。

「ああ、あれですか。実はこちらに来る前に稗田医院の周辺を少し調べてみたのですが、稗田は十一月十一日に全身麻酔用の薬剤を米子の薬剤問屋に発注しています。稗田は米子医科大学の出で、専門はたしか精神科のはずです。どうして外科手術用の全身麻酔薬剤が必要なのか、ちょっと気になったもので」

 確かに稗田医院はどう見てもかかりつけ医のような町医者だ。専門の精神科以外の診療は風邪などの簡単なものに限られるのだろう。全身麻酔薬が必要とは思えない。

 湖から吹きつける寒風を顔に受けながら歩くこと数分、やがて古い造り酒屋の日本家屋が見えてくる。藍染めの前掛けをした若い店員が軒先から警戒するようにこちらを睨んでいる。正一は途端に顔を曇らせると、男の視線を避けるように大輔の体の陰に身を隠した。先程までの自信に溢れた正一とはまったく別人のようだ。大輔は目まぐるしく豹変する正一の態度に驚くとともに、正一が集中して自分の任務に取り組めるよう、その他のことからはできるだけ正一を守ってやりたいと思った。


 舟着き場に着くと、桟橋の上に重男の大きな後ろ姿があった。今日も仁王立ちをして神島の方角を凝視している。湖を渡る風が重男のぼさぼさの髪を激しく揺らしている。大輔たちが桟橋の上に降り立つと重男はおもむろに振り返った。感情を喪失したかのような瞳で二人を一瞥すると渡し舟に向かって顎をしゃくった。乗れということなのだろう。

 二人が舟に乗り移ると重男はもやい綱をほどき、器用に船尾の櫂を操りながら湖に漕ぎ出した。舟はかすかに左右に揺れながら滑るように湖面を進んでいく。

 舟の上から湖面を見下ろすと、はるか深いところまで覗き見ることができるほど水は澄んでいた。水深はかなりあるようで、ある一定の深さから先は暗く闇に沈んでおり湖底の様子までは伺えない。恐らくあの暗闇の先には、千何百年にもわたり湖に葬送された村人たちの屍が折り重なっているのだろう。湖底を覗き込んでいた大輔はそのまま永遠の闇に吸い込まれてしまうような錯覚に陥り、慌てて視線を前方に戻した。

 やがて舟は深い乳白色の霧の中へと飲み込まれていく。周囲が真っ白になり何も見えない中、ぎしっ、ぎしっと規則正しい櫂の音だけが響き渡る。隣に座る正一は先程から身を振り返らせて、舟尾の重男をじっと見つめたままだ。ふとその横顔を見ると、瞳に涙が浮かんでいることに気づいた。感受性の強い正一には、重男の中に封印されている底知れぬ深い悲しみが分かるのだろう。

 やがて乳白色の霧の中から、何とも言えない幽玄な香りが漂ってきた。遠い昔に心をさらっていくような不思議な香り。舟が進むごとにその香りは確かなものになっていく。そしてその香りに合わせるかのように笛の音が流れてきた。むせび泣くような繊細な音色が湖を包み込む。その音は鼓膜ではなく全身の毛穴から体の中に染み入ってくるようだった。このままどこか遠い時空に誘われてしまうような危うい音色だ。真っ白な世界の中、まるで夢の中を彷徨っているかのような錯覚に襲われる。雲のようにふわふわとした霧の中を漂っているうちに全身の重力が消えていく。

 突然、前方にぼんやりとした光が見えてくる。最初はあたりを覆う乳白色の帳の中にかすかに滲むだけだったその橙色の光は、やがてその姿をはっきりと現してくる。それは神島の舟着き場に掲げられた松明だった。程なくして桟橋の全容が現れる。そしてそこから奥の森に向かって続く参道がぼんやりと浮かび上がってくる。参道の両脇には無数の朱塗りの灯籠が続いている。火袋の中では和蝋燭の炎が揺れており、霧の立ち込めた参道を妖美に照らしている。笛の音はその参道の奥から誘うように流れてくるのだった。

