17. 狩りの合図

 蕎麦屋の店主から話を聞いたあと、僕と加藤さんはネコテック社の前に戻ってきた。


 すっかり夜になり、空を見ると細い三日月が浮かんでいた。


 僕はウェストポーチを開き、霜月を確かめてから、懐中電灯を出した。




 しばらくして、やっと黒が現れた。


「待たせたな、翠。――で、どうなってる?」

「いまは、リティを待ってるんだけどさ。リティが来たら、はじめるよ。……それと、蕎麦屋さんから話を聞いたんだけど」

「蕎麦屋? どういうことだ?」


 僕は通り向かいのビルを指さした。


「加藤さんにさ、あそこの蕎麦屋へ連れていってもらったんだよ。そこの店主のおじいさんに、旧鼠塚のことを聞いて……」

「旧鼠だと?」

「え? 聞いたことあるの?」

「ああ。旧鼠ってのは、長く生きた鼠が化けた、ようは化け鼠だろ。それくらい知っとけよ」

「化け鼠!」

「ああ。やっぱり、あやかし、って言うか、妖魔絡みの話のようだな」

「――そうだよね。やっぱり。それに、そうだ! 黒に見てもらいたいものがあるんだ!」


 僕は向き直ってネコテック社のほうを見た。続けて、ビル横の隙間へと目をやる。


 僕はビルの隙間へと近づき、暗がりを懐中電灯で照らした。エアコンのダクトが奥のほうから伸びてきている。


 隙間の先には、剥き出しの地面が見えた。やはりそこから、ただならない妖気が、暗ぼったいもやのように漂ってきている。


「おじいさんの話だと、旧鼠塚っていうのが、このビルの場所にあったんだって。それを建て壊して、小さくして、そこに移動したらしくて……」


 黒もそのへと目をやり、


「なるほどな。ビルの下。あるいは、その地面の下には、ろくでもねえもんが埋まってそうだな。――しかし妙だな。ふつうは、要石みたいなものを置いて、封じておくもんだ。なにか、あそこに置いてあったんじゃねえか?」

「たしかに。そう言われてみると、そうかもね……」


 そのときビルの隙間の、地面の先から甲高い鼠の鳴き声がした。


 そこには灰色の大柄の鼠がおり、僕らを見上げていた。また、そいつの横のビルの壁には、小さな穴が空いていた。


 鼠どもは、その横穴からビルの内部やネコテックの事務所に出入りできるのかもしれない。


「これじゃ文字通り、筒抜けだな! 近所の鼠が、あの穴から引き寄せられているんだ!」


 その黒の焦った声に呼応するように、さらに穴の中から鼠が現れた。三匹、四匹、五匹と……。


 また、鼠たちはから立ち昇る妖気を吸っているようで、様子がおかしかった。目が赤く、口元を細かく震わせていた。――錯乱しているみたいだ。


 そのとき、鼠たちは僕らに向かってきた。


「黒! こっちにくるよ!」


 霜月を出そうとウェストポーチに手を伸ばす。そこで黒の声。


「おい! 気をつけろ! 上だ。上からも!」


 あわてて見上げると、ダクトを伝って別の一匹が走ってきていた。


「うわッ」そう叫んだときにはもう、鼠はジャンプしていた。


 僕の肩に鼠が飛び移ってきた。そいつはカリカリと僕のシャツを引っ掻き、首元に迫ってきた。そうこうしているうちに、僕の足元に別の鼠がしがみついてくる。


「気をつけろ! 噛まれたら伝染病になっちまうぞ!」


 そう言って黒が、鼠を払うように手を伸ばしてくる。しかし、そんな黒も叫び声を上げた。


「うおッ。こっちにもきた! やべえ!」


 黒にも、別の鼠がダクトから飛び移ったようだ。




 ――そのときのことだ。


 突如として目の端に影が走った。一陣の風が流れてきたかのようだった。


 すると、僕の首元にいた鼠の感触が消えた。


 少し離れたところに、その影は着地した。



 ――それはリティだった。リティは小豆色のジャージの上下を着て、白いスニーカーを履いていた。右手と左手にそれぞれに、鼠の体を握っていた。指先には鋭い爪がのび、ぎらりと鈍く光っていた。


 おそらく、リティが一瞬にして、首筋の鼠を剥ぎ取ってくれたのだ。両手の二匹のうち、もう一匹はおそらく、黒に取り付いていた鼠だろう。


 さすがの敏捷さに、僕は驚嘆するしかなかった。


 リティは両手の鼠をビルのほうに投げ飛ばし、鋭い声を発した。


「シャァァーーッ!」


 まさに猫そのものの、恐るべき威嚇の声だった。


 すると、僕の足元に取りついていた鼠たちも地面に逃れ、警戒するように距離を取りはじめた。




 僕らはネコテック社から離れた、歩道へと集まった。


 加藤さん、黒、それからリティがいる。


 僕はリティに言った。


「助かったよ、リティ。さっきはありがと……」


 するとリティは腰に手を当てて、


「へへ。あたし、結構やるでしょ!」

「ああ。ほんとだよ。すごかったよ」

「もう。ぼうっとしすぎなんだよ、翠くんは」


 次にリティは、加藤さんを遠慮がちに見た。加藤さんはこくりとうなずいた。


「準備が、できたってわけか……」

「はい。いつでも」


 そう言って、リティはネコテック社のほうに目をやった。先ほどの鼠たちがまだ、憎々しげにこちらを見ていた。リティはふいに振り返って、


「翠くん……」


 僕は急に話かけられて、どぎまぎとなってしまったが、落ち着いて答えた。


「――リティ。ついに、やるんだね」

「うん。もちろんだよ……。あたしは、エミのために職場を守る。――じゃないと、エミが悲しすぎるよ。そうでしょ?」



 リティは僕らから離れた。会社とは反対のほうへ、歩道を歩いていく。


「リティ……。きみは……」


 そんな僕の声には振り向かず、そのままリティは遠ざかっていった。



 やがて、その同じ場所から一匹の茶色い猫が現れた。猫に変化した――いや、猫の姿に戻ったリティだ。


 リティは僕らの目の前にやってくると、ネコテック社のほうを見て、


「ナーアーアー」


 と長く鳴いた。


 すると、周囲からたくさんの気配が集まってきた。見回すと、闇の中にいくつもの光の粒が浮かんでいた。


「うお! 来たな……」


 と黒の声がする。


 周囲に浮かぶ光の点は、無数の猫たちの目だった。



 猫たちは低く唸りながら、リティを囲むように、次々に集ってきた。


 僕は遅れないように、リティの背中を追いかけた。会社のドアを開かなければいけない。


 リティたちが狩りをするために。

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