第8話 もう一つの風土記

 食堂脇の駐車スペースには境港ナンバーのトラックが一台停まっているだけだった。既に大方の客は昼食を終え、午後の配送へと出発した後なのだろう。

 その時、店の裏口から一人の老婆が出てくるのが見えた。痩せた体に粗末な着物、ばさばさの黄ばんだ白髪、浅黒い染みだらけの顔、いつぞや造り酒屋の店先で鈴ばあと呼ばれていたあの老婆だ。老婆は裏口から出ると店の中を振り返り、欠けた歯を露にしながら顔をくしゃくしゃにして何度もお辞儀をしている。よく見ると、腕には白い徳利を大事そうに抱えている。酒でももらいに来たのだろうか。

 白い暖簾をくぐるとやはり店内は空いており、カウンターに青い作業着姿の男が一人座っているだけだった。良枝が化粧気のない笑顔で迎えてくれる中、今日は正一と二人なので隅のテーブル席に陣取ることにした。カウンターの奥から源三が人懐っこそうな笑みを投げかけてくる。早速、良枝が水の入ったコップを二つ持ってやってきた。大輔は迷わずカレーを注文し、正一を見やった。正一は一通り壁のメニューを眺めた後、恐る恐るといった様子で口を開いた。テーブルの上に置かれた正一の指先は落ち着きなく動いている。

「あ、あのう、せ、せっかく、み、湖の近くにいるので、さ、さ、魚料理はありますか」

 正一の欠けた耳がサッと赤く染まる。大輔は正一につられて壁のメニューに視線を這わせた。ハンバーグ、カレー、肉野菜炒め、生姜焼き、鶏のから揚げ、ラーメン、オムライス…今まで気づかなかったが、壁のメニューに魚料理は見当たらない。

「お客さん、ごめんね、うちは魚料理、出してないの」

 良枝が申し訳なさそうな顔を見せた。

「目の前にあんなにきれいな湖があるのに。さぞかし新鮮な魚が捕れるのじゃないのかな」

 大輔も思わず口走った。

「ここでは湖での漁はずっと昔からご法度なのさ。だって、亡くなった者たちが帰っていく神聖な場所だろ。だからこの村では魚を食べる習慣がないのさ。そもそも村では舟を持つことも禁止されていて、重男の渡し舟以外に舟は存在しないのさ」

 そう言うことか。確かにご先祖さまが代々葬送されてきた湖で漁をするわけにはいかないだろうし、そこで捕れた魚を食べたいとも思わないだろう。結局、正一は大輔と同じものを注文した。

 良枝がカウンターの奥へ消えると、大輔は早速正一に尋ねた。

「正一君、何か成果はあったかい」

 正一は一度大きく深呼吸をすると、呼吸を整える仕草を見せた。落ち着きなく震えていた指先の動きが徐々に収まっていく。欠けた耳の血が徐々に引いていく。やがてゆっくりと顔を上げ、正面から大輔を見つめた。その瞳には強い光が浮かんでいる。

「はい、成果はありました。まず、稗田宗子と輝龍巳八子の指紋を入手することができました」

 そうか、写真の入ったクリアファイルを渡したのはそれが目的だったのか。

「この後、鳥取県警本部の鑑識課に二人の指紋を持ち込み、月影国光の鍛刀場に残されていたコップの指紋と照合してみるつもりです」

 正一は目の前のガラスのコップに手を伸ばし、しばらく眺めた後、半分ほど飲み干した。コップをテーブルに戻すと再び話出す。

「それから、輝龍巳八子は何かを隠していると思います」

「隠しているって、美穂のことで?」

 一瞬、正一が柔らかな瞳を大輔に向けるのが分かった。

「大輔さんが一番気になるのは、当然そこのところですよね。大輔さんのお気持ちはお察しいたします。ただ、輝龍巳八子が美穂さんの話をした時に見せた態度は僕には自然な反応に見え、そこにあまり不審な点は感じられませんでした。僕が違和感を抱いたのは、秀全に関する質問を彼女にした時です。僕にはどうも彼女が意図的に感情を抑えながら話しているように思えました。何か心の中で暴れようとする想いに無理やり蓋をしながら話しているような、そんな感じです。ただ、あくまで僕の直感に過ぎませんが」

