第6話 皇宮警察官

 大輔が樵荘に戻った時はまだ空はかろうじて明るく、鱗のような雲が一面に広がっていた。玄関を上がると、食堂から人の声が漏れ聞こえてきた。ふと興味を持ってそちらを覗くと、割烹着姿の女将と赤いジャージ姿の静香が並んで食卓に座っている後ろ姿が目に入った。卓上にはノートやらプリントやらが広がっている。二人は大輔が帰ってきたことにも気づかない様子で、真剣なまなざしをノートに向けている。静香は鉛筆を持つ手にグッと力を入れ、ノートと女将の顔を交互に見やっている。恐らく学校の宿題でも手伝ってもらっているのだろう。あまり覗き見するのもどうかと思い、大輔は二人の後ろ姿を尻目に二階に続く階段をそっと上った。

 部屋に入り畳の上に仰向けに横たわり天井を見上げた。一人になるとどうしても美穂のことを考えてしまう。美穂もほんの一週間ほど前、今自分がいるこの部屋に滞在していたのだ。美穂はあの天井板を見上げ何を考えていたのだろう。自分のせいで不遇な死を迎えた父親のことか、それともお腹に宿った新しい命のことか。一人で悩んでいたのではないか。何故、俺に一言相談してくれなかったのか。ここ数日、繰り返し頭の中をよぎる答えのない疑問が噴出してくる。俺との生活を幸せだと恵美子さんに綴ってくれた美穂、俺の作家としての未来を信じてくれた美穂。深い喪失感がひしひしと胸の中に広がる。瞼を閉じると目頭が熱くなり、目尻から温かいものがツツッとこめかみに流れた。美穂、本当に死んでしまったのか。

 その時突然、階下から女将の険のある声が響いてきた。

「村の中で暮らすのが一番じゃ。村を出てはいかん」

 静香を諭すように発せられたその声は、館内に大きく響き渡った。恐らく大輔が二階にいることに気づいていないのだろう。女将の声に続いて静香が何かを言い返しているようだが、泣きじゃくっていてうまく聞き取れない。再び女将の声が響く。

「村の中におる限り、八津神様がお守りしてくれる。疫病も地震もなく無事に過ごせる。昔から皆、そうしてきたのじゃ。静香、どうして分からんのじゃ」

 女将の尖った声に続いて静香の泣き声が聞こえた。やがてドタドタと静香が走り去る音が続く。


 夕食前に風呂をいただき浴衣に着替えた。持参した数少ない下着を洗いハンガーに干す。当初は一泊程度の短い旅程のつもりだったが、既に卑埜忌村に来て四日目だ。携帯もネットもつながらない中、随分と長い間、現実世界から切り離されて不思議な夢の中を彷徨っているような気がする。俺は一体いつまでここにいるつもりなのだろう。このまま卑埜忌村に滞在し続けることに、果たして意味があるのだろうか。依然として美穂に関する手がかりは何も得られていない。言いようのない焦りがこみ上げてくる。

 丹前を羽織り一階の食堂に下りていくと、今日は珍しく先客の姿があった。その男は先ほど到着したばかりといった様子で、まだスラックスにセーターという出で立ちのまま、背を向けて既に食事を始めていた。都会的な品の良さを感じさせる後ろ姿だ。軽く男の横顔に会釈をした瞬間、男の耳に目が留まった。左耳の上部が欠けている。まさか。男も大輔に気づき顔をこちらに向けた。男と目が合った瞬間、大輔は体がグッと強張るのを感じた。男も同様に驚いている様子で口を開けたまま固まっている。何年かぶりに見る顔。真由美の弟、天法てんぽう正一だ。何故ここに?途端に真由美と一緒だった頃の苦い記憶が蘇ってくる。


 大輔は東京のあまり有名ではない大学を卒業すると、中堅の出版社である青雲堂にかろうじて職を得ることができた。本当は大手出版社を目指していたのだが、学費を賄うためのバイトが忙しかったせいで大学の成績があまり芳しくなく、大手はどこも大輔の提出した応募書類には興味を示さなかった。いや、そもそも大学名だけで相手にされなかったのかもしれない。しかし中堅出版社とはいえ、正社員の職を得られたことはありがたかった。当時はひどい就職氷河期で、大輔の周りでも二人に一人はフリーターや非正規社員という不安定な立場で社会の荒波に漕ぎ出さざるを得なかった時代だ。大輔は青雲堂に入社すると編集部への配属を希望したが、残念ながら広告部配属の辞令を受け取ることになる。日々広告代理店に顔を出し、青雲堂の出版物へ広告を入れてもらう営業をすることが主な業務の部門だ。青雲堂の経営は、その出版する書籍雑誌の売り上げと出版物に掲載される広告料とで成り立っており、大輔は広告部での仕事も会社の屋台骨の片翼を支える大切な業務だと自分に言い聞かせて日々業務に励むことにした。

