「えっと…何から話そうか」


机を挟んで正座している唯は、僕への言葉を探すようにそう言った。

あの後僕達は、お互い気まずさを感じながらも「一先ずは」と唯のマンションまで向かった。

そこにはもう報道陣の姿はなかったけれど、念のためと人目につかないようそそくさとエレベーターに乗り込んだ。

七階西側の角部屋、玄関を入り右手にある彼女の部屋は綺麗に整理整頓されていた。

物が少なく、同じ女子高生である桜井の部屋と比べると、随分と落ち着いた印象を受けた。


「あの…ごめんなさい!」


なにはともあれだ。僕はまず土下座をした。額をカーペットに付けていいものか悩んだ末の、付いているように見えてその実、床スレスレで静止している。そんな土下座だった。


罰ゲームで女装下校したこと、その帰路で車を囲んだ舞菜達を見かけたこと、オケオールの日はまだ言い出す勇気がなかったこと、今日、実は男だと伝えようとしていたこと。全てを話した。

女子として知り合ったことは偶然とは言え、事実を告白する機会はいくらでもあった。しかし、女子だと思っていたからこそあのように密に接してくれていたこともまた事実で、僕はなかなか言い出すことが出来なかった。


「だから…騙してたわけじゃなくて…今日もこの後友達に服を借りて、メイクもしてもらって…その上で…って」


深く俯いた唯の肩が震えていた。

…当然だ。あの距離感の近さは、相手が遥ちゃんだったからだ。同性だったからだ。それが「実は男でした」だなんて、知りたくもなかっただろう。


「その…ごめん」


全部を話した上で友達になってもらいたいだなんて、虫が良すぎた。



…いや、これ…


「笑ってる?」


僕がそう尋ねると、唯は我慢の限界と言わんばかりに身体を仰がせ、声を上げて笑い出した。


「…はははっ!はははははっ!」


「な、何か面白かった…?結構勇気出したんだけど…」


「あっはっはっはっはっ!!」


「笑わないでよ…」


口では不満げにそう言ったが、正直安堵でいっぱいだった。


泣いているわけじゃないなら、それでいいか。


僕はカバンから取り出したペットボトルの麦茶を飲みながら、少しの間笑い続ける唯を眺めていた。



「ごめんごめん。

でもそっか、男の子だったんだね」


気の済むまで笑った唯は、呼吸を整えると目元を擦りながら言った。


「うん。ごめん。名前とか学年は本当だけど」


「今まで話したことの中に、性別以外の噓はないの?

好きなものとか趣味も本当?」


「うん」


「そっか…

ねえ、煙草吸わない?」


「吸う」


僕は履いてきた靴を、唯はサンダルをそれぞれ履いてベランダに出た。


「あげる」


「え、いいの?…ありがとう」


そう貰った新箱から取り出した一本にライターで火を点けると、僕達は傾いた陽を眺めながら煙草を吸った。

抱えていたものを下ろせた、伝えたかったことを伝えられた。そんなカタルシスを感じた。



煙草を吸い終わった僕は一度部屋へ戻り、一箱分の代金を返すためカバンから財布を取り出した。そうして再びベランダに出たのだが、二本目に火をつけた唯はそんな僕を制止するように、スマホの銀行口座管理アプリの画面を見せてきた。

そして彼女の告白が始まった。



「いちじゅうひゃく…せんにひゃくまん…?」


私は手っ取り早いと思い、女優業で得た貯金の数字を遥に見せた。かの…彼は、文字通り目を丸くし、画面に釘付けになっていた。


「これ。見て」


続けてオケオールの時に見たあの広告。遥が「可愛い」「私達に似てるね」と言った女優。つまり私だ。ついでに何個か出演した作品の予告などを見せようと思ったのだが、彼は呆けながらも「みやけゆい…」とぽつり呟いたため、私は画面を閉じた。


