ちょっと借りるよ

三奈木真沙緒

いいだろ、ちょっと借りるくらい。

 あまりの痛みにオレは悲鳴を上げていた。

 目の前が真っ赤に染まっている。畜生、ももを食いちぎられた。

 そもそも、なんで、こんな溜池ためいけにカミツキガメが、こんなに何匹もいやがるんだ。誰かが投棄しやがったな。あそこだ。すぐ隣のマンションの住人に違いない。あそこはマナーのなってない奴らばかりが集まって暮らしてやがる。あいつらのせいでオレはこうして、えらく成長した5匹ものカミツキガメに襲われているってワケか。デカいのは、甲羅だけで直径20センチくらいはありそうだ。

 何もかも、このカサが悪い。まだオレの足首にひっかかってやがる。こいつのせいで、オレはよろけて、溜池に転がり落ちたんだ。なんで、歩道と溜池の間に柵なりガードレールなりがないんだ。国か地主か知らんが怠慢だろう。

 くっそ、治療費だけじゃ済まさねえぞ。



 だいたい、そこのマンションの奴らがバカばっかりだからだ。ゴミが回収されてねえなら、苦情くらい出せっての。

 オレが車を駐車場に停めたときには、雨は上がっていて、カサは必要なくなってたんだ。だから捨てようと思ったんだよ。ちゃんとゴミ置き場に捨てるぜ。オレはあの住人たちとは違うからな。

 どういうわけか、オレの住むアパートは駐車場と離れていて、この溜池とマンションが接する道路を歩かなくちゃならねえ。なんでだよ。アパートも駐車場も、そのへん考えてから工事しろよ。

 で、溜池のすぐそばに、マンションの外壁にくっついてゴミ置き場があるんだよ。マンションがでかい分、ゴミ置き場もでかくて、扉が付いていて、立ったまま中に入れるヤツだ。そこに、いらなくなったカサを捨てようとしたら、ほかのゴミはきちんと回収されてほとんど空っぽなのに、扉のすぐ近くにカサが何本かだけ、立てかけて放置されていた。そいつが、オレが扉を開けた途端に、倒れかかってきやがった。畜生め! しかもなんか見覚えがあると思ったら、以前オレがここに捨てたカサばっかりじゃねえか。1か月以上も放置なんて、ゴミ収集業者もちゃんと仕事しろよ!

 オレはもう1本、今日使ったカサをそこに押し込もうとしただけなのに、何度やってもカサがオレに倒れかかってきて、扉が閉められねえ。いい加減腹が立って、カサを力づくで蹴りこんで、無理やり扉を閉めたんだ。そのはずだったのに、たった今捨てたばっかりのはずのカサの柄が、足首にからみついてやがった。あっと思ったときには、歩道じゃなくてカサを踏んづける形になって、オレはよろけて、溜池に落ちるハメになったってワケだよ、クソッたれが!



 ああ、このカサがケチのつき始めだったってことか。

 午前中に、車で病院に行った。天気予報で雨だって聞いていたけど、この後会社に戻るまでは大丈夫そうだったんだ。それなのに、健康診断の結果を受け取って、帰ろうとしたら、どしゃぶりの雨じゃねえか。ふざけんじゃねえ! オレが歩かなきゃいけないときに降らなくてもいいだろうに。しょうがねえから、出入口そばのカサ立てから1本拝借したんだよ。白っぽくて、よく見りゃ女物だったかもしれねえけど、そのうち返しゃいいだろって、あのときはそう思ったんだ。ついでがあって覚えてたら、の話だけど。

 助かったぜ。車まで無事たどりついて、運転して、病院の前を通りかかったら、出入口の近くに、赤ちゃん抱っこした若い女が、途方に暮れたような顔で立ちすくんでいるのが見えた。カサ忘れちまったのかな。気の毒にな。天気予報はちゃんと見なきゃダメだぜ。なんだったら、オレみたいに1本、そこから借りればいいのに。――なんだかオレの方を感じの悪い目で睨んでいたような気がするけど、運転中だったし、会社に戻らなきゃいけなかったから、いちいちかまってらんねえよ。赤の他人に送迎でもさせる気だったのか? 図々しい。自分の面倒くらい自分で見ろっての、甘ったれが。胸糞悪ぃ、と思ったんだよ。



 ――てことは、オレがこうやってカミツキガメに襲われてんのは、このカサの持ち主のせいじゃねえかよ! オレをこんな目に遭わせやがって、どいつもこいつも地獄に落ちろ!


 畜生、脚に力が入らねえ。誰か助けてくれ、誰か……。

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