9. 相原リティ

 焼き鳥屋に入ると、奥のテーブル席に案内された。


 相原さんは生ビールを、僕はジンジャーエールを注文した。


「ビールってさ、慣れると美味しいんだ。マタタビみたいな、ほわっとした感じになってね」


 そう言って相原さんは、くすりと笑う。


 僕もそれに釣られて微笑みながら、


「そっか。僕はビールは飲んだことないな。――いや、ダメなんだけど、お祭りのときにちょっとだけ、ビールを舐めたことはあるよ」

「へえー。どうだった?」

「わかんない。苦いだけで、よくわかんなかった……」

「ガキだなー、翠くん」


 そう言って相原さんは、僕の鼻先をつついてきた。


「や、やめてよ……」


 そう言い返しながら、僕は混乱しはじめていた。


 相手は妖魔だ。本来は退治しなければいけない存在なんだ。けじめをつけないと。


 そんな僕の心を見透かしたのか、相原さんはふと、寂しげな目をした。


 そのとき、ビールとジンジャーエールがきた。僕らはそれぞれジョッキを手にカンパイをした。


 相原さんはジョッキを傾けて、ごくごくと飲んだ。それからメニューを指さして、


「ほら、あたしのおごりだからさ! きみも、頼みなよ」





 つくねにかじりつく相原さんへ、ついに僕は言った。


「相原さんが社員証をなくしたって。加藤さんは、そう言ったんだ。会社のみんなが、首にかけてるやつ」


 相原さんはつくねを咀嚼し、ビールをあおると、唇を舐めた。そして、悲しそうな目をした。


「あー。持ってくればよかったな、って思ったよ。あのとき……」

「あのとき?」

「うん。エミの遺体から、持ってくればよかった。でも、そこまで思いつかなかったんだ……。動揺してたからさ」


 僕は唖然として、尋ねた。


「え、遺体? 遺体って言ったの?」


 相原さんはうなずいた。


「うん。――そう。山で、ね」

「山? 本物の相原さんは、山で亡くなったの?」

「ん。まあね。そうよ。でさ、そろそろ、あたしの本当の名前、教えてあげるね」


 そう言って、相原さんはふいに、秘密を打ち明けるように真剣な目をした。


「あたしの名前は、リティ。相原リティ。わかった?」


 突然のそんな話に僕はたじろいだ。


「え? リティ? ――わかったよ。これから、リティって呼ぶよ。それでいいね?」


 するとリティは、穏やかな表情で、すうっと目を閉じた。


「どうしたの?」


 僕が聞くとリティは目を薄く開けて、


「リティ、って呼ばれるとさ。ちょっと不思議な気持ちになるんだ。――エミだけだったからね。そう呼ぶのは」


 そうしてリティは、こんな話をはじめた。



 リティは長く生きた猫であり、十五歳くらいのときに、猫又になった。


 やがて東京にやってきて、猫として慣れない都会暮らしをする中で、ある雨の日、車にはねられてしまった。


 ジャンプしてよけようとしたが、バンパーにぶつかって。


 リティが地面に倒れてぐったりしているとき、絵美さんが歩道から駆け寄ってきた。――このとき、絵美さんは、ネコテックに入社したばかりだった。


『大丈夫? 病院、連れていくからね!』


 動物病院で診てもらったところ、怪我自体はたいしたことはなかった。


 その日、絵美さんから『リティ』と名付けられた。



 そんな絵美さんは大学時代からハイキングが趣味だった。


 神奈川県の丹沢になんども行っており、リティはそこに連れていってもらった。


 一方で、絵美さんはネコテックで、エンジニアとして仕事に打ち込んでもいた。


 書籍をたくさん買い込んで、寸暇を惜しんで技術の勉強していたし、会社で取り組んでいる仕事にも一生懸命だった。


 成果を出せば、きっと加藤さんが、振り向いてくれるのだと。



 そんな日々の中で、リティはついに、猫又であることが絵美さんにバレてしまった。


 リティはときおり、絵美さんに化けて、絵美さんの服を着て部屋で過ごしていた。本を読んだり、こっそりパソコンをいじったり。


 ――それはちょっとしたストレス解消であり、いたずらみたいなものだった。


 ところがある日、その光景を絵美さんに見つかってしまった。


 絵美さんはたいそう驚いたが、なんとか受け入れてくれたらしい。――それはそれで、絵美さんという人は、変わっているのかも知れない。





 そこでリティはふと口をつぐみ、ため息をついた。


 ビールのにおいが漂ってきた。僕は言った。


「どうしたの?」

「う、ん。あの日、止められなかったの……。雨が降って、足元が濡れていてさ。エミは、山の斜面で足をすべらせた。仕事のことで悩んでいたのもあったと思う。それで、滑落してしまって。きっと今でも、誰にも気づかれないまま……」


 遠い目をしながら、リティは続けた。


「あの日、落ちて行ったエミを追って、あたしは谷へと降りていったの。――エミは頭から血を流して、横たわっていた。そして、その近くに、エミが立っていた」


 そこで僕は声を上げた。


「え? どういうこと?」

「退魔師のきみなら、わかるでしょ? 肉体を失ったエミは、霊魂となって立ちつくして、じっと私を見てきた。――エミは、悔しそうな目をしていたの」

「悔しい?」

「そう。――苦しみや悲しみではなくって。悔しいって目をしてた! これからなのに。加藤さんに、認めてもらいたかった、って。そんな目をしてたんだよ……」

「そっか。絵美さんは、加藤さんのことを、もしかしたら……」


 すると、リティは微笑んでうなずいた。


「だからさ。あたしは思ったの。――エミとして生きよう。仕事をやり抜いて、エミとして加藤さんに認められよう。エミは、憐んでなんてほしくない。認められたかったんだ。ってね」

「リティ……。きみは……」

「あの日、あたしはエミの財布や身分証や鍵を取り出して。服を脱がせて借りて。家に帰ったの。――あの、立ちつくすエミの目も、それを望んでいた気がする。きっと、ね」




 その日の会計はリティが払ってくれた。


 リティと別れたあと、僕は呆然と夜道を歩きながら、ひとつの疑問にぶつかった。


 もうひとつ、聞かないといけないことがあった。


 リティはいったい、なにからなにを守っているのだろう。


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