14. 別れ、それから忌むべき悪夢

 シズクの話を聞いたあと、僕と黒は立ちつくしていた。


 やがてシズクは立ち上がろうとするように、前に体を傾けた。しかし、そこでうめき声をもらした。――先ほどの、霜月で傷つけられた胸が、痛むのだろう。


 そのうめき声は僕の心を締めつけ、罪悪感を与えた。


 それでもシズクは眉を苦痛に歪ませて、立ち上がった。


「だ、大丈夫?」


 と、思わず僕は声をかけた。まるで人間にそうするかのように。するとシズクは、


「……ああ。しばらく、精気を吸ってないから、それも、こたえたんだね、きっと」

「え、どういうこと?」

「信也に助けてもらってから。どうにも、おかしくなってしまってさ。……いまじゃ、腹が減って仕方がないよ」


 僕はしばし考えてから、尋ねた。


「それって。狩りをやめた、ってこと?」


 それには答えず、シズクは夜の公園を見渡した。それからいちど、寂しげな目で僕を見てから、闇の中へ歩いていった。傷のせいか、たどたどしい歩きかただった。


 僕は去ってゆくシズクの背中を見つめた。





 翌日は日曜日。――それは昼前のことだった。


「うおッ! やばい! これは……」


 黒の大きな声に驚いて、僕はキッチンへ駆けつけた。


 黒の指先に目を向けて、僕も思わず声を上げた。


「し、霜月を取ってくる! ちょっと待って!」

「だめだ! 動くな! 静かにするんだ……。これ以上、やつを刺激するな……」


 そう言って、黒は真剣な表情で前方を見た。その視線の先のシンク台に、いちごジャムのビンが置かれていた。


 僕は黒の横顔に言った。


「そうか。……たしかに僕にも、罪がある。空になったビンを、洗い忘れたよ。――でもさ。気づいたら、黒だって、洗ってくれたっていいんだよ。いや、むしろそうすべきだ! そうしたら、こんなことには。こんな、悪夢みたいな……」


 いちごジャムの中には、忌むべき黒茶けた影が見えた。そいつは硬質な二本の触角をピンと張っていた。ビンの中に居座って、残ったいちごジャムを味わっている。


 二人の訓練された退魔師をして、混乱と戦慄のさなかに叩き落とす、おそるべき魔物。その忌むべき真名は呼ぶにはばかる。


 だが、あえて呼ぼう。――ゴキブリと。


 そのゴキブリは、ひょいとビンから頭を出した。



 そのとき、黒はゆっくりと腰を屈め、自分の右足のスリッパを手にとった。青いスリッパには、舌を出した犬のイラストが刺繍されていた。なんと哀れな犬だろう。


「え、黒……。まさか、それで、叩き潰すってこと?」

「ああ。見てろ。俺はやるぜ……」


 すると黒は、いちごジャムのビンへと歩みより、右手を振り上げた。


「おおりゃ!」


 気合い一閃、スリッパはビンの真上に振り下ろされた。


「ダメだよ! それじゃ!」


 思わず僕は声を荒げた。


 スリッパはビンの上を塞いだが、それはひとときの、ビンの蓋にしかならなかった。スリッパの底を押し上げて、再びゴキブリが頭を出した。


 そして、ゴキブリはビンを脱出し、キッチンの壁へと移り、そこを登る。妖魔ですら、ここまで迅速なやつを見たことがない。まさに魔性の機敏さだ。


「くそッ! まだまだ!」


 黒は吐き捨てて、スリッパを振りかぶると、壁のゴキブリに迫っていった。もはや正気を失っている。


 そこで、僕は嫌な予感がして、


「だめだよ! それは……」


 スリッパが振り下ろされるやいなや、ゴキブリは黒ずんだ羽を広げ、飛び立った。


 いかなる妖魔の飛翔よりも不吉な、そのとつぜんの凶事は、僕の脚をすくませるに十分だった。


 僕はうめき声を上げて尻もちをついた。黒は「あがッ」とぶざまにうなって、よろめいた。


 そうしてゴキブリは嘲笑うように、キッチンの中空を汚し、床に着地した。そしてそのまま、リビングのほうへ走っていった。あろうことか、悪魔は憩いの空間へと……。


 こうして、真の戦いがはじまったのだ。


 黒はスリッパを床に叩きつけて、


「どうすんだよこれ!」


 僕はあきれるように、


「しょうがないよ。もうこれは。でも、なんとかしよう。殺虫スプレー、あったよね」

「ああ。一刻も早く……」

「うん。そうしよう。すぐに」





 そのとき、黒はふと僕を見て、


「そういや、思い出したんだ。いたな。ビンの中の……」

「え?」

「高木先生の家の、納屋でさ。俺が修行していた時代に、見せてもらったんだ。翠も見たかもな、って……」


 そこで僕はうなずいた。


「あー。たしかに。いたね。黒が言ってるのが、あのことだとしたら」




 高木先生の家の裏手には、古びた納屋があった。納屋では椎茸みたいな妙なにおいがした。いつも埃が舞う、不気味な場所だった。


 納屋の中には左右と正面に棚があり、雑多に物が置かれていた。植木鉢や肥料。工具やなにかの金具。ヘルメットや手袋。


 ある日高木先生に連れられて、僕はその納屋に行った。ちょうど、草刈りのために鎌などを取りにきたのだ。


 そのとき、高木先生は右手の棚にある、ひとつの小さな木箱を指さした。


「そうだね。せっかくだから勉強もかねて、変わったものでも、見せてやろう」


 そう言って、高木先生は手を伸ばして、木箱を取った。片手でひょいと持てる大きさだ。高木先生がその木箱を開けると、中にはこれも小さなビンが入っていた。


「翠、見てごらん。この中を……」


 その声にうなずいて、僕は顔を近づけた。


 そのビンの中にいたモノに、僕は恐怖せざるをえなかった。その中には一匹の蠅がいた。


「え、先生。これって、蝿? ……ですか?」

「ああ。そうだね。間違いない。……見た目は」

「え? 見た目は?」

「そうさ。こいつは、わたしが昔に戦った妖魔だ」

「ええ? なんですって?」


 そこで、高木先生はこんなことを教えてくれた。


 高木先生が二十代のころ、ある妖魔の退治をすることになった。


 そいつは人間の背丈ほどもある巨大な蠅の妖魔で、ゴミの焼却場に棲みついていた。それは、とても珍しい妖魔と言えた。昆虫の姿の妖魔は珍しいし、蠅というのも意外だった。


 蠅の妖魔は焼却場で生ごみをあさったり、ときに人間に襲いかかったりし、人々を困らせていた。


 高木先生は戦いの末、妖魔を弱らせることができた。あと一息でとどめを刺せるというところで、高木先生はあることを思いついた。


 これだけ変わった妖魔だ。あとで研究するため、保管しよう。


 だから、弱った蠅の妖魔を近くに落ちていたビンに閉じ込めた。


 ――そんなことを高木先生は語った。


 僕は不気味さを覚えながら、しばらくそのビンの中の蝿を見つめていた。

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