9. 夢魔狩りの夜

 夜の八時を過ぎたがシズクはまだ現れない。


 僕と黒は少し離れた場所から、『ナイトティアーズ』へつながるエレベーターをずっと見張っていた。


 シズクが出てきたら追いかけるつもりだった。


「やれそうなのか? 前回、夢魔とやりあったときは、体が動かなかったんだろ?」


 黒はそう言って、心配そうに僕を見た。街灯に照らされた黒の端正な横顔は魔性すら感じさせた。まるで黒自身が一種の夢魔のように。僕はそんな迷妄を払うように首を振って、


「そうなんだ。金縛りみたいになって。あの金色の目を見たら……」

「おいおい、大丈夫かよ。夢魔みたいなやつらは、瞳術どうじゅつみたいなものを使うっていうからな」

「わかってる。いちおう、考えてるよ……」


 そう言って僕は、夜の雑踏を眺めながら、ある情景を思い返していた。


「なにも見えませんよ」


 僕はそう言って、暗闇の向こうにいる高木先生へ言った。


「自然を眼とするんだ、翠……」


 その声は聞こえるが、いったいどこからなのかわからない。




 ――そのとき僕は、林の中で高木先生の訓練を受けていた。その林は鬼梏村の西にある、神社の一画にあった。


 夜空にはうっすらと月や星々が見えるが、すべては暗雲の向こう。――真っ暗な夜の林の中で、高木先生は周囲の林に潜んでいた。


 僕は高木先生と同じような短い木刀を持って、低い姿勢で身構えていた。暗闇の中で目を開けて、周囲に意識を向けていた。


 そのとき、風を切る音がして右腿に痛みが走った。


「痛ッ!」


 と声を上げると高木先生の声がした。


「退魔師として戦いなさい。見ようとしてはダメ。見ようという意識が、自然と自分を隔てるから……」


 僕は右腿をさすりながら、


「ど、どういうことですか?」

「自然を眼とするんだ」

「自然を眼に?」

「……いまは、問答ではなく、その身で学ぶべきとき。そうでしょ?」


 すると、高木先生の声が遠ざかり、その足音が、葉擦れの音と風音に溶け込んでいった。


 ――そうか、『観気ノ術かんきのじゅつ』か。


 そこで、僕は目を閉じて耳を澄ませた。意識を研ぎ澄ませた。観気ノ術は視覚によって妖気を見るだけのものではない。周囲のあらゆる情報や気配を機敏に感じとる術でもあるし、それがこの術の本質なのだ。


 周囲の気の流れに意識を向ける。いかなる空気の変化も、微細な気配も見落とさないように。


 次の瞬間、背後に光の閃きのようなものが見えた。僕は木刀を後ろに振り抜いた。


 けれど、木刀は宙を切る。次の瞬間にまた右腿を打たれた。


「うわ、痛ッ!」


 目の前の闇に、高木先生の影が立っていた。


「ほう、惜しいね、でも、まだまだ。観気ノ術をわかってない」


 そう言って、高木先生の気配と足音がまた、夜の林の中に消えていった。


「きたぞ」


 と、黒の声がした。横を見ると、黒が前方を指さしていた。僕は自分の頬をはたいて気合いを入れ直した。


 ナイトティアーズの下のエレベーター前に、黒いブラウスとスカート姿の女性がいた。一瞬わからなかったが、それはシズクだった。



 僕はシズクを追って歩き出す。


 そんな中で、胸中には妙な罪悪感があった。まるで自分が、女性を追う変質者か犯罪者のように感じて……。


「見た目に騙されるなよ。相手は人間じゃねえ」


 背中から黒の声がした。


「わかってるって。こんどは、やるよ。必ず……」

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