18. 退魔師として

 桂木さんは座り込んで手を後ろにつき、目を広げた。


 夢魔の姿となったシズクは、よろめきながら立ち上がった。その胸元には、僕が霜月で斬った痕が見えた。


「もういいでしょ、信也……。これがわたしよ」


 そう言うシズクに対して、桂木さんは左手を宙に伸ばし、震える声を出した。


「――え、ほんとうに。ほんとうに、シズクさんは、夢魔だったの?」

「だから、そうよ! なんど言わせるの……。さあ、もういいでしょ。わたしは行くから。人間をからかうのも、愛想がつきたからさ」


 そうしてシズクは翼を広げる。しかし、翼は縮こまっていて、とても飛べそうになかった。


「はァ、まったく、あんたたちのせいよ」


 そう言ってシズクは翼をたたみ、歩きはじめる。――しかし、すぐにぐらりとよろめいて、


「あッ……」


 と、か細い声をもらして地面に膝をついた。


 シズクは両手を地面に張り、苦しそうな表情をしていた。体の妖気はますます薄まっている。


 そこで僕の背後から、黒の声がした。


「終わりだな、もう……。手を下すまでもないかもな……」



 そのとき、桂木さんがふいに立ち上がった。そして、シズクへと駆け寄った。


 シズクは驚いたように顔を上げた。


「なによ。なんのつもり?」


 桂木さんはどこか怯えながらも、


「あ、あなたは、夜、僕の部屋にきていたね……。きっと……」


 シズクは桂木さんを睨みつけるように、


「な、なによ。そんなの。知らない」

「いや。私には、わかるんです。シズクさん。――そうか、シズクさんだったんだ。あれは……。だとしたら」

「なによ。だから、なんだって言うの……」


 桂木さんはそこで、シズクの前に自分も膝をついた。そしてシズクの目を覗き込んで、


「夢魔であるあなたは、僕を襲って精気を吸って、餌食にすることができた。そうですよね?」

「――ええ。そうよ」

「だったら、なぜそうしなかったんですか? そんな、弱ってしまうまで!」


 シズクはそこで、あきらめたようなため息をついた。


「はァ、いやだね。こんなことになるなんてさ……。わたしはね、信也。あなたを、失いたくない。そう思ってしまったの……」

「う、失いたくない?」


 シズクはうなずく。


「あの日。店の近くで、信也が守ってくれたときから。――信也が、店にきて、笑顔を思い出させてくれるたびに。わたしは、信也を失いたくないって。そう思うようになった……」


 桂木さんは信じられない、といった様子で言った。


「シズクさん。私だって、あなたのことは、大切に考えてますよ!」


 そうして桂木さんはしばらく、シズクの顔を見つめていた。




「私の精気を、吸い取ってください」


 出し抜けに桂木さんが言った。


「マジかよ」とは僕の背後の黒の声。


 そこでシズクは言った。


「バカ。ほんとにバカ。もうさ、ほっといてよ」

「ほっときません」


 桂木さんはそう言うと、身を乗り出して、シズクの手を掴んだ。そして、その手を自分の頬に当てさせた。


「吸ってください。――あ、そうか。あの、なにか、相応のやりとりとか、必要でしたら。私の部屋とかで。まあ、それはそれで、喜んで……」


 すると、シズクは手を引き抜いて、桂木さんの頬をはたいた。ぴしりと、乾いた音がした。


「バカ! いろいろ考えなさいよ! もう、バカすぎて話にならない。そんなことしたら、あんた、死んじゃうのよ!」


 桂木さんはぽかんとしていた。シズクは続けた。


「だからさ、わたしはね、あんたが好きなの! だからこんなことになってるの。信也を犠牲にして、生き残れるわけないでしょ!」


 桂木さんはぶたれた頬をおさえたまま、


「だったらなおさら、そんなシズクさんを、放っておけるわけがない!」



 そのときだった。


 ふいに、薄まってゆくシズクの妖気に、赤い色がまじりはじめた。そして、その体がびくり、と大きく震えた。


 シズクは苦しそうな表情をした。


「どうしたんですか? シズクさん!」


 そう桂木さんが尋ねる。


 シズクの目には、赤みをおびた金色の光がともりはじめた。シズクの低い声がした。


「あ、あ。ダメ。抑え……られない。乾いてしまって。ああ…………」


 シズクの口元には牙がのぞき、体を覆う赤黒い妖気が広がった。


 そこに黒の声。


「危険だ! 桂木さん、離れて!」


 黒が言い終わるころには、シズクは桂木さんに飛びついていた。


 桂木さんは驚いた声を上げた。


 シズクは右手を振り上げた。――その指先からは黒い爪が延びていた。その爪は空中でぴたりと止まり、今にも桂木さんの首筋に、振り下ろされようとしているようだ。


 そこでまた、黒が言った。


「夢魔の――妖魔の本性だ。追い詰められて、暴走したのか……。最後の最後に……」



 ついにシズクは右手を振り降ろした。桂木さんの首筋に爪が食い込む。桂木さんのうめき声。


 僕はシズクに近づいて、大声で呼びかけた。


「シズク! 目を覚ませ!」


 そこで、桂木さんの声がした。


「これで、いいんだよ。これで。さあ。……吸うんだよ、シズクさん」


 僕はウェストポーチに手を伸ばし、鞘におさまった霜月を取った。




 そのとき、桂木さんに爪を刺し込んだ体勢で、シズクは動きをとめた。シズクは僕に顔を向けた。その目には、わずかな理性の光が宿っていた。


 シズクは自分の中の、飢えた本能に抗っているようだった。それに自分の右手を、なんとか抑えているみたいだ。――右手や肩が、常に力んで、震えている。


 そこでシズクは、牙ののぞく口を苦しそうに動かした。


「お願い……。翠。わたしを、とめて。お願い……! あなたなら、できるはず…………」


 その直後、シズクの目が真っ赤になった。その体ががくりと揺れて、再びシズクの目が桂木さんに向けられた。


「お、お……」


 と、桂木さんは苦悶の声をもらす。けれど、その声には、痛みを迎え入れる喜びが感じられた。桂木さんはシズクを見上げて、微笑んでいた。


 僕は左手に霜月を握ったまま震えていた。


「翠……」


 と、黒の声がした。


 わかっている。シズクの望みは。シズクは桂木さんを守るため、消滅を望んでいる。


 それに、もしシズクが桂木さんの精気を食らって、力を取り戻したら、また、シズクは狩りをはじめるかもしれない。


 わかっている。退魔師としてすべきことを。



 僕は霜月を鞘から抜いた。


 それから足を踏みだして、シズクへと近づいた。

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