 重男は慣れた様子で舟を接岸させると軽やかに桟橋に飛び移り、素早くもやい綱を結んだ。そして桟橋から無言で二人を見上げると、再び顎をしゃくった。降りろということなのだろう。

 舟を降り立った大輔と正一は一瞬顔を見合わせると、黙ったまま参道に足を踏み入れた。長年の風雨で摩耗した石畳が暗い森の奥へと続いている。周囲の灯籠の灯りが、石畳の上に繁茂した色鮮やかな深緑色の苔を照らしている。水分を含んだ苔で足を取られないように注意しながら歩いた。参道の周囲には楠やブナなどの見事な巨木が鬱蒼とした森を形成している。

 やがて、それらの巨木の根元付近に無数の石板のような物が林立していることに気づいた。腰くらいの高さまである墓標のような物体だ。それぞれの石板の表面には文字が彫られている。どれもかなり古く、表面は風雨に浸食されひどく摩耗し苔で覆われている。膨大な数の石板は参道を取り囲むように左右の森の奥にまで延々と広がっていた。恐らくこれが御霊碑なのだろう。亡くなった卑埜忌村の住人の肉体が湖に沈められた後、再び卑埜忌村に生を受けるまでの間、その魂が安らぐ場所。まるで蛇が脱皮するように同じ場所で延々と生まれかわり続ける魂の連鎖。御霊碑は千何百年に渡る輪廻転生の礎石なのだろう。

 切々とした笛の音が森の中を高く低く駆け巡る。湿った石板のカビ臭い匂い、苔と土の混じった大地の香り、巨木が発散する樹液の薫り、そして香木の幽香がまとわりつくように二人を包み込む。

 ふと森の奥に目をやった時だった。無数に林立する御霊碑の間を動く何ものかが目に入った。動物だろうか。石板の高さとさほど変わらぬ大きさの白いものがせわしなく動いている。大輔はその方向に目を凝らし、思わずぎょっとした。何とそれは人間だった。背丈は一メートルほどだろうか。髭を生やした者、頭髪が薄くなった者など、どう見ても子供には見えない。体に比して不釣り合いに大きな顔。小人だ。それも一人ではない。御霊碑の間に見え隠れする白い影を数えると、全部で七人いる。全身白装束を纏い、頭には白頭巾をかぶり、白足袋に草履という出で立ち。ある者は手に白い布巾を持ち御霊碑を一心不乱に磨いている。別の者はスコップとツルハシを使って倒れかけた御霊碑を直している。大輔たちには気づいていないようだ。隣の正一の視線も小人たちに釘付けになっている。

「正一君、あれは」

「恐らく成長ホルモン分泌不全による障害ではないでしょうか。一昔前までは小人症と呼ばれていたものです」

「彼らは一体何者だろう」

「分かりません。ただ、この参道を進めば色々なことが明らかになるはずです」

 正一はそう言うと、再び参道を歩き出した。笛の音に誘われるように、二人は再び霧の奥へと足を進めた。

 やがて前方に摩耗した石段が現れ、その向こうに苔むした鳥居が見えてきた。通常の鳥居ではない。二本の太いクヌギの縦柱は皮が剥かれることなく表面には古い樹皮がそのまま残されていた。樹皮の表面は灰汁色にくすみ、その全面を苔が覆っている。最も原始的な鳥居様式の一つ、黒木鳥居だ。石段を登りながら思わず鳥居を見上げた。実際に黒木鳥居の実物を目にするのは初めてのことだった。悠久の時を経た原初信仰の名残り。この太古の鳥居は古より変わらぬ姿で本宮を守り続けてきたのだろう。