「これ…唯…?」


「私。

私も遥と同じだよ。本当は女子高生じゃない。二十歳はたちだよ。本業は女優なんだ」


「…まあ煙草買えてるから、そりゃ二十歳超えてるか…」


頬にうっすらと汗を垂らす遥は、開いた口が塞がらないといった様子ながらも、一先ずは飲み込めたようだった。


そういえば結局、りんごジュースは買えなかったな。

麦茶…最初に会った時も飲んでたっけ。


私たちは部屋へ戻ると、再びテーブルを挟んで座った。


「びっくりしたよ。二人とも変装して出会ってたなんて」


「僕の場合は女装だけどね」


「ふふっ、そうだね」


緊張が解けてきたのか、両手を後ろにつき随分とリラックスしたような姿勢になった遥を見て、私もつられるように足を崩した。


「でも二十歳って何か、凄いね。それだけで一気に大人に見える」


「大げさだよ。二十歳だからって、君と何も変わらない。

堂々と煙草が吸えて、お酒が飲めるだけ」


「そんなもんなの?」


「そんなもんだよ。

…それに、私なんて特にね」


「どういうこと?」


「私、鬱病なんだ。それで今はお仕事休んでるの」


「…そっか」


”そっか”か。そうだよね。急にこんなこと言われても反応に困るよね。

でもごめんね、君には私をもっと知ってもらいたい。


「リビング、ついてきて」


何が好きとか、嫌いとか。そういうのだけじゃなくて、もっと、深い私を。


「…ここ、私の家族が使ってたの。血はつながってないんだけど、母親とお姉ちゃんの間みたいな人でさ。

良い人だったんだけど、今年の冬に…」


今まで誰にも話してこなかった。

…話してこれなかった。


「手、にぎって」


カーテンの隙間から灯りの点いていないリビングへ僅かに差し込む静かな斜陽が、テーブルに置かれた遺影を細く照らしていた。

目を凝らした遥は、それが女優の”環”と気付いたようで、私の手を握る力が少しだけ強くなった。

彼の手は少し冷えていた。でもそれは凍えるような冷たさではなくて、心地いい、火照りを覚ましてくれるような、そんな優しい冷たさだった。


「もう半年以上経ってるのに、全然立ち直れなくって…お仕事も…出来なくなっちゃって…」


「この家にいるのも辛くて…もうね、全部どうでもよくなって…薬、いっぱい飲もうと思って…それでっ、変装して、ドラッグストア行った帰りにっ、舞菜ちゃんとか、君に、会ったの」


「久しぶりに楽しかった、けどっ…ここに帰ると、どうしようもなく悲しくなっちゃうの」


「私がもっと、支えてあげられたらっ良かったのにっ…上手く力になれなくて、だって…何言っても、もうっ、聞いてもらえなかった…からっ…」


「私の声にっ、もっと力があったら…みんな、私の話、聞いてくれたのかなっ…」


「結局、環さんはこの部屋で、朝起きた時にはっ、もう……」


「それまでは、つっ、ついったとかで、私なりに色んなこと、言ったんだけど、っあ、相手にっされなくて…私と環さんのこと、知ってる人っ、は、心配してくれたんだけど、中には意地悪な人も、いてっ」