 配属後数年が経ち広告部の仕事にも慣れてきたある日、日参していた築地の大手広告代理店の雑誌局で懇意にしていた布村英樹から合コンに誘われることになる。布村は慶応大学アメフト部の出身で、派手な社員が多いその会社の中でも一際目立つ存在の男だった。父親は大手クライアントの宣伝担当役員をしており、明らかに強力なコネを使って入社してきたくちだ。生まれてこの方、苦労などしたことがないという眩しいオーラを纏っている男だ。本来なら大輔とは正反対のタイプなのだが何故かウマが合い、たまに二人で飲みに行くような間柄だった。お互いに自分の持っていないものを相手の中に見ていたのかもしれない。布村の持ってきた合コンの相手は丸の内の大手商社のOLたちだった。皆、一様に煌びやかな流行ファッションに身を纏い、自信に満ちた笑顔を隙のない化粧で華やかに彩っていた。大輔は気後れしながらも、その中の一人の女性とまた会う約束をこぎつける。それが天法真由美だった。真由美は小学校から広尾のミッション系女子校に通い、付属の短大を卒業した後、大手商社の役員秘書室に勤務していた。歳は大輔より二つ下だった。読書が趣味という真由美は文学に強い興味があるようで、大輔の語る様々な本の書評に興味深く耳を傾けてくれた。お互い若かったからだろう、あまり深く考えずにそのまま結婚に突き進んでいった。

 結婚の挨拶のために真由美の実家を訪れた時に正一と初めて会った。事前に真由美から「変わった弟だけど気にしないで」と言われていた。天法家の居間で正一がぎこちない笑みを浮かべながら落ち着きなく両親の隣に座っていたことを覚えている。正一の左耳が欠けていることに気づいたのはその時のことだ。真由美によると、正一は幼い頃から発達障害を患っており、知能や言語能力には全く問題がないのだが、対人コミュニケーションがひどく苦手とのことだった。そのせいで小学校の頃は随分と同級生たちに虐められたそうだ。ある時、捕獲された野犬を収容している檻に閉じ込められ、耳の一部を食いちぎられたそうだ。歳は真由美の二つ下で、確か東大の日本史学研究室を卒業し、国家公務員をしていると言っていた。

 結婚後、真由美の実家には毎年正月に訪れたが、正一はいつも無口でただ大輔をじっと観察するように見つめているだけだった。一方、大輔の実家へは結婚初年度のお盆に真由美を連れて帰ってみたのだが、母親も真由美もぎくしゃくとしてお互いにひどく気疲れをしてしまったようで、翌年からは自然と足が遠のいてしまった。都会育ちの真由美と典型的な田舎人である母とでは、共通の接点が全くなかったのだろう。

 結婚して数年が経ち、大輔は相変わらず青雲堂の広告部で働いていた。毎年、編集部への異動申請を出していたのだが相変わらず聞き入れてもらえずにいた。ただ、仕事の関係で広がった出版界のネットワークを生かして、趣味で書いていた社会批評やエッセーを幾つかの会社に持ち込んでみたところ、企業の広報誌や顧客会員誌などにぽつぽつと採用されるようになっていた。大輔の書くものは社会で声を上げることのできない弱い者たちに優しく寄り添いながらも鋭い考察に富んでいると、徐々にその評判が広がっていった。やがてこうした副業からの収入が青雲堂からの給料の八割くらいにまで到達した頃、大輔は大きな決断をする。退社しライターとして独立するというものだ。真由美はひどく心配した様子だったが反対はしなかった。独立後しばらくは順調に執筆の依頼が舞い込んできたが、やがて米国の大手投資銀行の破綻に端を発したひどい不景気が日本を襲う。多くの企業の財務は悪化し、それまで顧客サービスとして発行していた会員誌や広報誌の休刊を余儀なくされる。以前は大輔の文章を高く評価してくれていた企業の広報担当者たちも、潮が引くように連絡をしてこなくなっていった。真由美が仕事を続けていてくれたことは不幸中の幸いだった。収入が大きく目減りしてしまった大輔にとって、真由美の稼ぎは二人の生活を維持していくためになくてはならないものとなっていたのだ。しかしこのような状況は当然、二人の関係に大きな変化をもたらした。それまで大輔のライターとしての才能や独立して自ら人生を切り開いていく才覚を頼もしいと捉えていた真由美は、徐々に大輔の才能を疑い始め、無謀に独立した軽率さを非難するようになっていく。一方の大輔も、妻の稼ぎに依存している自分に対して強い自己嫌悪を覚えるとともに、真由美に対して卑屈な感情が湧き上がってくるのを抑えることができなかった。徐々に二人の会話は減っていき、些細なことでの喧嘩が増えていく。仕事の減った大輔は時間を持て余して自宅に籠り、真由美はそんな大輔と顔を突き合わせることを避けるように商社の友人たちと飲み歩くようになる。いつしかお互いの肌に触れることもなくなっていった。