 正一は謙遜するが、恐らく常人には持ちえない鋭敏な感覚が何かを察知させているのだろう。

「もし輝龍秀全が本当に天叢雲剣を奪って村に持ち帰ったとするなら、剣は本殿の中に安置されているのだろうか」

「その可能性は十分にあると思います。古より輝龍家の当主しか入ることのできない本殿なら、剣を隠しておくにはうってつけの場所ですからね。ただ、捜査令状もない中、あれ以上強く要求することはできませんでした」

 その時、良枝が二人の前にカレーを置き、ごゆっくり、と一言残して去っていく。

「正一君の仮説が正しいとすると、そもそも秀全は何故、天叢雲剣を奪うなどという大それたことをしでかしたのだろうか。物が物だけに、売ってお金にするというわけにもいかないだろうし。単に刀剣に対する興味からなのだろうか」

 ずっと気になっていた疑問を口にした。もし自分が秀全だったら、危険を冒してまでそんなことをするだろうか。金が目当てならもっと換金しやすい物を狙うだろうし、秀全に特段、刀剣収集の趣味があったという話も聞かない。正一は一口カレーを口に含み、美味しい、と満足げな声を漏らすと大輔を見上げた。

「秀全としては奪ったつもりはなく、取り戻したということだったのかもしれません」

 正一がポツリと呟いた。

「えっ、取り戻した?」

 正一の言っている意味が全く分からなかった。正一を見つめ、次の言葉を待った。正一はスプーンを皿に戻し水を一口飲むと、正面から大輔を見つめた。

「大輔さん、出雲大社の御祭神が誰だか知っていますか」

 何故いきなり隣の島根県の出雲大社の話になるのだろう。でも、それくらいは知っている。

大国主命おおくにぬしのみことだよね」

「その通りです。では、大国主命がどのような人物だったかをご存知でしょうか」

 子供の頃に読んだうろ覚えの日本神話を思い出す。

「詳しくは知らないけど確か、国譲りをしたということだったっけ」

「おっしゃる通りです。大国主命に関する記述は古事記と日本書紀とで若干異なる部分もありますが、共通していることは高天原に住む神々の要請に従って、それまで自分が統治していた国を明け渡したということです。高天原に住む神々とは天照大御神を祖とする大和族、つまり現在の皇室を頂点とした日本の権力層の源流のことです。国譲りと言われていますが、恐らく実際のところは武力で無理やりに国を奪われたのでしょう。大国主命は国譲りをした後は冥界を治めることになったとありますが、これはつまり殺されたと解釈するのが自然です。出雲大社は一般的には滅ぼされた大国主命を供養するために建立されたと言われています」

 正一はそこまで話すと、話についてきているかを確認するようにしばらく大輔を見つめた。大輔は何度も頷いて見せ、先を促した。

「そもそも古代の出雲地方にはかなり高度な独自文化が存在していたことが分かっています。その影響範囲は船通山を中心として現在の島根県東部と鳥取県西部に渡って広がっていて、この地域からは大量の古墳や銅鐸、そして豪華な装飾品などが発見されています。このことからも当時の統治者の権力の大きさと文化レベルの高さを窺い知ることができます。当時各地に勢力を伸ばし始めていた大和族と区別するために、彼らはしばしば古出雲族と呼ばれています」

「それじゃ大国主命は滅ぼされた古出雲族の象徴ということ?」

 話にしっかりとついてきている大輔を見やり、正一が満足そうな表情を浮かべた。

「それが現在主流となっている学説です。僕が東大で古代史を研究していた時の指導教官も同様の学説を唱えていました。ただ、」

 正一はそこで言葉を切ってスプーンに手を伸ばした。

「ただ?」

 思わず大輔は身を乗り出した。

「大輔さん、せっかくの美味しいカレーが冷めてしまいますので、まずは食べてしまいませんか。話は食べた後にまた」

 そう言うと、正一は厨房の方を見やりながら目配せした。振り返ると、こちらを見ている源三と目が合った。カレーが冷めてしまうことを心配していたのだろう。せっかくの自慢のカレーを蔑ろにしてはいけない。大輔はもどかしい気持ちを抑えながらカレーを口に運ぶことにした。早く正一の話の続きが聞きたくて、あっという間に皿を空にし、正一が食べ終わるのを待つ。正一は最後のカレーの塊を口に運ぶと、水を一口飲んでから姿勢を正した。