「遥も見たでしょ…?記者の人たち、酷いんだ。最近は減って来たけど、でもっ、まだよく来るの。

だから、女子高生の格好して、外に出てみたらさ…意外とバレなかったんだ」


「でも、もうそれも、駄目みたいでっ、なんか…疲れちゃった」


「遥があのおじさんに突っ込んだの、あれ、すごくカッコよかったよ」


「それは…ありがとう」



唯は途切れ途切れに話してくれた。しゃくりあげながら。鼻をすすりながら。

僕は黙って話を聞いた。それしか出来なかった。

ただ、一つだけ。繋いだ手にもう一度、ほんの少しだけ力を入れた。彼女にも気付かれないような、そんな少しの力だ。

別にそれで何かを伝えようとかは思っていなくて…ただ、何となく、そうしたほうがいい気がしたんだ。

しかし思いの外伝わってしまったようで、彼女は赤くなった目元を溶かすように細めると、そっと握り返してくれた。

この人の笑顔に僕は弱い。


「煙草吸おっか」


僕は無言で頷いた。


「手、火点けれなくなるから、もう大丈夫だよ。ありがと」


「あ…うん」


するりとこぼれるように離れた手を見て、少し、名残惜しいと思ってしまった。


靴下が床をる音、衣服がこすれ合う音。電気は点けていない、ほぼ暗闇のような廊下を過ぎると、唯の部屋は窓から入り込んだ陽の光で橙色に染められていた。


「なに、まだ繋いでたいの?」


先に部屋に入った彼女は振り返って僕の顔を見ると、少し笑って言う。

そんな彼女の姿は、まるで初めて会った日のようで


「か、からかわないでっ」


勝手に上がる口角と、火照ったような頬をごまかすため、そして、気を遣わせてしまった情けなさから、僕は大きく顔を逸らした。

色んな思いが溢れそうになって、そうするしかなかった。


「ごめんごめん。

…あ、ねえ、外凄いよ」


唯に連られてベランダへ出ると同時に、急に吹いてきた強い風で僕の前髪はかき上げられてしまった。

メカクレにとって向かい風は最悪の敵だ。顔を晒されてしまうから。

けれど、そんなことがどうでもよくなるような光景がそこにはあった。


「うわぁ…」


それは、橙や、赤や、朱色。そういう色の水が入ったバケツをひっくり返したような、鮮やかで、あでやかで、濃く、時に淡く、そして何より美しい夕焼けの空だった。

眼下に広がる建物や、駅を出ていく六両の電車。蟻のように小さい人々、遠くを流れる川。目に映る全てが燃えているかのように西の空から照らされて染められていた。

空を這うように伸びるうす雲は光るようなピンクを纏っていて、遠くにそびえる山はこの景色のすべてを飲み込んでいくように、ゆっくりと影を伸ばす。

真上を見上げるとそこには藍色の空があって、すぐそこまで迫った夜が黄昏時の終わりを告げようとしていた。


色んな色が、表情があった。


僕は前髪を手櫛で直すのも忘れて、その景色に見入ってしまっていた。

視界の端では、こちらを向いた唯が煙草に火を点けているのをぼんやりと確認できる。

その唯と向かい合うように身体を向けてみると、彼女の瞳は外の景色へ投げやりに伏せられていた。

それは直ぐに閉じられたのだが、次に開いた時にはまっすぐに僕を射抜いてきた。

先程の涙で酷く潤んだそこは、この景色のすべてを閉じ込めたような、そんな幻想的な色をしていた。

一秒か二秒か。はたまたもっとか。目が合っていることに気付いた僕が顔を逸らすと、彼女も僕から夕焼けへと視線を移した。

彼女は山に呑まれていく夕陽に顔を染められながら、吸って、吐いて、ぽつりと漏らした。


「もうすぐ陽が沈むね…」


憂うような表情を浮かべる唯は「フゥ」と煙を吐いてから、視線をこちらへ向け直した。


「ねぇ、遥って人助けが好きなの?」


突拍子もない急な質問。


「人助けが好きか」か。

別に隠すようなことでもない。

…いや、隠さない方がいい。

それに、隠したくない。

唯には僕をもっと知ってもらいたい。


僕は煙草に火を点けると、足元へ向かって口を開いた。


「好き…というか、あの、笑わないで聞いて欲しいんだけど…」


何が好きとか、嫌いとか。そういうのだけじゃない。本当の僕を。



遥は「僕は、僕が大嫌いなんだ」そう言って煙を吸い込んだ。


「世の中には”僕”か”僕以外”かしかいなくて、僕以外は僕より遥かに優れてるって思ってたんだ。

今はそこまででもないんだけど、癖になってて卑下しちゃうんだよね」


「高校進学を機にこっちに引っ越して来たんだけど、そんなんだから半年くらい経っても友達が出来なくてさ、別に欲しいとも思ってなかったんだけど、他人と関わってないと、生きてる意味とかあるのかなってだんだん思うようになって…。