 ある晩、真由美が酔って帰宅した時に、大輔は思わず抑えていた言葉を口にしてしまった。

「こんな遅くまで誰と飲んできたんだ?」

 大輔は稼ぎの乏しい自分と異なり、国際的な舞台でバリバリと稼いでいる商社マンたちに囲まれている真由美をいつしか疑い始めていたのだ。何の証拠があったわけでもない。今思うと単に自分の卑屈な劣等感から生まれた疑念だった。真由美は一瞬、ぽかんと口を開けて大輔を見つめた。やがてその瞳に軽蔑するような色を浮かべると、静かに言い放った。

「私、負け組と結婚した覚えはないわ」

 何かが大輔の中で音を立てて崩れ落ちた。それが六年前のことだった。


 大輔は一度大きく深呼吸をすると、言葉を失ったように固まっている正一に向かって話しかけた。

「正一君か、久しぶりだな」

 なるべく普通に声を発したつもりだったが、頬の辺りが強張っているのが分かった。正一も箸を持つ手が震えている。正一は何度も細かく頷いた後、か細い声を発した。

「だ、だ、大輔さん、お、お久しぶりです」

 正一の顔にさっと血が上り、耳が赤くなった。

「真由美は元気にしてる?」

 無理に何か言葉を繋げようと、聞きたくもなかった質問が思わず口をついた。

「さ、さ、昨年、し、商社の方と再婚して、い、い、今はニューヨークにいます」

 正一が手元の箸を見つめながら答えた。やはり聞かなければよかったと後悔する。

「まさかこんなところで会うとは思わなかったよ。一人かい?」

 正一が細かく何度も頷く。

「観光?」

 正一がブルブルと首を横に振った。

「し、し、仕事です」

 卑埜忌村に仕事の用事があるとは驚きだった。国家公務員をしていると聞いていたが、一体何の用でこんなところに来ているのだろうか。

「確か正一君は国家公務員をしているんだっけ?」

 正一は頷くと、震える手で懐から名刺を一枚差し出してきた。


 皇宮警察本部 皇宮護衛官 警視正 天法正一


 そこには馴染みのない文字が並んでいた。

「皇宮警察?」

 大輔が思わず呟くと、次第に正一の体の震えが治まっていくのが分かった。それまでおどおどと揺れていた瞳にやがて力強い光が現れる。そして正一は人が変わったように説明を始めた。

「皇宮警察本部とは警察庁の一機関で、天皇、皇后、その他皇族の護衛及び皇室財産の警備を任務としています。皇宮護衛官とは公安職国家公務員の官職で、特別司法警察職員として活動しています」

 発達障害の特徴の一つとして、自分の専門や興味のある分野に関しては人並み外れた能力を発揮することがあると何かで読んだことがある。正一はまだ三十代半ばのはずだ。その若さで既に警視正という肩書を持つということは、なんらかの特殊な才能を評価されてのことかもしれない。

「つまり皇室をお守りすることが任務の正一君が、どうしてまた卑埜忌村に?」

 正一はチラッと台所に目をやると、声を潜めて呟いた。

「そ、そ、それは、こ、ここでは言えません」

 しばらくの沈黙の後、正一が口を開いた。

「だ、だ、大輔さんはどうしてここに?」

 正一は頬を紅潮させ、再び落ち着きのない態度を見せた。特に秘密にする理由もなかったので、大輔は簡単に今日までの経緯を説明した。大切な女性との連絡が途絶え一人で卑埜忌村に来たこと、その女性が舟を使った形跡もないのに神島で身を投げたとされていること、大輔としては神島に渡ることもできずそろそろ帰京を考えていること、などである。正一は大輔と視線を合わせず、聞いているのかどうかも分からない様子で下を向いていた。大輔の話が終わっても正一は何も言葉を発せず、やがて黙々と食事をし始めた。しかし、ふと見ると正一の目尻からは涙が溢れ、勢いよく頬を伝っているのが分かった。大輔の話を自分のことのように受け止め、悲しんでくれているのか。発達障害の罹患者は一般的には他人の心情を察することが不得手と言われているが、たまにその真逆の症状を持つことがあるらしい。正一は恐らくその後者のタイプで、人並み外れて鋭敏な感受性を持っているのだろう。正一が、大切な女性を失った大輔に寄り添うように共感してくれていることをありがたく思うとともに、正一に対する印象が大輔の中で柔らかく変化していく。きっと繊細で温かい心を持った男なのだろう。やがて正一は食べ終わるとうつむいたまま小さな声で、「お、お先に」と呟き、大輔と目も合わせずに静かに部屋に戻っていった。