 鳥居をくぐるとにわかに空気が張り詰め、ついに見事な社殿が正面に姿を現した。周囲の灯篭と建物内部の雪洞の灯りによって内外から煌々と照らしだされた社が、乳白色の霧の中に幻想的に浮かび上がっている。それが尾呂血神社の拝殿だった。柔らかな曲線を描く切妻造りの茅葺屋根には幾本もの鰹木が置かれ、建物正面のしめ縄からは三枚の紙垂が下がっている。正面に張り出した向拝には木彫りの龍が今にも天に飛翔していくかのように激しく躍動している。よく見ると、龍の二つの目には色鮮やかな緑碧石がはめ込まれており、境内の灯篭の灯りを妖しく反射させている。そして開け放たれた拝殿の奥に座る一人の女の姿。浅葱の袴に緋色の広袖表着を羽織り、瞳を閉じて一心に竹の横笛を奏でている。傍らに置かれた雪洞の灯りが女の漆黒の長い髪と白い頬を艶やかに照らしている。笛の音色は霧に覆われた境内を縦横無尽に飛翔していた。

 大輔と正一はその女の姿に目を奪われたまま、しばらく拝殿正面に佇んで笛の音色に身を預けた。その音色は全身の血管の中に直接浸透し、心臓を激しく揺さぶった。そして濃密に漂う香木の香り。長い時間が経ったのか、それとも一瞬だったのか、やがて笛の音が静かに鳴り止んだ。突如、猛烈な静寂が襲ってくる。女はゆっくりと瞳を開き、その切れ長の瞳を二人に向けた。こちらの胸の内までをも見通すかのような透徹した眼差し。思わず正一が大輔の後ろに隠れるように後ずさりをする。

「龍笛の音色はお好きですか」

 高くもなく低くもない、よく通る声が境内に響いた。

「この横笛は龍笛と言います。低音から高音までを自在に奏でることができ、天と地の間を自由に飛翔する龍の鳴き声を表しています。さあ、どうぞ拝殿にお上がりください」

 そう促され二人は靴を脱いで拝殿に上がり、女と相対して畳に腰を下ろした。部屋には幾多の雪洞が灯され、柔らかい桃色の光が周囲を妖しく照らしている。女の背後には鶯色の縁取りが鮮やかな御簾が下がり、その奥の様子は伺えない。その向こうには本殿に通じる扉があるのだろう。香木の香りはその奥から流れてくるようだ。

「申し遅れました。尾呂血神社第八十四代宮司、輝龍巳八子です」

 女は拝殿に響きわたる声でそう言うと、大輔と正一を交互に見やった。新雪を思わせるような白い肌の中央で、その黒い瞳は際立った存在感を放っていた。見つめられるとそのまま吸い込まれてしまいそうな、深い湖の底のような瞳だ。沈黙が流れた。隣の正一は自らを落ち着かせるように深呼吸を繰り返しており、なかなか口を開く気配がない。仕方なく、大輔が先に口を開いた。

「舘畑大輔です」

 軽く頭を下げながらそう言い、隣を見る。正一はかすかに震える手で名刺を取り出すと、巳八子の前の畳に置きながら小さな声で呟いた。欠けた耳が真っ赤に染まっている。

「て、て、天法正一です」

 巳八子は膝の前に置かれた名刺を一瞥すると、再び視線を二人に向けた。

「氏子総代の稗田から話は聞いています。何なりとお尋ねください」

 湧き水のように淀みのない声が拝殿に響く。再び沈黙が流れる。猫背のまま俯いていた正一は徐々に呼吸を取り戻してきている様子だ。次第に体の震えが止まり、膝の上で固く握りしめていた拳の力がふっと抜けるのが分かった。やがてゆっくりと背筋を伸ばし、強い光を宿した瞳を巳八子に向けた。

「輝龍さん、今日は我々を迎え入れてくれてありがとうございます。お目にかかれて光栄です」

 先程までとは別人のような正一がそこにいた。口元にかすかな笑みを浮かべた巳八子は、微動だにせずに正一を見つめている。

「早速ですが、実はこの人物に関してお聞きしたいのですが」

 正一はそう言うと懐からクリアファイルを取り出し、巳八子の前に置いた。巳八子はしばらく品定するように正一を見つめていたが、やがて視線をクリアファイルに落とし、大切なものでも扱うかのようにそっと両手を伸ばした。そして胸元にファイルを掲げ、中に挟まれたセピア色の写真をしばらく見つめていた。その姿を大輔は注意深く観察してみたが、巳八子の整った表情は全く変わることはなかった。やがて巳八子の瞳だけがぎろりと動き、正一を見やった。

