第18話 結婚の後で

 結婚すれば、幸せになれると思っていた。


「おはよう。朝ご飯できてるよ。」


 起きたら、健吾が笑顔でそう言った。ご飯にお味噌汁、卵焼き。ゴミも、もうまとめてくれている。完璧な、朝だ。


「おはよう。ありがとう。」


 そういうと、健吾は嬉しそうに笑う。結婚を機に実家を出た。家事がまるでできない私をよそに、一人暮らしが長かった健吾がほとんどしてくれている。私より、勤務時間が長いのに。


「梨花は、全部のことにありがとう、っていってくれるから、やりがいがあるよ。」


 私のありがとうにどれだけの価値があるのだろうか。でも健吾はそう言って笑うのだ。どこまでも優しい人だ。とても。誰が見てもきっと優良物件だというだろう。そんな人がどうしてこんなにも私に尽くしてくれているのか、私にはさっぱりわからない。結婚したら、苗字を渡したら、彼に少し返せるような気がしたのだ。この真綿のような愛情に。


 多分私は欠陥品なのだ。よく物語であるような激しい情愛を私は感じたことがない。健吾だけではなく、誰にも。仕事にも、勉強にも、そのほかのどれにも。


「じゃあ、いってくるね。」


 当たり前のようにゴミ袋を持って彼は言う。私は朝ご飯を食べている手を止めて、彼を玄関まで見送る。


「いってらっしゃい。」


「うん、いってきます。」


「ねぇ、幸せ?」


「めちゃくちゃ幸せだよ!」


 最近、癖のように聞いてしまう問いに彼は笑顔で答えて、私にキスをして家を出た。私は、朝ご飯の続きをする気になれなくて、換気扇の下、煙草に火を点ける。厳しい家だった。煙草なんて許されなかった。だから、駅の側にある喫煙所でそっといつも吸っていた。夜空が眩しいな、と思いながら。健吾とデートした後でも。喫煙を健吾は咎めなかった。駅の側の喫煙所が撤去されてしまった後、彼は「うちの換気扇の下で吸っていいよ」といつの間にか彼の部屋には灰皿が置かれていた。誰にもばれていないと思っていた私は面食らった。それでも吸わない彼の前で吸うのは申し訳なくて、お泊りした日など、彼が眠りについてからそっと吸っていた。静かな夜に換気扇の音だけ大きく聞こえて、なぜかとても落ち着いた。


 結婚した今でも、彼の前では吸わない。吸っていることは吸い殻でばれているとは思うけれど、彼は、「俺の前でも吸っていいよ」とは言わない。


「梨花。」


 そうやって私を呼ぶ、彼の笑顔はどうやったら私に移るのだろうか。あの幸せそうな笑顔は。彼は知らない。私が、彼に煙草を咎めて欲しいことを、そして、少し、私を嫌いになってほしいことを。


 ごうん、と音を立てて換気扇は私の吐き出す白い煙を吸い込んでいく。そのまま、全部吸い込んでほしい。私の心にある、薄暗い何かを。フィルターとキスしている方が、落ち着くなんて、そんなの、なんか。


 残った朝ご飯がテーブルに残っている。私、朝ご飯、そんなにいらないんだ。だけど、捨てるのは申し訳ない。


「残してくれていいんだよ。」


 そう、彼は言うけれど、量を少なくはしてくれない。だから、全部口に入れた。とにかく、すべて胃の中に収めた。

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