 その晩、大輔がそろそろ床に入ろうかと思っていた時、襖の向こうから囁くような声が聞こえた。

「だ、だ、大輔さん、ま、まだ起きていますか?」

 正一だった。襖を開けると浴衣姿の正一が暗い廊下に佇んでいる。風呂上りなのか、額には大粒の汗が浮かんでいる。

「ちょ、ちょ、ちょっとお話があるのですが、い、いいですか?」

 大輔は敷いてあった布団を隅に寄せ、代わりに座布団を二枚用意して正一を迎え入れた。正一は座布団に腰を下ろすと、落ち着きなく目を瞬かせている。大輔は急須にお湯を注ぎ、湯呑みを二つ用意した。茶葉が開くまでの数分の間、二人の間に沈黙が流れる。大輔は湯呑みにお茶を注ぐと、正一の前に一つ差し出した。相変わらず正一は目を伏せて黙っている。

「正一君、話って?」

 いつまでたっても話し出さない正一にしびれを切らして、大輔が促す。正一は自分を落ち着かせるようにお茶を一口すすると、湯呑みに視線を落としたままようやく口を開いた。

「だ、だ、大輔さん、そ、そ、そろそろ帰京を考えていると言っていましたけど、も、も、もう少し滞在を延ばしてもらうことは、で、できませんか?」

 正一の欠けた耳がサッと紅潮し、膝の上で組んでいる両手が強く握りしめられる。今更、数日帰京するのを遅らせたところで、編集部の面々の怒りが変わることもないだろう。しかし何故、正一はそんなことを言ってくるのか。首を傾げながら次の言葉を待った。

「で、で、できたら、ぼ、僕の仕事に同行してほしいのです。こ、この村では周りの視線がき、き、厳しくて、ひ、一人で歩いていると心が参ってしまいそうなので」

 確かに村人のよそ者に対する排他的な視線や態度は、大輔にとっても心地よいものではなかった。ましてや繊細な心を持つ正一にとっては、辛辣な視線を浴びながら道を歩くだけでもさぞかし精神的な負担となるのだろう。

「そ、そ、それに、の、野良犬が多くて」

 正一は忌まわしいと言わんばかりに顔を歪めた。子供の頃のトラウマがある正一にとっては、人懐っこいとはいえ、あの野良犬たちにまとわりつかれることはとても耐えられないことなのだろう。

「別に構わないけど、何をすればよいのかな?」

 大輔の言葉を聞き、正一の顔にぱっと安堵の色が広がる。

「た、た、ただ隣にいてくれればいいのです。こ、こ、この村で何人かの人に会わなくてはならないのですが、ず、ずっと僕と一緒に行動をしてくれれば助かります。そ、そして、い、い、犬が僕に近づかないようにしてください」

 正一がやっと視線を大輔に向けた。そこには、すがるような心細さが浮かんでいた。

「分かった、お安い御用だ。ところで誰と会う予定なの?」

 突然、猫背気味だった正一の背中がすっと伸びる。

「まずは稗田宗子、そして次に輝龍巳八子という人物です」

 先程までとは打って変わって毅然と答える正一の瞳からは心細さが消え、代わりに力強い光が溢れていた。まるで別人だ。正一の口から輝龍巳八子の名前が出たことにも大輔は驚いた。正一と一緒に輝龍巳八子に会えるというのか。大輔は俄然興味が湧いてきた。ただ、神島にどうやって渡るつもりだろうか。

「輝龍巳八子は神島にいるはずだが、我々よそ者が神島に上陸するのは難しいのでは?」

 先日の稗田の非協力的な態度を思い出した。

「大丈夫です。既に皇宮警察本部から氏子総代の稗田宗子に話はつけてあります」

 これが中央官僚の力なのだろう。恐れ入った。神島に行けば、美穂に関して何らかの手掛かりも掴めるかもしれない。

「それで正一君は、一体何を捜査しているんだい?」

 正一が湯呑みを口に持っていく姿を固唾を飲んで見守る。正一は湯呑みを畳に置くと、背筋を伸ばし正面から大輔を見やった。

「大輔さんは僕の義兄です。残念ながら姉とは別れることになってしまいましたが、今でも僕は大輔さんを義兄だと思っています。今から話すことは大輔さんの中だけにしまっておいてください。決して口外してはいけません。国家の根幹に関わることだからです。約束してもらえますか?」