「私の父です。正確に申し上げると、血はつながっておりませんが」

 正一が満足そうに頷く。

「そうでしたね、あなたは神の子として、ここ神島に産み落とされたのでしたね」

 巳八子は表情を変えず、ただ黙って正面から正一を見つめている。相変わらずその顔からは感情を読み取ることができない。正一はお構いなしに話を続けた。

「秀全さんが終戦の頃、陸軍の東海軍管区司令部に所属していたことはご存知でしょうか」

 巳八子がゆっくりと首を横に振った。

「父はほとんど自分のことは語らなかったもので」

 巳八子はそう言うと、秀全の写真に再び視線を落とした。

「戦後、秀全さんが卑埜忌村に戻ってきたとき、何か重要なものを持参していたというような話をお聞きになったことはありませんか」

 巳八子がサッと視線を正一に向ける。先ほどまで穏やかだった瞳に一瞬、強い光が宿る。

「さあ、存じません。何分、私が生まれる何十年も前の話ですので」

 落ち着き払った巳八子の声が拝殿に響く。正一は相手の表情を読み取ろうとするかのように、しばらく巳八子を見つめたまま黙っていた。拝殿を取り囲む鬱蒼とした樹々の間を風が通り抜け、ざわざわと葉がこすれ合う音が境内に流れる。

「秀全さんは神隠しに遭ったと聞きましたが、その時の状況を教えていただけませんでしょうか」

 巳八子はふっと小さく息を一つ吐くと、再び写真の中の秀全に視線を落とす。整ったまつ毛が雪洞の灯りを受けて際立った。

「あれは私が二十歳の時でした。ある朝、いつまでたっても父は起きてきませんでした。父は大抵朝は早く、寝坊することなど一切ない人でしたので、心配になって寝室を覗きに行きました。襖を開けると父の寝具は敷かれたままの状態で、本人の姿はどこにもありません。それっきり、父は姿を現しませんでした」

「その時、秀全さんはお幾つだったのでしょうか」

「七十九だったと思います。父は年齢の割に元気で、とてもその歳には見えませんでしたが」

 再び沈黙が流れた。巳八子は写真の中の秀全を見つめたままだ。

「ところで尾呂血神社の創建はかなり古いようですが、御祭神は?」

 再び巳八子が視線を上げ、正一を見つめる。

「尾呂血神社は三世紀の創建以来、八津神様をお祀りしています」

「八津神様とは?尾呂血湖という名前から八岐大蛇との関連を想像しますが」

 すかさず正一が尋ねた。巳八子がかすかに口元を歪める。口紅を塗っているのかいないのか、その唇は瑞々しい緋色に輝いている。

「八津神様とは古より我々を護ってくださるありがたい存在です。八岐大蛇は後世に作られた、ただの伝説上の怪物に過ぎません」

 巳八子は射抜くような瞳で正一を見やると、再び笑みを浮かべた。

「そちらの御簾の奥はご本殿でしょうか。八津神様のご神体を拝ませていただくことはできませんでしょうか」

 巳八子の表情が一瞬固まったように見えたが、口元には先ほどからの笑みが張りついたままだ。

「申し訳ありませんが、古より本殿には輝龍家の当主しか入ることが許されておりません。どうかご遠慮ください」

 巳八子はそう言うと、笑みを残したまま再び強い視線を正一に浴びせた。風の流れる気配に続いて再び樹々のざわめきが境内に響く。

「卑埜忌村には色々と変わった風習があるようですね。例えば住人は村の外へ移り住むことが禁じられているとか」

 正一が幾分挑発するような視線を巳八子に向けた。

「変わった風習と言われましたが、生を受けた村の中で一生を過ごすというのは、古代からずっと日本各地で当たり前に続けられてきたごく自然な生活様式です。ほんの百年ほど前までは村境を越えて引っ越す人などほとんどいなかったはずです。それのどこが変わっているのでしょうか。皆が自分を生み育んでくれた共同体に感謝し、大人になった後は自分がその共同体を支える主体となって次の世代につないでいこうと考えることは、当然のことではないでしょうか」

