11. 決着と金縛り

 僕はとっさに飛び退いた。


 顔の右側に違和感があり、触れると濡れていた。たぶん血だ。それに鈍い痛み。


 ――こめかみから頬にかけて、切られていた。


 シズクは口を歪めて牙をむいた。振り下ろした右手の先の五指には、黒く長い鉤状の爪が張り出していた。シズクは僕を一瞥すると、急に体をそらせ、両腕を広げた。その体が震え、奇妙な脈動をはじめた。悶えるような声をあげる。


「アア、ア……」


 すると、ひときわ濃い闇がシズクの体を覆った。


 ――そして、その闇が薄まっていくとともに、夢魔の真の姿が立ち現れた。やはりそれは、桂木さんの家で見た、あの夢魔だった。


 僕はしばしあっけにとられていたが、すぐ我に返って、夢魔を見据えた。


「僕は、おまえを、倒すためにきた」


 本当はそんな説明をする必要はなかった。けれど、間断なく夢魔へ斬りかかることができなかった。そのセリフは、僕自分を追い詰めるためにあった。


 左手には霜月を鞘ごと握っていた。そこに右手を伸ばし、刃を抜く。


 すると、夢魔は青黒い唇をくい、と引きつらせて、


「ぼうや、また会ったね。今夜は、あんたを抱いてやろうかね。フフフ。アハハハッ!」


 そう夢魔は笑いはじめた。


 そしてその両目。――両目が金色に輝きはじめた。その瞳に吸い込まれる。


 ダメだ! すぐに僕は目を閉ざす。


 見てはいけない。また、金縛りになってしまう。


 金色の瞳がちらりと僕の視界に入っただけで、吸い込まれそうになる。


「フフフ……。目をつむって、ホントに戦えるの? ぼうや」


 その声とともに、暗闇の中で羽ばたく音がした。



 僕は自分に言い聞かせる。


 落ち着け。観気ノ術だ。


 呼吸を整え、意識を研ぎ澄ませろ。


 観える……。観えるはずだ。



 そのとき、前方に小さな光がまたたいた。


 僕は体をよじって飛び退いた。


 ひゅう、と風を切る音。


 左肩に痛みが走る。


「うあッ……」


 思わず声を漏らす。薄目を開けて左肩を見ると、シャツが裂かれており、血がにじんできた。


 目の前には夢魔の姿。


「へえ、少しは、観えるんだ。でも、いつまでやれるかねえ。ぼうや」


 すると、また夢魔の瞳が輝き出す。


 いけない。僕はまた目を閉じる。


 夢魔の羽ばたきの音が空に昇ってゆく。――次の攻撃がくる。


 顔を上げて、その姿を見るべきか?


 ――いや、それを、相手も狙っているはずだ。見てはいけない。一瞬たりとも。


 喉の奥が熱く、呼吸がどんどん荒くなる。僕は焦っていた。


 頭上の気配はなんとか観える。……小さな光として。


 しかし、反応が後手になっている。


 いや、反応しようとしている限り、勝つことはできない。


 どうしたらいい?



「縮こまるな! 意識を広く持て!」


 その声は黒のものだ。


 そのとき、僕は高木先生の言葉を思い出した。


『自然を眼としろ』


 その意味がわからなかった。どうしても。


 高木先生は指を伸ばして、庭や山や空を示す。


『妖魔のことや、それ以外の、普通の人間が感知しえない、この世ならざる働きについても。すべて、この自然の中でつながっている……』


 僕はなかば無意識的に、頭上の夜空に意識を向けた。


 極限状態が、そんな、不思議な意識をもたらしたのかもしれない。


 空には星々と欠けた月が浮かぶ。――そんな情景を想像してゆく。


 ときおり暗雲が横切り、きらめく夏の星座をかすめてゆく。夜風がいく筋も流れ、また去ってゆく。どこまでも続く夜の空。……その先に大気と宇宙。ずっと東には太陽に照らされた大陸もある。広い。世界も僕も、広い。広がっている。


 そうだ、それに僕の頭上には、夢魔の黒い姿が浮かんでいる。敵意と妖気を振りまいて……。


 夢魔はいちど旋回し、僕を見おろし、降下する。


 黒く鋭い爪。その爪の先は…………。


「ここだッ!」


 僕は体をかがめ、這いつくばるようにした。頭上で空を切る音。「え、なに?」と夢魔の声。


 僕は右手に握る霜月をぐっと握り、唸り声とともに、全身の力をこめて突き上げた。


 手応えがあった。間違いなく。


 絹を引き裂くような感触――。


「グ、アア…………」


 薄目で見ると、夢魔は左手で右胸おさえ、後ずさったところだった。右胸には縦の黒い裂け目が開いていた。


 夢魔はよろめきながら、苦悶の形相を浮かべた。


 僕は霜月を手に、夢魔へと迫っていった。


 終わりだ。


 もうなにも考えず、迷わず、刺す。


 退魔師として。


 霜月の冷たさが、僕に冷徹さを授けてくれるうちに。


「やるのかい、ぼうや、このわたしを……」


 夢魔はそう言いながら、崩れ落ちるように膝を折った。


 それには答えず、僕は霜月を逆手に持ち、夢魔の頭上へかざした。


 すると、夢魔の小さな声がした。


「……それでいい。……そうしてよ。もう」


 その声を聞いたとき、僕は金縛りにあった。黄金の瞳のせいではなく、自分自身の心のせいで。

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