 正一のやけに大げさな前置きに思わず身震いをした。一体、この辺境の村に国家の根幹に関わるどのようなことがあるというのだ。

「約束する。決して口外しない」

 正一の目を見つめて答えた。本心だった。正一の口元がふっと緩むのが分かった。

「大輔さんが信頼できる人だとは前から分かっています。僕はこう見えても人を見る目はあると思っていますので」

 正一の人並み外れた強い感受性は、相手の内面を見極める力にもつながっているのだろう。若くして警視正に上り詰めた要因もそこにあるのかもしれない。

「大輔さんは月影国光という刀匠の名前を聞いたことはありますか」

 正一は唐突に聞き覚えのない人物の名前を口にした。思わず首を横に振る。

「まあ、普通の人が知らないのは当然でしょう。ただ少しでも刀剣に興味を持っている人ならば、月影国光を知らない人はいないはずです。現代の最高の刀匠の一人として活躍していた人物です。夕食時に説明した通り、皇宮護衛官の仕事として皇室財産の保護警備というものがあります。ご存知かもしれませんが、皇室財産には御物ぎょぶつと言われる貴重な刀剣が数多く存在します。一般公開される類のものではないので人々の目に触れることはまずありませんが、御物は皇位の継承と共に歴代の天皇に引き継がれてきた大変価値の高いものばかりです。例えば天下五剣の一つである鎌倉時代の名刀鬼丸国綱おにまるくにつな、それから平家一門の家宝とされた小烏丸こがらすまる、または歴代の皇太子が立太子された証として相伝されてきた壺切御剣つぼきりのみつるぎなど。しかしこういった名刀も定期的に手入れをしないとやがて錆が出て劣化してしまいます。その為、その時代その時代の最高の腕を持つと言われる刀匠たちがこれら御物の修復を手掛けてきました。そして最近まで御物の修復手入れに携わっていた刀匠が月影国光なのです」

 正一は何故いきなり刀匠の話をしだしたのだろうか。一体、卑埜忌村と何の関係があるというのか。大輔は話の行く先が全く見えぬまま、ただ正一の話に耳を傾けた。

「国光は五年前に亡くなったのですが、死の数日前に宮内庁の御物管理担当官に一本の電話をかけています。国光はその時、素性の知れぬ一般の依頼者から預かっていた刀剣の修復を手掛けていたらしいのですが、電話で妙なことを聞いてきたのです。ある御物が現在無事に保管されているか、その存在の有無を至急調べて欲しいとのことでした。自分が今、手元で修復している刀剣がその御物なのではないかと、かなり取り乱した様子だったと聞いています」

「その御物の刀剣とは?」

「御物の中でも最高位に位置付けられている刀剣です。それも、ただの刀剣ではありません。古代から続く現皇室の正統性を象徴するレガリアとして代々伝世されてきたものです」

「まさか天叢雲剣?」

「さすがは大輔さん、その通りです。ご存知の通り天皇家は代々、皇位継承の正統性を示すために八咫鏡やたのかがみ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま、そして天叢雲剣を三種の神器として相伝してきました。鏡は知、勾玉は仁、剣は勇と、天皇の持つべき三徳を表しています。現在、八咫鏡はご神体として伊勢神宮の内宮に奉安されています。八尺瓊勾玉は皇居の剣璽けんじの間に保管されています。そして天叢雲剣はご神体として熱田神宮の本宮に安置されています。国光はこの三種の神器の一つ、天叢雲剣が盗まれ、修復のために自分の元に持ち込まれたのではないかと疑っていたのです。宮内庁の担当者は電話を切ると慌てて名古屋に赴き、熱田神宮に天叢雲剣の存在を確認しに行きました」

「それで?」

 握っていた拳に思わず力が入る。

 その時突然、携帯電話の呼び出し音が部屋に響き渡った。正一は素早く懐から携帯を取り出し耳に当てた。何度か頷いていたかとおもうと、やがて潜めた声でぼそぼそと何かを呟いた。かすかに「静脈麻酔薬」という言葉が漏れ聞こえてくる。正一が電話を切るのを待ち構えていたように大輔が尋ねた。

「正一君、ここは圏外なのにどうして君の携帯はつながるの?」

 正一は穏やかな笑みを浮かべながら、懐から小さな箱のような物体を取り出した。

「衛星通信ルーターです。我々は日本中、どこにいても連絡が取れなければなりませんので」

 さすがは皇宮警察のエリートだ、用意がいい。

「ええと、どこまで話しましたっけ」

 正一が再び姿勢を正した。

「熱田神宮に剣を確認しにいったところだよ。それで剣は?」

 大輔は再び、正一の語る奇妙な物語に引き込まれていく。

「それが、正確には分からないのです」

「えっ、分からないとは?」

 正一の返答がもどかしく、つい声が大きくなった。

「天叢雲剣は漆塗りの木製の櫃の中に厳重に納められているのですが、古来より何人といえどもその櫃を開けて中を見ることは許されていないのです。歴代の天皇といえども開けることはできません。もちろん、熱田神宮の宮司も同様です。徳川綱吉の時代に数人の神官が剣を盗み見たという記録が残っていますが、全員、原因不明の病で亡くなったそうです。つまり、何人も櫃を開けて剣の有無を確認することはできないのです」

「櫃を開けなくても、今の時代ならX線とかで中を調べることができるのでは?」

「大輔さん、熱田神宮の神聖なるご神体である剣にX線を放射するなど、許されるわけがないじゃないですか」

「そりゃそうか」

「ただ、櫃には厳重に天皇の勅封がされているのですが、宮内庁の御物担当官が櫃を調べたところ、その勅封紙が何者かによって破られていることが分かりました。しかし結局、櫃の中身の確認は行われないまま、今生陛下の名において新しい勅封がなされました」