「しかし、村を出た人間は家族もろとも村八分となるわけですか」

 正一がまっすぐに巳八子を見据えながら言い放った。いつの間にか巳八子の口元からは笑みが消えている。

「村八分は決して褒められた風習ではありませんが、共同体を守るための抑止力として必要悪なのではないかと考えています。誰もが自分勝手にふるまうようになると、タガが外れたように共同体は崩れてしまいます。近年、そういった自覚が失われたことによって、日本各地の市町村が過疎に悩まされ限界集落として消滅の危機に瀕していることは、天法さんもよくご存知でしょう」

 淀みなく発せられた巳八子の言葉を聞きながら、大輔は遠い故郷の町の近況を思い浮かべた。確かに巳八子の言う通り、大輔の育ったあたりも駅前はシャッター通りと化し、今では若者の姿を見かけることはほとんどない。皆、故郷を捨てて都会に出てしまったのだ。大輔自身も生まれ育った共同体に対する責務を投げ出してしまった一人なのだろう。郷里で一人暮らしをしている母の姿が思い出され、チクリと心が痛む。

「婚姻に関しても、いささか変わった風習があるようですね」

 巳八子から目を逸らさず、再び正一が挑発するように言い放った。

「それに関してもそう言われるのは心外です。卑埜忌村では八津神様のご加護のもと、最適な縁組を私と氏子総代とで決定しています。これも日本各地で古代からつい最近まで行われてきた縁組みや仲人制度と何が違うと言うのでしょうか。人は往々にして最適な伴侶を見極めるだけの思慮分別を持たずに結婚適齢期を迎えてしまいます。そして誤った判断をしてしまうものです。天法さん、日本では三組に一組の夫婦が離婚しているという事実をご存知ですか。ここ卑埜忌村では離婚する夫婦は皆無です。どちらが健全なのでしょうか」

「しかし、本人たちの自由意思はどうなるのですか」

 正一が高い声で言い返した。

「近年、巷では個人の自由とか権利という言葉が声高に叫ばれていますが、今の日本社会がここまで堕落してしまったのは個人の身勝手な自由を認めすぎてしまったからではないでしょうか。人は決して一人で生きているわけではありません。他者や共同体に対する責任も負っているはずです。皆が勝手気ままにふるまってしまうと、社会秩序は簡単に崩れてしまいます。自由に結婚して、無責任に離婚する。その結果、片親になってしまう子供たちは心に深い傷を負うことになります。たとえ離婚したとしても、夫婦は自分の子供の養育成長にずっと責任を持つべきなのです。ところが今の民法では、離婚した後の親権は夫婦のどちらか一方にのみしか生じません。もう一方の親は平気で養育を放棄することができてしまうのです。昨今のシングルマザーの貧困問題をご存知でしょうか。親の身勝手の犠牲になるのはいつも子供たちです。自由であることが全て正しいと考えるのは、いささか無理があるのではないでしょうか」

 巳八子は毅然とした姿勢を保ったまま、そう言い放った。

「それにこの制度は村人に公平をもたらします。全てを自由に任せてしまったら、結局は生まれ持った容姿や財力に恵まれた者だけに婚姻機会が訪れ、それ以外の者は蚊帳の外になってしまいます。今、希望しても結婚できない者たちが日本中で増えていることはご存知でしょう。この国の生涯未婚率は既に二割を超えています。何かがおかしいと思いませんか。裕福な家に生を受けたり容姿に恵まれるのは本人の努力とは全く関係なくただの偶然です。その偶然で得をしたり損をしたりすることは不公平だと思いませんか」

 大輔は思わず心の中で唸った。巳八子の言うことは大輔が常々抱いている問題意識ともつながっており、頭から否定することはとてもできなかった。

「村人の情報摂取に関しても自由を否定されているようですね」

 正一は巳八子を試すかのように矢継ぎ早に質問を投げかけていく。

「開明館のことですか」

 動じない巳八子のまっすぐな声に、正一がコクリと頷いた。

「デジタルデバイドをご存知ですか。情報技術は既に多くの人々がついていけないほどのスピードで進化しています。放っておけば、老人やITリテラシーのない者たちはどんどん取り残されてしまうでしょう。そんな彼らでもインターネットの恩恵を受けられるようにするのが開明館なのです」