「ただ、僕は違った見方をしています。古事記によると、大国主命は須佐之男命の六世の孫、日本書紀の一書では七世の孫と記載されています。この辺りの正確なことは分かりませんが、いずれにせよ重要なことは大国主命が須佐之男命の子孫だということです。須佐之男命はご存知の通り天照大御神の弟です。つまり大和族の主要メンバーです。ということは、大国主命もしょせんは大和族の血筋の人間だということになります」

 正一が大輔を正面から見つめた。

「僕は、古出雲族は大国主命の時代には既に滅ぼされており、大国主命の国譲りの逸話は単に大和族内で生じた権力争いを表しているにすぎないのではないかと考えています。大和族及びその後に連なる大和朝廷の支配層は、しばしば自分たちの権力争いの犠牲になった者が恨死した後に怨霊となって祟ることをひどく恐れました。今では考えられないことですが、当時の人々にとって怨霊は日常に存在する最大の恐怖だったのでしょう。その為、怨霊の祟りをおさめ霊を慰めるために恨死者を神格化して神社に祀るということをしてきました。有名なところでは朝廷内の内部抗争で敗れ讃岐に流された崇徳天皇を祀る白峰宮や、太宰府に左遷され不遇の死を遂げた菅原道真を祀る太宰府天満宮などがこれに当たります。ただ、これらは皆、あくまで大和族の血を引く身内の中での争いの場合です。敵対していたとはいえ、自分たちと同じ大和族の血が流れている相手だからこそ、手厚く神格化するに値する存在と考えたのでしょう。須佐之男命の血、つまり大和族の血筋を引く大国主命の場合も同様の考えから出雲大社が建立され、手厚く祀られたのだと考えています。一方、相手が大和族以外の人々だった場合は、全く事情が異なります。古代から平安時代にかけて大和族は日本の支配権を確立していく中で、多くの地場民族を容赦なく殲滅してきました。九州の熊襲くまそ、東北の蝦夷えみし、そして山陰の古出雲族などです。大輔さんの故郷は確か奥州でしたよね。阿弖流為あてるいをご存知ですか」

 阿弖流為、確か幼い頃に祖父からその名前を聞いた覚えがあった。

「何となく名前だけは聞き覚えがあるけど」

「東北地方は平安時代になってもまだ大和族の力が及ばぬ地域で、縄文の昔から蝦夷と呼ばれる地場民族が独自の文化圏を築いていたところです。阿弖流為はその最後の族長です。平安時代になる頃には大和族はようやく関東以西をほぼその手中に収め、最後に残る東北地方の征服に乗り出します。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷征伐を命じたのです。東北の地で壮絶な戦いが繰り広げられたのち、阿弖流為はこれ以上の無為な殺生を避ける為に坂上田村麻呂に同行して平安京に講和に赴きます。しかし大和朝廷の公家たちの画策により裏切られ、無残にも斬首されてしまいます」

 阿弖流為の名前を誇らしげに語っていた祖父の顔を思い出した。

「阿弖流為の存在はそれ以来、長く歴史の中から抹消されていました。大和族の血筋ではない、まつろわぬ者たちは存在しなかったも同然だからです。大輔さんが学んだ頃の日本史の教科書にも阿弖流為の名前は出てこなかったはずです。国家権力である文部科学省がその内容を検定しているわけですからこれは当たり前です。ほんの十五年くらい前から東北の復権運動の後押しもあって、ようやく歴史教科書に阿弖流為の名前が載るようになったのです」

 胸の奥がざわついた。大輔は自分の体の中に流れている東北人の血を実感した。こんなことは初めてだった。

「こういった異なる血筋の人々は大和族と同じ人間としては扱われず、滅ぼされた後はしばしば歴史の中で単に鬼、妖怪、土蜘蛛などといった蔑称で記されているだけです。どのような非業の死を遂げたとしても神格化して祀るなどもってのほか、人間として供養する価値もない存在ということだったのでしょう。平安時代の絵画などでは大抵、凶暴で醜い風貌を持つ異形の存在として描かれています。僕は古出雲族も同様の末路を辿ったのだと考えています」