「じゃあ、実際に盗難に遭ったかどうかは分からないということ?」

「表向きはそうなっています。政府も何も公式発表をしていません。だからほとんどの人はこのことを全く知りません。ただ、その後も皇宮警察本部では極秘に捜査を進めています」

 ふと大輔は令和の新天皇即位時に宮殿松の間で行われた剣璽等承継の儀のニュース映像を思い出した。侍従たちが剣と勾玉が納められた木箱を頭上に恭しく掲げ、壇上に立つ燕尾服姿の新天皇に捧げるというものだった。

「しかし剣璽等承継の儀では確か天叢雲剣の納められた箱が新天皇に捧げられたのをテレビで観たが、五年前に既に盗まれていたとするとおかしいじゃないか。あの木箱の中は空っぽだったのか?」

「いいえ、ちゃんと入っていました」

「えっ、どういうこと?」

「剣は二本存在するのです」

 頭が混乱してきた。正一は何を言っているのだ。

「元々の天叢雲剣はもちろん一つしか存在していません。古の時代、大和朝廷の黎明期には天叢雲剣は宮中にて天皇の寝所に保管されていたのですが、記紀によると四世紀初めの崇神天皇の時代、神剣と同居するのは畏れ多いという理由で形代かたしろが作られたのです。形代とは言ってみればレプリカのことですが、ただのレプリカではありません。伊勢神宮で天照大御神の御霊を宿す儀式を経た神聖なるものです。それ以来、本物の剣は熱田神宮に、形代は宮中に保管されるようになりました。大輔さんがテレビで観た木箱の中には、宮中にある形代の剣が納められていたのです」

 正一は立て板に水のごとく、言葉を続けた。

「形代の話が出たので参考までにもう一つ。平安時代末期、源平合戦に敗れ都落ちした安徳天皇が壇ノ浦で海に身を投じた時、一緒に海中に沈んでしまった天叢雲剣も宮中から持ち出した形代でした。この形代はその後の海底捜索にも関わらず発見できず、結局、朝廷は新しい形代を伊勢神宮から献上されています。現在の宮中に奉安されている形代はこの時に献上された物です」

 そこまでしゃべると、正一は休憩するようにお茶をごくりと飲み干した。沈黙が流れる。大輔は剣を巡る気の遠くなるような悠久の物語に思いをはせた。人の目に触れることなく千数百年にわたり大切に相伝されてきた剣、想像もつかない世界だった。

 再び正一が口を開いた。

「宮内庁からの連絡を受け、僕はすぐに国光の鍛刀場を訪ねました。そこで床に倒れている国光を発見したのです。既に息はありませんでした。後日行われた検死の結果では、持病の動脈硬化による心不全とのことで事件性はないと判断されています。直前まで国光が修復作業を行っていた刀剣は見当たりませんでした。既に依頼者が引き取った後だったのでしょう」

「その依頼者に関する手掛かりは?」

「あります」

 正一の瞳がギラリと光る。

「現場にガラスのコップが一つ残されており、そのコップの表面に国光とは異なる人物の指紋が残っていました。早速、過去の犯罪者指紋データと照合しましたが、残念ながら該当者はいませんでした」

「それで、正一君が卑埜忌村に来ることになった理由は?」

「大輔さん、急かさないでください。順を追ってお話いたしますので。先ほど、天叢雲剣を納める木製の櫃の勅封が破られていたという話をしたと思いますが、この勅封は明治十四年に当時の太政大臣であった三条実美が明治天皇の名において封印したものでした。櫃の勅封には和紙と麻紐が使われているのですが、その切断面の酸化状況を科学的に分析したところ、勅封が破られてからおおよそ七、八十年が経過しているということがわかりました」

「今から七、八十年前と言うと、ちょうど太平洋戦争の頃かな」

 正一の目が再びギラリと光る。

「その通りです」

 その時、階下から柱時計の鐘の音が響いてきた。ボーン、ボーンと鐘が鳴る間、正一は黙って大輔を凝視している。鐘が十一回で鳴りやむと、正一は再びゆっくりと話し始めた。

「刀狩りのことは聞いたことがありますか?」

「刀狩りって、豊臣秀吉の?」

「いえ、違います。終戦直後のGHQによる刀狩りです。GHQは占領政策の一環として、日本人の精神性の象徴である日本刀を執拗に接収して破棄していきました。恐らく日本刀を軍国主義と皇国史観のシンボルと捉えたのでしょう。接収した日本刀を万力で破壊したり、ガソリンをかけて火をつけたり、海中に投棄したりと、それはひどい扱いでした。全国の神社などに奉納されていた歴史的名刀も例外ではありません。この悪名高い刀狩りによって我が国の多くの貴重な刀剣が失われてしまったのです。そして皇国史観の最高位に崇められていた剣が天叢雲剣です。昭和天皇はGHQによって天叢雲剣が接収破棄されることをひどく恐れ、侍従の小出英経に命じて極秘に剣を熱田神宮から岐阜の水無神社に移すことを決断します。この時に実際の移送とその警護を任されたのが、帝国陸軍の東海軍管区司令部の岡田資中将でした。極秘任務だったため、岡田中将は目立たぬよう若い兵士を二人だけ連れて警護に当たりました。そして天叢雲剣は昭和二十年八月二十二日から九月十九日までの約一か月間、熱田神宮を離れ水無神社に隠されることになります。やがて日本政府の必死の説得により、GHQも美術品としての日本刀の価値に理解を示し、刀狩りは収まることになります。そして天叢雲剣も再び熱田神宮に戻ることになるのです」