「しかし検索を全て蒙導師経由で行うということは、村人たちが何に興味を持って何を調べたいと思っているのかが全て筒抜けになってしまいます。プライバシーに対する懸念はないのでしょうか」

「残念なことですが人はその容姿や財力と同様、生まれもった能力や資質に関しても埋めることの難しい差があるのが現実です。皆が正しい判断を下すことができ、倫理に沿った行動ができるとは限りません。今のインターネット上には様々な悪質な情報が氾濫しています。違法薬物、闇バイト、爆薬や拳銃の製造方法など。誰もが自由にこういったサイトにアクセスできるようにした結果、今、世の中で何が起こっているかは天法さんもよくご存じのとおりです。蒙導師は確かな倫理観を持つ最も優秀な者たちで構成されています。何にアクセスして良いか悪いかを、彼らがしっかりと判断してくれるのです。それが結局は村人の為なのです」

 揺るぎない瞳が正一を見据えた。正一も無言で巳八子を見返している。境内を囲む大木の間からざわざわと葉擦れの音が聞こえてくる。雪洞の蝋燭が大きく揺れ、巳八子の瞳の陰影が深くなる。やがて長い静寂が訪れた。大輔は目の前で交わされている問答がまるで夢の中の出来事のような気がしてきた。

 最初に口を開いたのは正一だった。

「先ほど、御霊碑を磨いている白装束の方々を目にしましたが」

 突然、正一が質問の矛先を変えた。正一は何を言い出すのだろう。

「あれは聖様ひじりさまです」

 巳八子の顔が一瞬、強張るのがわかった。

「聖様?」

 巳八子はふっと視線を逸らし、境内を覆う巨木群に目をやった。しばらく葉擦れの音に耳を傾けているようだったが、やがてゆっくりと視線を畳に移す。雪洞が三人の長い影を畳に落としていた。

「何事にも光と影があるものです」

 そう言うと、巳八子は表情の消えた顔で正一を見つめた。正一も黙ったまま、巳八子を見つめ返す。

「卑埜忌村では千何百年にわたり、村内で婚姻を繰り返してきました。代々の家系図を元になるべく血の遠い者同士を結ばせるようにしてきましたが、どうしても弊害が出てしまう時があるのです」

 傍らの雪洞の炎が風に揺れ、巳八子の顔を深い陰影が覆う。

「この村では血が濃くなりすぎると大抵、同じような症状が発現します。背丈の成長が一メートルほどで止まり、知能の発達は六歳ごろに止まります」

 御霊碑を一心不乱に磨く白装束の小人たちの姿が浮かんだ。

「彼らは穢れのない聖様として崇められ、神島に設けられた天祥館で共同生活を送りながら、村人の為に御霊碑を磨いたり直したりする行に日々励んでくれています」

 再び一陣の風が境内の樹々をざわめかせると、雪洞の炎が激しく揺れた。拝殿で向かい合う三人の影が畳の上で大きく揺れる。風がおさまるのを待つように再び沈黙が流れた。雪洞の炎がじりじりと蝋を吸い上げる音が聞こえる気がした。

 やがて正一が再び口を開く。

「もう一つお聞きます。天狗岩はどこにあるのでしょうか」

 大輔の拳に思わず力が入る。

「島の裏側にあります。桟橋から見ると、ちょうど尾呂血神社を挟んで反対側になります」

「山根美穂さんの遺品が天狗岩で発見された日、輝龍さんは稗田さんと会われていたのですね」

「はい、氏子総代の稗田とは定期的に会っております。あの日は確か新たに初潮を迎えた者の婚姻先に関して決めておりました」

「稗田さんは打ち合わせの後、たまたま天狗岩に通りかかったと言っていましたが、稗田さんは脚が悪いにもかかわらず何故まっすぐに桟橋に向かわず、わざわざ天狗岩まで遠回りをしたのでしょうか」