ネットとかにたまにいるじゃん、生きてる意味がないって感じて死にたくなってる人。まんまあれになったの」


「深刻ないじめを受けたとか、虐待を受けたとか、何か大きな失敗をしたとか、人を酷く傷付けたとか、そういうことはなくて、家族にも普通に愛されてると思うし、概ね幸福なんだとは思う。

でも何でだろうね、僕もよくわかってないんだけど」


「この世のどれか一つにも僕は必要じゃない気がして、生きていたくなかったんだ」


前髪と煙草を持つ手で、その表情は伺えない。

それでも彼の煙草は、先に火を点けた私のものよりも減りが早かったし、それを挟む指先は震えていた。


「去年の冬くらいかな。たまたま道端でクラスメイトが困ってたんだ。大したことでもないのに時間がないとかなんとかって。

手が空いてたから少しだけ手伝った。そしたらその人とその彼氏が、僕に凄く感謝してきてさ、僕を凄い人かのように扱ってくれたんだ」


「こないだ話した、桜井と司馬」


そう言って煙を吸う遥は、隙間から見えた口元を僅かに緩めた。誰に向けているわけでもないのに、やや俯きながら、照れくさそうに。


「それから仲良くなった。小学校の頃にも一応友達みたいな人はいたんだけど、なんか、生まれて初めて本当の友達が出来た感じがして、嬉しかった。

休み時間に他愛もない話をしに僕の席まで来てくれたり、一緒にお昼を食べてくれたり、体育のペア組みにも困らなくなった。

これを失くしたくないなって思ったんだ」


「僕、中学の頃って友達が一人もいなかったんだ。ひねくれてたし、なんか、新しく関係を築き始める時の、あの気を遣い合う気まずい感じとか、ちょっと意見が違うからって、腫れ物を扱うようになる空気とか、そういうのが辛くて…。

でもいざ孤立したら、今までわずらわしかったものが全部なくなってさ、楽になったんだ」


「凄く楽だった…でも…」


「でも凄く…むなしかったんだ…」


そうか…遥は諦めてしまったんだ…。上手く距離が測れなかったり、意見の衝突や価値観の違いから、人と関わる素晴らしさや楽しさよりも、辛さや寂しさばかりを感じてしまったんだ。