「つまりその時の移動時に誰かが勅封を破って剣を奪ったと?」

 正一がゆっくりと頷いた。

「僕はその可能性が高いと考えています。普段は厳重に熱田神宮の本宮に勅封されている天叢雲剣です。この時を除いて外部の人間が櫃に触れることができた機会は他にないはずです」

 正一はきっぱりと答えた。確かに敗戦でそれまでの日本のあらゆる統治機構が瓦解し、連合国軍もまだ上陸してきたばかりの無政府状態に近い混乱期のことだ。どさくさに紛れて剣を奪うことは可能だったのかもしれない。

「その時、岡田中将と共に天叢雲剣の移送警護に関わった二人の兵士の名簿が宮内庁に残っていました。一人は酒井勝重少尉です。ただ、酒井少尉は九月十八日に水無神社で不慮の事故で亡くなっています。翌日に剣を熱田神宮に戻すという、まさにその前の日の晩です。宮内庁の記録には、酒井少尉は落雷に遭って心肺停止となったとだけありますが詳細は不明です。不思議なことに気象庁に残るデータを調べると、その晩東海地方は快晴だったと記録されていますので、落雷死というのはいささかおかしな話なのですが。そして同行していたもう一人の兵士の名前が」

 そこで正一は一呼吸置き、大輔を真正面から見つめた。大輔は思わずごくりと唾を飲み込んだ。

「当時まだ二十歳だった輝龍秀全一等兵です」

 大輔の全身に鳥肌が広がり握っていた拳がブルブルと震えた。尾呂血神社先代宮司、輝龍秀全、やっと正一の話の全貌が見えてきた。

「それでは輝龍秀全が剣を奪ったと?」

 思わず声が上ずった。

「今の時点では、あくまで僕の推測に過ぎません。より踏み込んだ確証を得るために今回、卑埜忌村まで来たという次第です」

 そう言いながらも、その瞳は自信に溢れていた。

「でも、そんな重要な極秘任務に当時二十歳の若い兵士を抜擢するというのも変な話だな」

 気になった疑問が自然と口をついた。

「いえ、あながち不思議ではないと思います。当時は護衛任務を任せられる健康な兵士が本土にはもうほとんど残っていなかったという事情もありますし、大切なご神体である剣の移送に宮司の家柄の秀全が選ばれたということも考えられます。それに岡田中将と輝龍秀全は同郷です。岡田中将は鳥取生まれで、陸軍士官学校に入るまでを地元で過ごしています。恐らく、同郷出身の秀全に目をかけていたのではないでしょうか」

 正一はそう言うと浴衣の懐から一枚の紙のようなものを取り出し、そっと大輔の前に置いた。それはセピア色に変色したモノクロの古い写真だった。詰襟の軍服に勲章を幾つもつけた初老の男が軍刀を手に中央に座っており、それを取り囲むように立つ四人の兵士の姿。

「終戦間際に東海軍管区で撮られたものです。中央の人物が岡田中将。そして左の隅に立っているのが輝龍秀全です」

 大輔は左隅に写っている男に目をやった。カメラを射抜くような鋭い瞳、強固な意志を感じさせる厚い唇、そして周りの男たちと比べても抜きんでた剛健そうな体躯。写真の中からでさえ、その男の放つ強いオーラがこちらに伝わってくる。大輔は写真の中の秀全と岡田中将の姿を交互に見やりながら呟いた。

「秀全が実際に剣を盗んだとすると、岡田中将もそのことを知っていたのかな?」

「それは分かりません。岡田中将は直後にB級戦犯としてGHQに拘束され、その後、巣鴨プリズンで絞首刑となっています。今となっては、闇の中です」

 正一は深いため息を一つつくと、更に話を続けた。

「この輝龍秀全という人物はなかなかのやり手だったようです。戦後すぐに尾呂血神社の宮司職を継ぎ、三十歳になると村長選挙に立候補し当選しています。その後、長きにわたり村長職にとどまり、村の発展に貢献してきたようですが、その裏ではかなりきな臭い噂も付きまとっていたようです」

