12. 刺すべきとき

 背後の足音――黒が近づいてきた。


 黒は夢魔を一瞥し、それから僕を見て、


「どうした……。翠……」


 僕は夢魔を見下ろしたまま、右手の霜月をどうすることもできず、固まっていた。


「わからない……。わからないんだ……。やらなきゃってのは、わかってる、けど」


 そのとき、路地に面したアパートの方から窓が開く音がした。そこに人影が見えた。


 灯りのともる室内を背景に、住人の影がいぶかるように見下ろしてきていた。無理もない。なにかのトラブルだと思ったのだろう。……トラブルに違いはないが。


 僕が再び夢魔を見ると、そのときにはの姿になっていた。


 シズクはやはり左手で右胸のあたりをおさえ、うずくまっていた。そうした姿勢のまま言った。


「……なんのつもり? わたしを、倒しにきたんじゃないの?」


 僕は右手の霜月を鞘におさめた。しかしまだ、鞘におさまった霜月を左手に持つことにした。いつでも抜けるように。


 それから、自分の甘さについて弁解するように、


「そ、そうだ。まだ、聞かないといけないことがある。――あなたは、桂木さんを知っているはずだ。桂木さんを、どうするつもりだったの?」


 そのとき、黒が言った。


「やれやれ。話し込むなら移動しよう。警察だの呼ばれたら、ややこしいぜ」




 僕らは路地を歩き、しばらく先の夜の公園に入った。木々に囲まれ、木のベンチが置かれていた。


 シズクはその真ん中に座り、少し離れて僕も座った。黒は監視するように、シズクの反対側に立っていた。


 あらためてシズクを見ると、夢魔の姿のときとそっくりではあるが、見た目は人間と変わりがない。


 赤味をおびた黒髪が垂れて、可憐な横顔にかかっている。絶えず妖気が漂うが、敵意は感じなかった。


 黒いブラウスとスカートが、細くしなやかそうな体のラインを浮かび上がらせていた。


 ――違う。見とれている場合ではない。呑まれてはいけない……。まさに相手は夢魔なのだから。僕は唾を飲み込んで、


「桂木さんとのことを、聞きたいんだ。桂木さんは、夜な夜な、悪魔みたいなやつが、夢の中に現れる。そう言って悩んでいた。それに、目覚めると、本当になにかが部屋の中にいる、って。そして、それに関しては、僕が見ている。あの夜……。あなたがいたんだ。桂木さんの部屋に」


 シズクは物憂げな表情で、前方の闇を見ていた。


 僕は妖魔が、こんなふうに悩んだり、悲しげな表情をするなんて、聞いていなかった。


 こいつは妖魔だ。騙されるな。――僕はなんども心の中で唱えた。




 シズクは眉をひそめ、投げやりな感じで、


「どうせ、なにを言ったって、わたしを始末するんでしょ」


 僕は無意識に、右手でぐいと自分の口元を押さえ、シズクの横顔を見ていた。


 困った。本当に困った。高木先生なら、なんて言うだろう。高木先生は、問答無用で刺していただろうか?


 黒ならどうする?


 そう思って黒を見ると、途方にくれた様子でシズクを見ていた。


 黒だって、迷っているんだ。


 そうだろ? 黒?


 僕たちは人間なんだ。


 夜風が吹くとシズクのブラウスの生地が揺れ、前髪がばらけた。その下に悲しげな茶色の瞳が見えた。その瞳の色に、がないことをたしかめる。


 そんな、シズクの悲壮な横顔に、


「僕には、なにも約束はできない。まだ、あなたの運命も、僕の運命も、決まっていないんだ……」

「だから、なに?」

「うん。ただひとつ、言えることは。……いまの僕は、あなたを仕留めようとは、思ってない。そんなこと、したくないって。……そう思ってる」


 黒の顔がぴくりと動いた。……しかしなにも言わなかった。


 やがて、シズクの静かな笑い声が聞こえた。


「ククク……。フフッ、ぼうやは、とんだお人よしね」


 それに対して僕は、


「それと、お願いがあるんだ……」

「え、なに。言ってみなさいよ」

「僕のことを、ぼうや、って言わないでほしい」

「へえ、じゃあ、なんて?」


 そう聞かれて焦った。たしかにそれもそうだ。僕は言った。


「……翠、だよ。僕の名は、翠って言うんだ」



 ――正味しょうみ、妖魔との関係性において、名を明かすのは危険なことだ。


 人間界の仕組みに精通した妖魔が知恵を働かせて、復讐してくることもある。中には、呪いをかけてくるやつもいるだろう。


 しかし、それよりも危険なことがある。


 退魔師は、妖魔に同情してはいけない。決して。


 退魔師と妖魔は、対等であってはならない。


 それはわかっていたつもりだった。




「翠……わたしは…………」


 と、シズクは続けた。


「わたしはあの日。お店の……ナイトティアーズの近くで……」


 そうして、シズクはこんな話をはじめた。

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