私には環さんがいたけど、遥にはそういう人がいなかったんだ…。


「司馬達と知り合ってから、人と関わることが段々好きになったんだ。でも僕には、こんな僕である必要性がわからないから、だから、僕はなるべく人を助けるんだ。

困ってる人の力になれば、少なくともその場ではいい奴になれるし、それに、相手にとって必要な存在になれるってわかったから」


「だからね、僕が誰かに何かをするのは、全部僕のためなんだよ。

僕みたいなのはいい奴じゃないと、すぐに必要じゃなくなるから」


「いい奴なら、相手から話したがってくれるし、意見が違っても合わせてもらえる。

…僕はこうでもしないと、ろくに人と関われないんだ」


「人助け…うん。好きではないかな…」


「そういえば、僕は僕が嫌いだけど、遥ちゃんは結構好きだったな。

すぐに友達が出来たし…免罪符って言うのかな、そこにいていい権利を標準装備してるみたいでさ」


「でもそれと同じくらい、そういうところが嫌いだったな」


私は黙って遥の言葉を聞いた。


そんなもの無くても、私は君と関わっていたい。


そう思いながら。


「人との交流って、甘い毒みたいだ。

気を遣うから凄く疲れるのに、この味を知ってしまったら、もう一人でなんていられない」


吸うことを忘れられた煙草はもうとっくにフィルターまで火が届いていて、灰は風に飛ばされた。

遥はそれを見て吸い忘れていたことに気付いたようで、吸殻を灰皿へ捨てると次の一本を取り出し、もはや慣れた手つきで火を点けた。


「私は好きだよ」


陽はいつの間にか沈んでいた。


「それは遥ちゃんだからじゃないの?」


「ううん。だって、性別以外は本当なんでしょ?」


遥は、自分が自分であることに嫌悪感を抱いている。思えば初めて会った日も、自分の顔を好きじゃないと言っていた。

それでも私は、私の顔と似ている遥の顔は好きだし、色んな話をしてきた中に嘘がないなら、やっぱり私は遥が好きだと思った。


「なら私のこと呼び捨てにしてくれたり、一緒に煙草吸ったりしてくれたのも本当でしょ?」


そう、そうだ。


「私達二人とも、ラーメンだったら?」


私は促すように言った。


「…醬油が好き」


「季節だったら?」


「春が好き」


「朝よりも夜が好きだけど」


「同じくらい夕方も好き」


「ほのぼのしたゲームが好きだけど」


「FPSも嫌いじゃない」


そうしてノってくれた遥と二人で交互に言い合った。思いの外テンポがよかったから私は笑ってしまった。彼はどこかばつの悪そうな顔をしていたが、その表情は少し照れているように見えた。

それを見て安心した私は一度部屋へ戻ると、冷蔵庫からチューハイを二本取り出し、一本を彼へと手渡した。戸惑いつつもそれを受け取った彼は「ありがとう」と小さく発し、私は「乾杯」と言って彼の持つ缶に軽く打ち付けた。

窓の外に脚を出し、並んで座る。肩が、二の腕がくっつく。私はそのくらいの接触ならあまり気にならなくなっていたのだけど、顔を逸らしている遥の耳は、少しだけ赤くなっていた。

示し合わせた訳でもないのにプルタブを開けるタイミングが被ると、お互いに顔を見合わせ、今度は遥も肩を揺らして笑った。その時ばかりは肌が触れ合っても気にならない様子で、それが嬉しかった私もまた、声を出して笑った。

こういう小さな事で笑い合えている今が、ずっと続けばいいと思った。



「今まで話したことも、それに、助けてくれたのもさ、全部本当なんでしょ?」


いつも伏目がちだった遥は少しづつだけど、長く垂れた前髪の隙間から私の目を見てくれるようになったと思う。私が見返すとすぐに髪を振って目を隠すけど。


「まあ…助けたのは打算というか、僕のためだったけど」


「あのね、確かに私は遥に助けられたけど、困ったら助けてくれるからって理由で君と一緒にいたいわけじゃないよ」


「…え?」


「頼りにはしてるけど、困ったら遥に助けてもらえばいいって、何か面倒があったら遥になすりつければいいって、そんな風に遥の良いところに寄生してるわけじゃないってこと。