「きな臭いとは?」

「恐喝です。当時は今とは比べ物にならないくらい、地方政治の場では腐敗や利益誘導が日常茶飯事に起きていた時代です。県会議員や知事が票の買収などの公職選挙法違反をしたり、県予算の発注権限を悪用して談合業者から裏金を得て私腹を肥やすようなことも度々あったようですが、まだオンブズマン制度なども存在せず、こういったことはほとんど公にはなりませんでした。秀全はそういった情報を目ざとく手に入れ、裏で鳥取県政の重鎮たちを恐喝していたようです。ただ、恐喝と言っても秀全自身が私腹を肥やすわけではなく、交付金や補助金といった形で卑埜忌村への多額の財政支援を引き出していたのです。秀全はそうやって増額支援された財政資金で村の公民館や学校などを整備するとともに、余剰金の投資運用にも力を入れていたようです。証券会社から怪しい損失補填などの便宜も引き出していたようですが、結局、バブル崩壊前に全てを売り抜け潤沢な村の財政を築き上げたのです。今ではその時に築いた豊富な余剰金を基金として、村内の医療費や教育費などの無料化に成功しています。まあ、卑埜忌村の住民にとってはありがたい貢献者と言えるのでしょう」

 崇めるように秀全について語っていた三郎の顔を思い出した。

 再び階下から柱時計の鐘の音が響いてくる。正一は鐘の音を数えるかのように目を閉じた。鐘はゆっくりと十二回続いた。鐘が鳴り止むと正一は再び瞳を大輔に向けた。

「今日はもう遅いので、これにて失礼します。明日はどうぞよろしくお願いします」

 正一はそう言うと写真を懐に戻し、立ち上がろうとした。

「正一君、できたら先程の衛星ルーターをちょっとだけ貸してくれないかな。仕事の電話やメールが溜まっていないか確認したいので」

「分かりました。明日の朝にはお返しください」

 正一はルーターを大輔に渡し、静かに自分の部屋に戻っていった。


 大輔は早速、自分の携帯電話をルーターに接続した。心のどこかで美穂から連絡が入っているのではないかと期待したが、それらしいものは何も見つからない。その代わり編集部からの幾つかのメールと留守電が残っていた。まず留守電を再生するといきなり編集長の怒声が耳に飛び込んでくる。原稿締め切りが過ぎているにもかかわらず連絡一つよこさない、とすごい剣幕だ。お前の代わりはいくらでもいるぞ、との捨て台詞でその怒声は途切れた。メールの中身も概ね似た内容だった。いつもの大輔なら青くなるところだったが、今はそれどころではなかった。美穂のことがもう少しはっきりするまではとても原稿を書く気にならない。そのままメールを閉じた。

 電気を消して横になったが、先程正一が語った突飛な話が頭の中を駆け巡り、とてもすぐには眠れそうになかった。仕方がないので再度携帯をルーターに繋ぎ、剣に関して少し調べてみることにした。

 須佐之男命に退治された八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣は、姉の天照大御神あまてらすおおみかみに献上され、八咫鏡、八尺瓊勾玉とともに三種の神器として大和支配家の統治の正統性を表すレガリアとして伝世されていく。そして四世紀初頭、伊勢神宮が創建されると剣は伊勢神宮に奉安され、代わりに宮中には形代が置かれるようになる。四世紀中期の景行天皇の時代、天皇の妹である倭姫命やまとひめのみことは東征に出かける日本武尊やまとたけるに天叢雲剣を授ける。野中で火攻めに遭った日本武尊は剣で草を刈りはらい炎を退けた。この時より天叢雲剣は草薙剣とも呼ばれるようになる。日本武尊の死後、妻の美夜受比売みやずひめは尾張の地に熱田神宮を創建し、剣を奉安する。その後、剣は熱田神宮のご神体として祀られ続けるのだが、七世紀後半、熱田神宮で剣の盗難未遂事件があり、天智天皇が一時的に剣を宮中に移管するという騒ぎが起きる。そして弟の天武天皇は即位すると剣を宮中の内裏に移すのだが、間もなく病に倒れ崩御する。一説には、あまりに身近に剣を置いたことにより剣の祟りを受けた為とある。剣の引き起こす災いに対する恐怖から剣は再び熱田神宮に戻され、櫃の中に厳重に収められ二度と開けられることはなかった。以後、剣は熱田神宮を離れることはなく、唯一の例外として正一が語った通り昭和二十年の八月から九月にかけて一時的に水無神社に奉遷されただけだ。

 大輔は天叢雲剣のおおよその歴史を辿ってみたが、ある記述が妙に頭に引っかかった。天武天皇が剣を身近に置いたための祟りで崩御し、その後、災いを恐れて剣は熱田神宮に戻されたという記録だ。天叢雲剣は天皇家を守護する存在ではないのだろうか。何故、手元に置くと災いが起きると恐れられたのだ。そもそも皇室のレガリアであるにもかかわらず、天皇本人でさえ剣を実際に目にしてはいけないということも奇異に思える。どうも納得できなかった。

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