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三年前、戦争が開戦してすぐの頃。ヒバリとレティシアは成長して孤児院を出た時期だった。結婚を誓い、まずは婚約者として同棲を始めた。ヒバリは、新聞社の新入社員として働きはじめ、レティシアは家事をこなした。互いに慣れない生活が続いたが、それでも念願の二人で暮らしている生活が幸せだった。
運良くヒバリとレティシアは貧困街を経験していなかった。幼い頃の記憶は、全て孤児院で生活したことで埋まっていて、自分はもしかしたら貧困街の出なんではないか、という思考など至ることはなかった。
それほど貧困街と言われていることは無法地帯と言っても良く、悪い噂が絶えなかった。独立したばかりの二人にとって、一歩誤ればその道に落ちることは必至だった。だからこそ些細な幸せと言うけれど、幸せの絶頂に達していたと言っても過言ではなかった。
世の中の状況に比べれば、些細な幸せのはずだった。小さな幸せは知らぬ間に決壊していた。
ある日、それは雪の日だった──、軍の人間だと告げる男がレティシアを徴兵した。
『なぜ俺じゃないんですか!』
レティシアは女ですよ! 必死の抵抗も叶わず、男は一言ヒバリに放った。
『新たな兵力として女を欲している。それだけだ。そんなに代わりたいのなら、お前も軍に来ればいいだろう。こちらは来るものは拒まない』
当時のヒバリには、そんな度胸などなかった。仮初の幸せに甘んじて、自らを死地に追いやることなどしなかった。出来なかった。それが、今となってはどれほどの後悔になっているだろうか──。
*
車椅子を押して本部の施設を出、レティシアを車に乗せる。そして施設から預かってきたレティシアの唯一の荷物であるトランクケースを運び入れる。
時間が経つにつれ、レティシアも体の感覚を把握して簡単な動作なら出来るようになった。それならもう車椅子はいらないだろう、とヒバリは判断して車椅子を置いていった。
「仕事は? ヒバリくん」
思い出したようにレティシアが訊いた。ハンドルを握るヒバリは、もう終わったよと答える。
窓の外を無言で見つめるレティシアはその後も何度かヒバリに質問しただけで、会話はなかった。ヒバリはミラーでそんなレティシアを覗きながら、ふっと口を結んだ。
「着いたよ」
三年越しの帰宅に、レティシアは体感数日くらいの時間感覚の乖離に悩まされながらも、しかし自身の帰宅に喜んだ。
「たっだいま〜」
レティシアは空元気でそう言うと、後ろのヒバリに振り返った。
「おかえり、ヒバリくん」
ずっとしたかったヒバリを迎えること、それを済ませるとレティシアはさっさと中へ入ってしまった。
三年の間、ヒバリは三年前の状態を保全することに尽くしてきた。レティシアがいつ帰ってきてもいいように、最高の状態で迎える為に。
「で、ヒバリくん。話ってなんなの?」
テーブルについたレティシアは、自分で淹れたお茶を飲んでスミノフの言っていた詳細を聞き出す。
「ティア……まだ混乱してるかもしれないけど、」
「うん」
ヒバリは最初、重すぎる現実をはぐらかさそうと考えた。そうでなくとしても、この話は明日いや明後日にでも、彼女が現実をある程度受け入れてからにすべきだと考えていた。しかし、レティシアは早く聞きたいと急かす。
レティシアはヒバリに、廉直な眼差しを向ける。自分の愛している人がこうも強くあったのかとヒバリは驚かされる。ただ、これが何も知らないだけなのなら──これからヒバリのする話はとても残酷に聞こえるだろう。全てはレティシアの為、そう言うのと同じ事なのだから。
「わかった。率直に言うよ。ティアは、この三年間で起きた事を知りたい?」
ヒバリもまた、レティシアの瞳を真っ直ぐに捉えて切り出した。投げかけられた質問を聞き終えると、レティシアは僅かに瞳を揺らした。瞳の揺らぎ、瞬きは確かにレティシア自身の動揺を表していた。だが、それ以上表に出そうとはしない。
わかっていないことも多い。ヒバリは情報を与えぬまま判断を迫ったことを少し後悔した。しかし上手くやったとも思っていた。三年の出来事がどれだけ凄惨なものだったか、遠回しに伝えられれば、レティシアは知ることを諦めるだろう。諦めれば、たった三年、空白期間のある夫婦として今一度生活することになるだけだ。
それはレティシアの死を切り離しているようにもヒバリは思えた。だからこそ、レティシアに全ての判断を任せたくなってしまったのだろう。自分は支える役にまわるしかないとなれば、ヒバリに選択権はないのだから。
長い沈黙の後、レティシアは笑顔で言った。
「知りたい」
レティシアにも様々な感情があった。泣きつきたい、大好きな彼の前で自分の選択肢を委ねたい、死にたい……。戦争のことなんて考えたくない。知りたくない。けど、三年という時間は消えない。ヒバリは三年という時間を経験した。孤児院を抜けてすぐに誰からの援助もなく独り立ちすることは大変だったろう。その苦労を私は知らない。知らないふりをして、生きていくことなんてたぶん出来ない。なぜなら夫婦になるからだ。見ないふりをして、見ないことを決めた先にある自分は、どうせ弱いに決まっている。三年を知った自分でなければ、ヒバリくんは支えられない。
そして、誰かの為に頑張って消えた、いつかの自分を知らないなんて許せない。
レティシアはそういう女だった。年齢上は十七であっても、今決めた覚悟は三年を悠に上回るだろう。全てはヒバリくんのため。人任せにすることがよくなかったとしても、この覚悟だけは、まだ誰かに頼らせてください──。
ヒバリは彼女の優しさで溢れた顔を前にして、何も聞き出せなかった。ねえ、ティア──と聞きたかった。なぜだろう、二人で最後まで話し合いをして決めたかった。互いに満足のいくまで、話あって決めるつもりだった。今までもこれからも、二人のことはそうやって……。
ヒバリにとって、レティシアのその笑顔はそれほど隙のないものだった。
「わかった。明日、また軍の施設に行こう。そこにティアの記憶データがあるんだ」
「そうなの?」
「ああ、なんて言ったか、スキャミングしたデータがあるらしくて。覚えてる? ……覚えてるわけないか」
「うん。覚えてない。けど、行けばわかるんでしょ? 思い出せるんだよね?」
厳密に言うと、思い出せるわけではない。レティシアの記憶にデータとして入れ込む。そのデータが脳内でどう処理されるかは実の所スミノフもわかっていなかった。
「……きっと」
ヒバリの言葉に安心したのか、レティシアの隠していた不安と心配が晴れていく。
「今日はもう寝よう。疲れているだろうし、無理しないほうがいいよ」
「うん。そうする。ヒバリくんは? 仕事……ってあるの?」
「安心して。さっき職場から電話があったんだけど、暫く休んでいいみたい」
「ほんと?」
大丈夫、安心して、とヒバリは繰り返した。ヒバリの言ったことは言葉通り、裏表のない真実だった。
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