結構価値観も合うし、話してて楽しい。一緒にいて楽しいから、私は遥といるこの時間が好きだよ」


私のその言葉に、遥は心底驚いているような、理解が追い付いていないような、そんな様子だった。

この子は多分、同年代の他の子よりも色々なことを考えている。

けれどそれが起因してか、人のいいところや凄いところが実際よりも大きく見えているのかもしれない。

自己肯定感の低さも相まって、肥大化したそれと自分を比べて、自分には何も無いって悲観的になって、卑下して、より自分を嫌いになっていったんだと思う。

だから司馬君たちや舞菜ちゃんたちと仲良くなった今でも、相手が困っていたら助けて、必要とされようとすることくらいでしか、関係を続けられないと思ってるんだ。


「そんなこと…初めて言われた」


そう言う遥の様子は落ち着きがなく、こそばゆいのか頬をかいていた。


「こういう話にでもならないとあまり言う事はないしね」


私は一本目を飲み干すと、缶を流しに置きに行こうと立ち上がった。すると遥が、まるで私を追うように慌てて飲み干して後を付いて来た。

その様が、なんだか急に弟が出来たようで、可笑しくて可愛らしくて、笑ってしまいそうになった。



新しい缶を遥に渡し、窓辺に座る。煙草に火を点けた彼は、申し訳なさそうに膝を抱えて言った。


「唯のことも、唯のその言葉も信じれる。でも僕は…僕を信じれない…。

僕には人と関りを持った経験が殆どないから、こういう時にどうしたらいいかわからない」


…良かった。


「じゃあ、私が信じてあげる」


私を信じてくれるなら、私は、きっと遥の力になれる。


「えっと…?」


「遥は人を尊重しすぎなんだよ。こんなの、うじゃうじゃいるだけ。感情を持ったうるさいだけのただの群れ。尊重は大事だけど、それに値しない奴なんていくらでもいる。

遥も本当はわかってるんじゃないかな。だからあの時、おじさんを突き飛ばしたんでしょ?」


「…うん」


「万人に必要とされなくってもさ、自分の周りの人から必要とされたら、それだけでもう十分だと思うよ。確かに少し前まではさ、友達も、それどころか知り合いもいなかったのかもしれないけど、今は学校にも、他校にも、ここにも、遥のことを損得抜きで必要として、大切に思ってる人がいるよ」


「倫理的には困ってる人を助けるのは大切なことなのかもしれないけど、まず遥は、自分自信を助けてあげようよ」


「ありがとう…でも…」


遥は一層強く膝を抱え込むと、震えた声で訥々とつとつと続けた。


「でもさっき、唯に何も言えなかった。鬱病って言ってくれて…辛いことまで話してくれて、苦しかっただろうに…なのに、何を言えばいいのかわからなくて、何も言えなかった。

今の唯みたいに、色んな事が言えたら…力になれたのに…」


「…遥、そんな高いレベルのいい奴でいたいの?」


「…え?高い?」


驚いたような表情を浮かべる遥と目が合った。

相変わらずすぐに前髪で隠されてしまったけど、良かった。

泣いているわけではないみたい。


「高いよ。

ああいう話を急にカミングアウトされた状態じゃ、私だって何言えばいいかわかんないもん。

多分何も言えないよ。

それに、私のはお医者さんとか専門家とお話して、お薬飲んで、時間もかけて、基本はそうやって治していくものなんだよ」


「そうなの?」


「そうだよ。まあ、専門的な知識が無くても、身内からの優しい言葉が薬になることは確かにあるかもしれないけどね」


「なら…」


「でも遥はさ、あの時…言葉の代わりに手を握っててくれた。ぎゅってしてくれた。手が少し冷たかったけど、私はそれですっごく安心した。

言葉だけじゃない。側にいてくれたり、話を聞いてくれたり、そうやって寄り添ってくれる人がいるだけで、救われる人だっているんだよ」


「私は今、今までにないくらい救われてるよ」


「…そっか、それは…うん。

…よかった」


どこか毒気の抜けたような表情をした遥に私は続けた。


「情けない話、最近毎日泣いてたんだ。朝から晩まで、何もできなくて、ずっとベッドでカタツムリになってたんだよ。

でも今日は遥といろんなことを話せてるから、今は凄く楽しい」


私は煙草に火を点けた。すると遥も釣られるように火を点け、二人夜空を見上げながら煙を吐いた。


「だからさ、相互扶助そうごふじょだよ。助け合うの。当たり前のことだけど、当たり前のことだから、よく忘れられちゃうんだよね。助けるだけじゃなくて、遥も助けてもらうの。遥の友達なら喜んで力になってくれるよ。

私も遥が自分のことを信じられるように、側にいるからさ」


しかし、積み重ねられた自己肯定感の低さはそう簡単になんとかなるものではなくて、その言葉を聞いた遥は案の定、視線を下に落とした。

きっと、そこまでさせる申し訳なさと、あと一つ。


「でもじゃあ僕は…唯に何を返したらいいんだろう」


この期に及んで遥が気にするのは、やはりお返しのこと。今はこちらがお返しをしているのだから、それだけを大人しく受け取ってくれればいいのに。

私としては、彼には散々お世話になっているし、助けて貰っている。待ち合わせの時には既に結構酔っていたオケオールの日、変に距離を縮めようとしてしまったあの日ですら、笑って許してくれた。