「正一君、大国主命の時代に古出雲族は既に滅んでいたとすると、一体誰がいつ滅ぼしたと考えているの」

 大輔を正面から見つめる正一の瞳に力が入った。

「滅ぼしたのは大和族の主要メンバーであった須佐之男命だと考えています。そして滅ぼされた古出雲族は八岐大蛇という醜い怪物に変えられて、中央の朝廷によって綴られた歴史書の隅に残っているだけです。ただ不思議なのは、当時まだ地方豪族の一つに過ぎなかった大和族と比べて古出雲族はかなり高度な産業基盤と文化を持っていたはずなのに、何故、滅ぼされてしまったのかということです。山陰地方は朝鮮半島までほんの三百キロという位置にあります。その地の利を生かして大陸との交易も盛んで、当時としては最先端の知識と技術が国際交易の表玄関であった山陰地方に流入していたことは明らかです。特に注目すべきは、傑出した製鉄技術です。古出雲文化圏を貫くように流れる斐伊川は別名黒い川と呼ばれるように、この地方では古代より良質な砂鉄が豊富に取れ、それを使ったたたら製鉄が盛んだったところです。鉄で作った刀剣や武具はそれまで主流だった青銅武具とは比べ物にならないくらい強固です。また、鉄で作った農具は農作物の生産性を飛躍的に高めたはずです。古出雲族は最先端の鉄製武具や農具により圧倒的な武力と経済力を保持していたはずです。記紀では須佐之男命の持つ十拳剣は銅剣だったとあります。これが八岐大蛇の尾の中にあった鉄剣に当たって折れたという逸話は、まだ青銅技術しか持たなかった大和族に対して、古出雲族が当時としては最先端だった製鉄技術を既に持っていたということを暗喩しているのだと解釈できます。結局、大和族は滅ぼした古出雲族の製鉄技術を吸収して、その後急速に力をつけ、その支配地域を全国に拡大していくことになります」

「正一君、ところで今の話と先ほどの秀全の話とはどうつながるの」

 話の行き先が見えず、思わず尋ねた。

「大輔さん、大和族は当然、自分たちが滅ぼした異族である古出雲族を供養したり史書に残したりすることなど考えなかったはずです。むしろ自分たちの統治支配の正統性をより強固にするために、古出雲族が存在していたこと自体を否定し、ただ醜い大蛇の怪物を退治したということにして歴史の彼方に葬り去ったのではないでしょうか。ただ、もし誰かが、千年の時を超えて、大和族に代わって古出雲族を供養し続けていたとしたらどうでしょう。」

 正一の頬が紅潮し、瞳がギラリと光る。

「まさか尾呂血神社が?」

 正一が無言で頷いた。

「大輔さん、古い資料を色々と調べてみたのですが、尾呂血神社にはちょっと妙なところがあるのです。一応、神社と名乗ってはいますが、どうも普通の神社ではないというか、そもそも神社と呼んでよいのかどうか疑問です。神社の定義にもよりますが、少なくとも伊勢神宮を本宗とする日本の神道世界に尾呂血神社は属していません。神社とは一般的には神道の信仰に基づく祭祀施設であり、山岳や河川などを対象とした自然崇拝、または天照大御神などの現天皇家の祖先と言われる神々、および先ほど申し上げたように大和族内の権力争いに敗れて非業の死を遂げた怨霊を祭神として祀っているのが大半です。しかし尾呂血神社の祭神、八津神様とは一体何なのでしょうか。宮内庁に残る古い記録を色々と調べてみたのですが、八津神様に関する記述は公式の記録の中には一切出てきません。そして尾呂血神社は長い歴史を持っているにもかかわらず、その存在は中央政府からは徹底的に無視されてきているようなのです。尾呂血神社が古代から存在していたことは、奈良時代初期に編纂された出雲風土記に、既にその時点で何百年も前に創建された古社として記載されていることからも間違いないでしょう。ここで注意すべきことは、出雲風土記があくまで当時の出雲の地方官が中央政府に送った報告書だということです。つまり中央の視点では書かれていないということです。面白いことに出雲風土記には八岐大蛇の話は出てきません。八岐大蛇はあくまで時の中央政府が編纂した勝者の歴史書である古事記や日本書紀にしか出てこないのです。このことからも、八岐大蛇という怪物伝説は中央政府によって作られたということが推測されます。その後も朝廷側の資料には一切尾呂血神社の名前は出てきません。平安時代に天皇の命により全国の神社を一覧としてまとめた延喜式神名帳という資料がありますが、そこにも尾呂血神社の名前はありません。そして現在、日本各地の神社を統括する神社本庁組織にも尾呂血神社は属していないのです。歴代の中央権力は何故か執拗に尾呂血神社の存在を無視し続けているのです」

