第22話 無銘の画家ネームレス
軽やかな音楽は人の心を奪う、不快な演奏は人の心を狂わせる。
ならばただ一人、自分のためだけの演奏があったとするなら、それを聞く人間はどんな感想を抱くのだろうか。
「la~la~♪」
ピアノの演奏と共に歌詞があるわけではない、口ずさむようなそんな歌。ただ一つ今までと違うのは彼女の演奏が邪魔されぬように何か大きな影が彼女を守っていること。
まるで魔王のような、そんな何か。
「いいね、さすがにボクも気分があがッてきたよ。」
ここまでの戦闘で全て退屈の紫で彩られていたその筆に別の色が宿っていく。
「今の気分は…高揚、歓喜の赤だ。」
情熱的なほどの鮮烈な
「さァ、ここからが僕の…」
途端にネームレスが自身の左腕を見る。
「うん…?」
何も起きていない。遠目から見ていて何も起きていないからこそ恐ろしい。
「成程ね、急がないと。」
ネームレスが覚悟を決めるが彼以外の誰にもその決意の真意は見えてこない。
「la~♪」
歌は止まない、何かが始まっていることは確かなのだが。
「題名―悪魔の右腕―」
虚空から何かがひび割れる様に亀裂が入り、そこから先をネームレスが描けばまるで実際に宙を割って腕が現れた様に突き出てくる。
その勢いのまま演奏を続ける彼女につかみかかろうとするが影しか見えぬ魔王が阻む。
腕に攻撃を加えようとはしないのだが、しかし彼女への攻撃だけはしっかりと防ぎ続ける。魔王とは名ばかりのまるで彼女を守る騎士のように。
「だッたら題め…」
ネームレスの言葉は続かない。だらり、と。左腕をだらしなく垂れ下げる彼はやがて右腕も力なく下げて筆を取り零す。
「…そういう歌なんだね。アイビー。」
「la~~♪」
立ち尽くす彼の顔はどこか穏やかだった。死を前にすると人は様々な顔を見せる。慌てふためく者、怒り狂う者。
そして穏やかに末路を受け入れる者。
ガクリ、と膝から崩れ落ちる。
彼女の歌は彼の神経を奪っているのだろう。だからゆっくりと腕が動かなくなり、そして次は足が動かなくなる。
仰向けに倒れたネームレスに最早なにも描けない。
「あァ…暗い。何も見えない。」
「la~~~la~~~~~♪」
視覚すら奪われた今。どうすることもできはしない。ゆっくりとした死。死は人生の終着であることを思えばこれが彼の死という芸術だと、アイビーはそういうのだろう。
演奏は終わり、歌も止む。ゆっくりと立ち上がって魔王に先導されるように彼女はネームレスの下へと向かう。
「どうでしょう、貴方だけの曲は。体は動かず眼は見えない。匂いすらも感じられず残されたのは耳の感覚だけ。私の声を聴くしかできない哀れな子。」
「ハハハハハハ!!!!!!」
突如、死を待つ彼が笑い始める。気でも狂ってしまったか。誰もがそう思う中で彼は言葉を紡ぎ続ける。
「やっと!やっと理解できた!光を喪うというその感覚!目をつむッただけの偽りのそれとは違う!どれほど目を見開こうとも光の一つも手に入らない恐怖!!」
狂気的、そう表現するほかにない。もうこの場にいる誰も彼に共感できるものはいない。どこか遠くへと、異なる次元に飛び立っている。
「感謝するよアイビー!!これで、これでシャミアにもっと良い画が!世界が魅せられる!!!より深く、洗練されたボクだけの世界に!!!!」
いつも気だるげな彼からはとても想像できないほどの絶叫。心からの叫びはきっと
「まずは彼女の前にリハーサルをしなくッちゃァいけないよね。特別に魅せてあげよう。この場にいる全員に。」
ぐにゃり、と視界が歪む。俺を含めたアイビーから観客に至るまで全員。その全員の視界が歪む。
歪みに歪んで耐えかねて瞬きをすればそこには別の世界が広がっていた。
白と黒。ただそれだけ。
何もかもの色を失ったような山水図、そのなかでネームレスは立って筆を握っていた。
「なっ…!どうして!何もかも奪ったはずなのに!」
「此処はボクの世界なんだ、ボクが立っていると思えば立つし、腕が動くと思えば動くんだ。」
「そんなことが…。」
「ここから帰ッたらさっきの僕に元どォりだけどね。でも気を付けた方がいい、ここで死んだら現実の体も誤解するよ。自分は死んだのだ、ッてね。」
「…ッ!」
彼女は急いで距離をとり再びバイオリンを取り出す。ピアノよりも効果があると考えたのだろう。
「さすがにボクもここで死んだら死ぬけどね。さて、」
彼は再び筆を振るう、ただ一色、白の毛先に深い黒を携えて。
「第1楽章!燃え盛る…」
バシャッ!と黒がアイビーの足に降りかかると同時に足が機能を失い当然、地面に倒れてしまう。
「な…まさか…。」
「黒は喪失。君から着想を得た新たな世界の色だ。こんな風に彩れば」
バシャバシャと彼女に黒が色づけばどんどん機能を失っていく。やがて完成した彼女の姿は真黒な血しぶきを上げているようだ。
「君はもう動けない。」
新たな世界の中で彼女は全てを喪った。
「…降参はしないわ。殺しなさい。」
地に伏していようが気高さを失わない彼女の姿を笑う者はいないだろう。
ネームレスはそのまま彼女の下へと近づいていくと、
「降参、ボクの負け。」
「は?」
両手を上げておどける彼に観客はどよめく。
「確かに今から君を殺すこともできるけど、そうじゃない。確かに僕は自分の事しか描けない。誰かのために画を描くことなんてできないんだ。あくまで自分の世界を見せるだけ。でも君のおかげで
君を題材に描いてみたい画もあるし。
そうやさしく語り掛けたあと彼はもう一度筆を振るうと彼女にかかった黒の上から白が色づいていく。
「白は始まり、喪おうとも歩き始める意思の表れだ。」
世界が歪み始める。彼が見つけた世界から元の世界に戻り始める。
◆◇◆
大闘技場に戻った俺達の視界に映ったのは倒れ伏したネームレスと立ち呆けるアイビー。
「こーさーん!おしまいおしまーい!助けてよラグナロクー!」
倒れたままでオッサンを呼ぶ彼はどこか晴れやかだ。
「いえ、その必要はありませんわ。」
もう一度彼女は指を鳴らしてピアノを呼び出す。
「アンコールは本来受け付けませんが…特別です、もう一曲だけ弾いてあげます。」
何処か気恥ずかしそうな彼女は音を紡ぎ始める。
「曲名は…」
―
「演奏と歌手はアイビーで御送りさせていただきますわ。」
喪ったものを与える歌は他のどんな曲よりも優しかった。
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