だから…


「こうしてくれたらいいよ」


私は遥の手を強く握った。


だから、私は遥を支えたいんだ。


「…そっか」


遥は不意に手を握られた事に一瞬身を震わしたが、直ぐに握り返してくれた。

自分から握っておいてなんだが、私はそれがなんだかむず痒くって、結局それからお互い黙りこくってしまった。

けれどその沈黙が、私には二人の答えのように思えた。


彼は女装、私は変装というそれぞれの秘密を暴露し合って、互いの辛い内面も打ち明け合った。


これが友達じゃないなら、一体何だと言うのか。


遥と目が合い、二人、少し気まずそうに笑い合う。でもそれは多分、お互い照れくさいからだ。



* * *



『話?え、何々?』


「それでね、ちょっと今から三人でうちに来れないかなって…」


『唯てゃの家?いいよ~』


「ごめんね。ありがと。

住所はメッセ送るから」


「あ、遥はもう来てるよ。

ちょっと…びっくりするかもだけど…」


『何それ気になる!ダッシュで行くね!』


「待ってるね~。

…ダッシュで来るってさ」


僕達は部屋へ戻ると、舞菜達をここへ呼ぶために電話かけた。

そう、伝えるのだ。女装と、変装を。


「やばい…緊張する」


さっきは何て言うか、勢いがあったから何とか一息に話せたけど、改めていきさつから伝えるとなると…何だ…何か…面接当日だな…。


「大丈夫だよ。皆いい子」


ベッドに腰かける唯は、その足元に座る僕の肩に手を置き、そう言ってくれた。

これが年上の余裕か…。


「うん。そうだね」


にしてももう夜なのに、今から来れるんだな。やっぱり凄いなギャルは。


「あ、舞菜ちゃんたち駅に居たみたい。すぐ着くって」


「マジ?ちょ、一本だけ」


「だね、吸おっか。


…遥」


「ん?」


「さっきは言えなかったけど、遥はもう、打算で人を助けてないと思うよ。

だから環さんの写真を見た時も、私が話し終わった時も、手をぎゅってしてくれたんでしょ?」


…唯は、本当に凄いな。

どこまで僕を気遣ってくれるんだ。

胸がすっとすいたような感覚だ。今日一日だけで、何度これを味わったことか…。


「そうなのかな…でも…うん。

そうだといいな」


何度も救われた。やり場のない気持ちや、折り合いの付かない感情の全てを受け入れてくれて、いつか誰かに聞いてもらいたかった、そんな話も聞いて貰えた。

必要とされるとかされないとか、そんなのはもうどうでもよくて、今はただ、抱えきれないほど貰ったこの嬉しさを、少しでも多く彼女へと返したい。

手を握ってくれたらいいって、それはちょっとハードルが高いけど…。


窓を開けてベランダに立つと、急に吹いてきた強い風に僕の前髪はかき上げられてしまった。

けれど、なんでかそれはもうあまり気にならなくて、こちらを見つめる唯と目が合った。


「…逸らさなくなったね」


「もう、唯になら見られてもいいやって」


「すぐ目逸らしたり隠したりするの、可愛かったから。ちょっと残念」


「からかわないでよ」


熱いスープを飲むように吸いながら、火を点ける。同じ要領で吸って、吐いて。


僕は、持てるだけの勇気で唯の手を握った。


緊張して顔が見れない…自分から異性の手を握るなんて、生まれてこの方初めてなんだ。

やっとの思いで横目で見た唯は、悪戯っぽく目を細め、口の端を吊り上がらせていた。


「…これからもよろしくね。遥」


「っこ、こちらこそ…唯」



ああ…


こんなふうに思い、想うのは、僕がまだ高校生だからだ。

きっとそうだ。



今夜は月が綺麗だ。

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