 正一はそこまで一気にまくし立てると、時計に目をやった。

「正一君、つまり尾呂血神社は歴代の朝廷、そして現在の日本政府が神道の祭神としては適切ではないと判断しているものを祀っているということ?八津神様とはつまり大和族に滅ぼされた異族である古出雲族の神?」

 正一がニコリと頷いた。

「あくまで僕の仮説ですが、八岐大蛇の尾から出現した鉄剣とはつまり当時のたたら製鉄の最高技術を駆使して生み出された、古出雲族の権威の象徴として祀られていた宝剣だったとしたら。脈々と現代まで古出雲族を密かに供養し続けている者たちが、古代に須佐之男命に奪われた宝剣を取り戻す機会を伺っていたのだとしたら」

 正一はそこで言葉を切った。大輔は口を半分開け、唖然とした顔で正一を見つめた。正一は楽しそうな表情でそんな大輔を観察していたが、再び口を開いた。

「この仮説を裏付けることができる資料があるかもしれないのです」

 正一は時計に目をやり、今度は今までよりも早口で話し出した。

「先程説明した通り風土記とは奈良時代初期に元明天皇の命により各地の地方官がその土地の歴史伝承や文化風土を記録編纂して朝廷に提出した報告書のようなものです。当時、朝廷の勢力範囲であった関東から九州までの約六十地方の風土記が編纂されたようですが、現在では原本は全く残っておらず、出雲風土記を含め幾つかの写本が残っているだけです。風土記の面白いところはあくまでそれぞれの地方の独自視点でその土地の歴史伝承がまとめられているということです。そのため朝廷が中央の視点で編纂した古事記や日本書紀とは異なる伝承が多く残されており、朝廷によって葬り去られてしまった本当の歴史の断片が垣間見えるということです」

 正一はそこで水を一口含むと、目を大きく見開いた。

「実は出雲風土記とは別に、伯耆地方で古代に風土記が編纂されていた可能性があるのです」

「そこに古出雲族に関する記述があると?」

 正一がうれしそうに微笑んだ。

「実はここに来る前に宮内庁に残る古い資料をしらみつぶしに当たっていたのですが、書陵部の極秘文書の中に気になる記述を幾つか発見しました。極秘文書とは秘密保全の必要性が高く、その漏洩が国家または皇室の安全及び利益に重大な損害を与える恐れのあるもののことです。もちろん、一般にはまったく公開されないどころか、その存在すらも隠されている文書です」

「君は極秘文書にもアクセスできる権限を持っているのか」

 正一はただ悪戯っぽい笑みを返しただけだった。

「一つは江戸中期の太政大臣九条尚実ひさざねが残した諸国時事日記抄という文献です。そのある部分だけが極秘文書扱いとなっているのです」

「そこには一体何が書かれているの?」

 大輔は思わず唾を飲み込み、体を乗り出した。

「鳥取藩でのある切腹事件に関して記されていました。天明五年、つまり西暦一七八五年に藩のお抱え国学者、天鬼玄白あまきげんぱくが藩主池田治道の命により切腹したという記述がありました。ただそれだけです」

 大輔はきょとんとした表情で正一を見つめた。

「僕も初めて聞いた名前だったので、早速天鬼玄白に関して色々と調べてみました。すると、なかなか興味深いことが分かりました」

 大輔が興味を持ってくれていることが楽しいらしく、正一は満足げな表情を見せている。

「国学とは日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける前の古代日本にあった独自の思想や精神世界を明らかにしようとする学問です。十八世紀後半に本居宣長が大成させたと言われています。大輔さんも宣長の名前は聞いたことがありますよね」

「ああ、たしか何十年もかけて古事記の解読に成功し、世に古事記の価値を高めた人だったよね」

 正一が嬉しそうに頷いた。

「その通りです。宣長は古事記研究を通して、中国や朝鮮の文化に影響される前の元々日本にあった精神世界や文化の再評価に努めた人物です。そして宣長が特に大事にしたのは大和ごころという概念です。古代から脈々とヤマト民族の中に伝わる心の持ちようのようなものです。そんな宣長にとって許せない人物、それが天鬼玄白だったのです」

