一話


 其のほゞ同刻、何とも判別の付かぬ夜明け前特有の鳥類の囀りが響き渡った際も、その直ぐ後ろを追いかけて日差しが遮光布の間隙から軽く部屋に差し込んだ際も、そして随分時間が経って助手が部屋の扉に手を掛け無造作に取り付けられたる呼び鈴が鳴り響いてから漸く、男は起き上がった。「起きて下さいよ」と一声掛けられるを契機に顔を覆っていたハンケチを畳んで仕舞って、それから何度目だろうか、又も蓋をせずに放り出してしまって乾ききった万年筆と書類を他所へ遣ると、両手を寄り合わせて「今何時だろう」と鷹揚な声で尋ねた。


「フン…聞かない方が良いでしょう」と鼻を鳴らすように助手は応じる。すると男の方はじゃあ止めておこうか、なんと云いながら後背の棚戸を開いて探り、目当てを手に取ると建付けの悪くなった戸を又荒っぽく枠に押し込んだ。


「然うだ、診断書は仕上げてくれたのかい?」

「上に置いて有りませんか」

「――嗚呼ウン、これで善い。有難うね」

「お礼の必要なモンじゃ有りませんよ」

「いや私はただ…」


 博士が言葉を繋げようとする中途を遮ったのは開かれた儘の扉をわざとらしくノックする音、来訪者が自身の存在を知らせる為の音である。来訪者は焼き付いたような薄茶ベージュの背広姿で、首下とは外した色合いの帽子を脱いで柔らかく折り畳んでから握り込んでいる。この手の慇懃さを殊更示すような仕草は相手の本質、警官としての職業的作法を明らかにしていた。


「ヤア先生、済みませんね朝早くから」

如何どうされました?」

「少々、お時間頂けますかな」と背広姿は奥の仕切りのある小部屋に目配せし、博士は助手に軽く目線を遣ってから男を自身のオフィスへと案内する。


 全く困った話です、と云いながら男は戸棚を探って首を傾げたけれど博士が意識の隙間を埋めるように取り出した壜を見ると破顔して、座面が壊れていて座る度カーニバルの如く騒ぎ立てる椅子に体を深く預けると灰皿の上で煙草を巻き始める。

「お医者様何て云うのはみんな"飲んだくれ"なんですか?」

向こうロンドンでは確かにそうでした、検視台から人が消える度に壜も消えて往くんですから」

「随分な御仕事ですな。迎え酒で死人も生き返る、そんな訳でしょう」

「喩え生き返っても頭痛でもう一度眠りたくなるでしょうね」

 ハハハ、と刑事は笑ってみせて直ぐ相手方に質問をさせるような顔つきに面相を変えた。これも警官としての能力の一つではある。


「野暮用、と謂うんじゃないんでしょう?」

「取るに足らないモノが何処かの誰かにとって意味を持つ時も或る、そんな話でしょうな」

「一事が万事、そういう事も或るだろうね」

「ええ。ですから今度協力頂きたいのはですね…」と刑事が取り出したのは一つの封筒で緘書されていない中身がスルスルと抜け出してきた。博士はその一枚を何気なく奪い取ると瞼を細めて目線を遠くする。

「之は検案書(個人の死亡を証明する書面)じゃないですか。遺体も無いのに?」

「ええ、ですが見て下さい。まだ署名サインが有りません」

「私と何の関係が?」

「書類なんて云うのは何時も、誰かの署名が必要なんですよ。先生」


 博士は静かに書面を畳んで立ち上がり、吊られてある刑事の外套に突っ込んだ。

「先生の協力が必要なんです」

「他の連中に頼んでは?」

「いえ――」刑事は手元の火種が落ちて仕舞うのを見届けてから話を続ける。「――そういう問題で無いのはお判りでしょう?」

「私ではお力にはなれません」

 刑事は息を呑んで続けた。

「之は然る方からの紹介です、それも首を横に振れますか」


「あゝ成程。例の検事だろう、そうだろう?」

 そう云うと高気圧の所為だろうか、若しくは圧縮された空気で部屋が息苦しくなってきたのだろう、博士は窓辺まで寄って行って外の乾いた空気を肺胞を満たす程吸い込んだ。向き直るのを待って刑事が再び念を押そうとすると部屋の外に目を遣った博士に手で制止される。顔を向ける間もなく後ろの硝子戸にドンドン、という衝撃が奔り同時に部屋の扉が開かれた。


「もう…、ってアラ?」と分かり易く手に口を当てた少女は、助け舟を待つように博士を見つめ、直ぐにも彼が動かない事を理解すると刑事に頭を下げた。

「御免なさい、人違いをしてしまいまして」

「いやいや。構いませんよ、お嬢さん。私もそろそろ失礼する所ですから」そう云うと刑事は立ち上がりおもむろに博士に近づいて「一度頭を冷やして、考え直されては如何でしょう」等と小声で耳打ちする。そして封筒を机に強く押し付けると、また明日にでも!と云いながら今度こそ部屋を出て行った。


「お邪魔しましたから」と少女は肩をすぼめる。

「ウン。君には此処へは来てくれるな、と言い含めて於いたけれどね」

「まあ嫌だ、そんな事云うんですか」

クレちゃん――」と博士が云うや否や少女は顔を顰める。「――勘弁してくれないか」

「まだ子供扱いなさるのね。私立派な淑女レディですのに」

「そうじゃない、とは云っていないだろう」

「朴念仁にはもう構いませんから」

 そして彼女は刑事の置き土産を攫うように手に取ると中身を机に広げた。


「ほら。また勝手に」

「あら叔父様怒るんですか?そんな所は見た試しありませんけれど」と云ってクスクスと笑いながら、しかし目は机に釘付けの様だった。

「見て面白いモノでも無いだろう」とと少女は振り向き、彼女の好奇心に満ちた目が博士を捉える。


「叔父様。之って例の怪奇現象とやらじゃありませんか」

「怪奇でも何でもないだろう。只の事故サ」

「ニュースも御聴きにならないんですの?巷で噂の"人体発火"でして」

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湿気た火薬入りお化け 三月 @sanngatu

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