11. 猫の森

 リティが指定した場所は、品川区にある海浜公園。時間は夜の九時だ。


 定食屋で食事をすませたあと、僕は電車を乗り継ぎ、海浜公園へと向かった。


 そこは豊かな森に囲まれた、猫が集まる場所としても知られていた。


 もし昼間だったら、この上ない憩いの時間となっただろう。



 ぬるい夜風のわたる夜の公園を進む。空には星が光るが、公園の中は暗い。


 街灯が少なく、すれ違う人の顔もわからない。



 やがて目印にしていた、噴水が見えてくる。


 噴水の北側の森。そこが目的地だ。



 噴水の周りには人々がまばらにいた。恋人たちや、散歩にきた人々たちだろう。


 そこから僕は、うっそうと広がる北の森に目を向ける。


 リティのメッセージのとおりならば、その暗い森の中で待っているのだろう。


 そこで僕はリティの茶色がかった髪や、丸く大きな目を思いだす。


 ――加藤さんは、リティが襲いかかってきたと言った。


 けれど、がそんなことをするのだろうか?


 相原絵美さんのために、人間の世界に溶け込もうとする、あのリティが……。



 僕はサブバッグを引き寄せ、上部のチャックを開けて、霜月をすぐに取り出せるようにする。


 戦いたくなんてない。そんなことはイヤなんだ。


 ――けれど。



 僕は森の中へ足を踏み入れる。


 都会の中にあって、まるで異界のような薄気味悪さだ。


 枝や落葉を踏む音がひびく。遠い虫や鳥の声。

 

 濃密な土や緑のにおい。


 ぴりぴりとするような、獣のにおい。


 ――いけない。備えなければ。気配を消して、相手を探らなければ。


 そこで僕は呼吸を整え、気配を薄めはじめる。怒りやあせりを消し、アドレナリンをおさえる。それは消気ノ術しょうきのじゅつだ。


 それに、暗闇に目をこらし、闇の先を観る。半分は目で、半分は心で。それは観気ノ術かんきのじゅつだ。


 サブバッグは左脇に抱えており、口は開いている。右手を走らせれば、一秒で霜月を抜ける。



 そのとき、木々の向こうの闇に、光の粒が見えた。


 無数に浮かぶたくさんの光。――よく見ると、それらは猫の目だった。


 地面に、木の上に、おびただしい数の猫たちがこちらを睨んでいる。


 刺さるような敵意を感じる。――動物と妖魔の気配は少し似ている。猫たちが警戒し、殺気立っているのがわかる。


 僕はサブバッグの中の霜月を意識する。


 猫どもを刺せというのか。冗談じゃない。いや、これらがたんなる猫ならいいが。……リティの眷属の、化け猫みたいなやつらかもしれない。



 僕はおどおどと、猫の森を進む、猫たちの視線は僕を追いかけてくる。


「来たよ。リティ……」


 震える声でそう呼びかける。リティがどこにいるのかもわからない。


 すると、しばらく先に、いささか大きな二つの光が見えた。かつてのシズクの目の光を思わせる、煌々と黄金に光る目は、リティのものだった。


 リティは体を半分、大木に隠すようにして立っていた。顔はこちらに向けていた。黒いTシャツに紺色のパンツを穿いていた。


 僕は呼びかけた。


「ぼ、僕だよ。リティ……」


 そこでリティは、「ナァ」と耳障りなざらついた声を出した。すると僕の周りを囲む猫たちが立ち上がった。


 僕はなだめるように、


「戦いに来たんじゃないよ。わかってるよね?」


 リティはライトのように光る目をまたたかせ、もういちど「ナーア」と鳴いた。すると周りの猫たちは、じりじりと僕に近づいてきた。唸り声がする。猫たちはいずれも牙をむいて、狩りをするように体勢を落とした。


「やめてよ……。やめてよ、リティ! あんなに、わかりあっただろう?」


 そう言いながらも、同時にふと、高木先生の声が心の中に聞こえた。


『迷いは命取りになるよ、翠』


 わかってる。わかってるけど、昨日、リティと一緒に笑いあい、焼き鳥を食べたときのことが思いだされる。あの時間はなんだったのだろう。


 霜月を抜いてはいけない。抜いたらもう、引き返せないだろう。


 背中や頬に汗がつたう。心臓ががんがんと騒いでいる。消気ノ術も観気ノ術も、あったものじゃない。


 そのとき、一匹の猫が動いた。――前脚を一歩、前にだした。


 反射的に僕は右手を走らせた。


 霜月の刃がすう、と夜闇に光る。


 抜いてから僕は気がつく。恐怖という名の妖魔が、僕を焦らせた。


 猫たちは低い唸り声をあげる。


 リティは木の影から現れ、二本の尻尾をゆらし、近づいてくる。


 間違ってしまったのか。僕はどこかで。


 そう思いながら、右手の霜月を腰に構えて、周りに目をくばる。



 リティの手を見ると、五指に鋭い鉤爪が延びていた。リティは口元を引きつらせ、目を見開いて腰をかがめる。


 そして次の瞬間、僕の胸の前にリティの顔が現れた。


 僕はとっさに身を引いたのだが、顎から頬にかけて引っかけられる感触がした。


 おそらく顔を下から爪に裂かれた。霜月を横に薙ぐと、すでにリティの姿は消えていた。


 周囲を見渡すと、頭上の木にリティがいた。


 やはり目を光らせて、いまにも襲いかかってきそうだった。


 周囲の猫たちも動きはじめた。


 そこで僕は言った。


「やめよう! 僕は、話しあいに来たんだ! リティ!」


 すると、木の上から声がした。


「始末しに来たんでしょ。あたしという、バケモノを」

「違う。違うんだよ」

「だったら、その武器はなに?」


 僕は目をつむって逡巡した。霜月を抜いたのは僕だ。やっぱり、僕が間違っていた。


 その過ちを認め、敵意がないことを証明しなければならない。


 僕はためらいながらも、右手の霜月を手放した。霜月が音をたてて、土の上に落ちる。


「これでどう?」


 そうして僕は、両手を横に広げた。

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