 正一がそこで深呼吸をした。ずっと興奮して話し続けていたために息が切れたのだろう。

「天明三年、切腹の二年前のことですが、天鬼玄白は伯耆地方の旧家の蔵から古い編纂物を発見します。火之木国ひのきこく風土記です。そしてそれが古代伯耆国の風土記の写本だと主張したのです。当時も現代も、風土記の写本は出雲国、常陸国、播磨国、豊後国、備前国の五つしか存在していないことになっています。そんな中、六つ目の風土記写本が発見されたと当時は大騒ぎになったようです。しかし既に国学界の大御所となっていた宣長は、何故か天鬼玄白を激しく糾弾します。発見された風土記はまったくの偽書だと、そして天鬼玄白を狂学者扱いしたのです。日本人のルーツとしてのヤマトを崇高なものとして称える宣長にとって、許せない何かがあったのでしょう。結局、藩主の池田治道は藩がとばっちりを受けることを恐れ、天鬼玄白に切腹を命じたのでした」

 不意に正一の顔が悲しげに曇る。話しているうちに天鬼玄白に感情移入してしまったのだろう。

「そしてもう一つの極秘文書が、昭和八年に当時の宮内省で侍従長を務めていた鈴木貫太郎が鳥取憲兵隊司令官に出した指令書です。鳥取の旧家である甘木家の蔵を検分するようにという指示内容でした。検分には甘木家からは当主の甘木玄正が対応したと記録されています。しかし結局、何も見つからなかったようです」

「甘木?」

「そうです。調べてみたところ天鬼家は維新後、甘木と改姓していました。そして改姓時の当主甘木玄永には息子ができず、娘婿に米子近郊の古刹龍久寺の住職の次男をとったようです。その人物が甘木玄正、憲兵隊が検分した時に対応した当主です」

 そこで正一が正面から大輔を見やった。

「大輔さん、宮内庁上層部はこれらの資料をどうして極秘扱いしていると思いますか」

 これまでの話から、その理由は容易に想像ができた。

「正一君、君の先程の極秘文書に関する定義をそのまま流用すると、国家または皇室の安全及び利益に重大な損害を与える恐れのあるものがそこにあるということだね」

 正一がうれしそうに大きく頷いた。

「これは僕の推測ですが、天鬼家は玄白が切腹に処せられた後も、恐らくはその写本を大切に保管していたのでしょう。ただし、極秘に。その写本を保管していることがばれたら再び天鬼家に災いが降りかかることは明白だからです。維新後に甘木と改姓してからも、人知れず保管し続けていたのでしょう。先祖の玄白が命にも代えて主張した歴史学説の論拠となるものだからです」

「でも、鳥取憲兵隊が検分した時は、甘木家からは何も発見されなかったんだろ?」

「甘木玄正が憲兵隊の検分を事前に察知し、安全なところに隠したとは考えられませんか。大輔さんだったら、どこに隠すのが安全だと思いますか?」

「実家に?」

「そうだと思います。いくら憲兵隊と言えども、仏様のお膝元にあるものをむやみに検分するわけにはいきませんから」

 正一はそこで一旦言葉を切り、再び時間を確認した。

「大輔さん、今日の午後、鳥取県警の者たちが僕を迎えに樵荘にやってきます。僕は県警本部でクリアファイルの指紋の照合に立ち会った後、龍久寺を訪れる予定です。できるだけ早く卑埜忌村に戻ってくるつもりですが、大輔さん、それまで卑埜忌村で僕を待っていていただけませんでしょうか。身勝手なお願いで恐縮なのですが、ここでの捜査にはどうしても大輔さんの助けが僕には必要なのです」

 ここまで来たら乗りかかった船だ。それに正一に同行していれば美穂に関しても更に何か新しい発見があるかもしれない。ところで正一が口にした龍久寺、どこかで耳にしたことがある、そうだ、秀胤さんの話に出てきた慈雲が住職を務めていたという寺だ。

「正一君、それは構わないけど、今、名前の出た龍久寺、確か秀全の義理の弟が最近まで住職を務めていた寺だと聞いたことがある」

 正一の瞳の光が強くなった。

「何か関係あるのかもしれませんね。いずれにせよ、数日後にまた」

 正一はそう言うと、いそいそと店を飛び出していった。

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