 大輔はようやく正一が言わんとしていることを理解した。確かに杖を持ち脚をひきずりながら島の反対側まで行ったとすると、当初から何らかの目的があったはずだ。

「それは、天狗岩の先に建つ天祥館に用があったからでしょう。聖様の中にはたまに症状が不安定になる者がおります。稗田は定期的に天祥館を訪れ、必要な処置をしているのです」

「必要な処置とは?」

 畳みかけるように問いを発した正一を、巳八子はただ無表情に見つめ返すだけで何も答えなかった。

「天狗岩を案内していただくことはできますか」

 思わず大輔が横から口を挟んだ。美穂の遺品が残っていたという場所を何としてもこの目で見てみたかった。巳八子が横目でギロリと大輔を一瞥する。そして軽く頷いた。


 巳八子の案内で神社の裏手の道を進んだ。樹齢数百年を超えるような大木の生い茂る森の中は薄暗く、先を行く巳八子の緋色の広袖表着だけが鮮やかに浮かび上がっている。樹木の発するむせるほどの森林臭に包まれて十五分ほど歩いた頃だろうか、いきなり視界が開け白波の立つ湖が眼前に現れた。強風が巳八子の黒髪を舞い上がらせ、白く細い首筋に巻きつく。巳八子は片手で髪を押さえながら更に湖岸の道を進んだ。やがて前方に大きな岩が見えてくる。湖に突き出るように飛び出たその形状はまさに天狗の鼻のように見える。

「これが天狗岩です」

 巳八子は岩の手前で立ち止まると、ゆっくりと二人を振り返った。大輔は引き寄せられるように岩の上に足を踏み入れた。そこは畳二十畳ほどの大きな平場となっていた。ここに美穂の靴とハンドバッグが遺されていたのか。そして、ここから美穂は湖に身を投げたと言うのか。思わず岩の先端まで歩を進め、眼下に広がる暗い湖面を覗き込んだ。それから手を合わせ瞳を閉じて黙祷をする。依然、美穂の死に関して半信半疑ながらも、今は美穂の魂の安らぎを祈らずにはいられなかった。

 その時だった、突然背後の森の奥から奇異な声が聞こえてきた。驚いて振り返ると、樹々の間を白装束の聖様たちが行進している姿が目に入る。作業の帰りなのだろうか、一列になって各々肩にツルハシやスコップを担いでいる。そして声を合わせて歌っている。

「ハイホー、ハイホー、仕事を終えて家に帰ろう」

 聖様たちはそのように歌っていた。大輔たちには気づかずに、皆、楽しそうに森の中を行進している。ある者はステップを踏むように小躍りしながら、別の者は白い布巾を歌に合わせて振り回している。

「最近、聖様たちはディズニーに夢中なのです」

 ふっと柔らかい笑みを浮かべながら、巳八子が二人を振り返った。

「天祥館にはアニメのビデオがたくさん置いてあります。聖様たちは暇を見つけてはそれらを観て楽しんでいらっしゃるのです」

 それは何とも言えない異様な光景だった。霧に覆われた太古からの原生林の中を嬉々として行進する白装束の小人たち。満面に笑みを湛え小躍りしながら声を合わせて歌っている。その甲高い声が森の奥にこだまする。大輔と正一は言葉を失い、聖様たちの姿が森の奥に消え去るまでただ無言でその様を見つめていた。


 桟橋に戻ると、重男が仁王立ちをしたまま二人を待っていた。舟に乗りそのまま真っ白い霧の中に漕ぎ出る。ぎしっ、ぎしっという音だけを聞きながら乳白の中を進む。やがて霧が薄くなり徐々に前方の視界が開けていく。晩秋の寂しい空の下、岸の向こうに素朴な田園風景が現れてくる。同時に、歪んでいた時間と空間の感覚が消えていく。

 重男に礼を言い桟橋を後にすると、急に腹が減っていることに気づいた。時間を確認すると、既に昼の一時を回っている。大輔は、正一を連れて門脇食堂に向かうことにした。

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