17. さよなら

 シズクは夜の公園の道を、静かに歩いてきた。前と同じように、黒いブラウスに、黒いスカートを穿いていた。


 それに、おととい別れたときよりも、いっそう弱っていた。顔は青白く、目にも輝きがない。


「シ、シズクさん!」


 桂木さんは駆け寄って、支えるように手を伸ばすが、シズクの体に触れることはしなかった。その替わりに、


「と、とりあえず、座ってください……」


 そう言って、ベンチをうながした。


「ありがと……」


 と、シズクはベンチの中央に腰を下ろす。その動作だけで難儀そうだった。


 桂木さんはシズクの左側に座り、シズクの横顔を切なそうに見て、


「大丈夫ですか? 体調、悪いんですか?」

「うん。ちょっと、ね」

「そうですか……。そんなときに、すみません。わざわざ……」


 シズクは首を振って、


「ううん。信也と、話をしたかったから」

「え? 話?」

「うん。わたし、故郷に帰ることになったの」

「ええ? ってことは、もう会えないってこと? ――それっていつなんですか?」


 するとシズクはうつむいて、


「もう、今夜には……」

「こ、今夜? そんな。深夜バスとかで? なんでまた」

「仕方がないの。とにかく、わたしは、もう信也とは、会えない。――会えないの」


 僕は少し離れて、その話を聞いていた。そして、『故郷に帰る』と言うシズクの話に面食らった。


 けれど、シズクの気持ちがすぐにわかった。


 シズクはもう、消えてしまうのだろう。


 シズク――いや、夢魔にとって、人間の精気を断つということは、死を意味する。


 それに、僕との戦いの影響も大きく影響しているはずだ。いかに夢魔であろうと、霜月の斬撃をまともに浴びたのだから、それだけで消滅してもおかしくない。


 とにかくシズクが見極めた最後の時が、今夜なのだろう。


 桂木さんは言った。


「そんなに具合が悪そうなのに! やめといたほうがいいですよ……。それに、それだったら、私は言わなきゃいけないことがある!」


 桂木さんはシズクに向かって、ふいに真剣な表情を、した。顔を赤らめ、呼吸が荒くなっていた。


「わ、私は……。はじめてシズクさんを見たときから、す、好きでした。 あのとき、店の近くで、あなたを救わせてもらったときも。……私は、死んでもいいって。そう思ったんだ! シズクさん!」


 そうやって、せきが切れたようにまくしたて、桂木さんは口を閉じた。


 シズクはうつむいたままだった。


 街灯にぶつかる虫の音。公園を渡る夜風の音。


 やがてシズクはゆっくりと首を振った。


「ダメ。信也……。ごめんね。きっと、出会えるよ。信也に、ふさわしい人が……」




 そのとき、黒がひそめた声で話しかけてきた。


「なあ、翠。言ったよな? シズクが、夢魔だってこと」


 僕はとつぜんの声にいささか驚いたものの、小さな声で答えた。


「――うん。それは、桂木さんに言ったよ。でも、ダメなんだ」

「そうか。信じられねえよな。好きな相手が、夢魔だなんて」

「うん……」




 やがてシズクは立ち上がった。


「な、なんで……」


 横にいた桂木さんはそう漏らし、唖然とした表情でシズクの姿を見上げていた。


 シズクは、「さよなら」そう言って背中を見せた。


 桂木さんはしばらく、魂が抜けたように口を開け、絶望の眼差しでシズクの背中を見ていた。


 僕は思わずシズクを追った。




「待って……。いいの? ほんとうに……」


 そこでシズクの足が止まった。僕は横に行って呼びかける。


「シズク……」


 するとシズクは僕を見て、かすれるような声で、


「お願い。もう行かせて。わかるでしょ? もう、わたしは、限界なの。人間の姿も、もう保っていられない。――夢魔の姿を、信也に見られたくないから。ね、お願い。行かせて……」


 そう言って、哀しげに微笑わらった。



 そこへ、桂木さんが追いかけてきた。


「シズクさん。せめて、理由を教えてもらえませんか? せめて、連絡先を交換して、たまにでも会ったりとか。そういうのは、ダメですか? 故郷は、そんなに、遠いところですか?」


 そうやって切実な声で言う。シズクは目をつむり、


「ええ。遠いの。とっても」



 そのとき、シズクの体がどくん、と震えた。シズクは両腕で自分の肩を抱いてよろめいた。そして、急に厳しい声を出した。


「行かせて! 信也……。お願い……」


 そう言って眉を寄せて、呼吸を荒げはじめた。桂木さんは心配そうに近づいた。


「え、ちょっと、シズクさん! 大丈夫なの?」

「だ、大丈夫だから。もう、行かないと……」


 そのとき、シズクの体が細かく震え出した。その震えが全身を包むと、シズクは膝を地面に突いて、うずくまった。


「あ、ああ。イヤ。わたしは…………」


 ふいにシズクは僕を見た。



 ――助けて、翠。



 僕には、シズクが目でそう言っているように思えた。


 けれど、僕にはなにもできなかった。


 シズクの体から、黒いもやが立ち昇る。そのもやはシズクの全身を黒く染め上げていった。


 桂木さんは「え、え。これは……」と口走り、後ずさって尻もちをついた。


 黒いもやが薄れてゆくと、その中から夢魔の姿が現れた。シズクと体型や顔つきはそっくりだが、それはやはり、僕がこれまで対峙してきた、夢魔の姿だった。けれどその姿は、くすんで見えた。


 妖気は薄れており、背中のコウモリじみた翼は縮み、肌も灰色に近かった。




 桂木さんは悪夢でも見ているようにつぶやいた。


「え、まさか。ほんとう、に? シズクさん、ですよね……。シズクさん……? 信じられない」


 桂木さんの目には、恐怖と嫌悪の色がまざまざと浮かんだ。


 夢魔――シズクは膝をついたまま上体を起こした。


 そこで僕は、黒髪に隠れたシズクの目に、光がともるのを見た。


 ――まさか、瞳術で。


 一瞬僕はそう思って身構えたのだが、そんな必要はなかった。


 シズクの目からは涙があふれていた。灰色のくすんだ色の目元や頬に、赤味をおびた涙の筋がとうとうと流れ、街灯に輝いていた。


 そしてシズクは、手の甲でぐいと目元をぬぐうと、桂木さんの目を見ながら口を歪ませた。


「アハハッ。バカね。やっとわかったのね! ヒヒヒヒッ。アハハハ……。これが真実なのよ……」

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