「お前ら、オケオールはヤバいぞ」


月曜日の放課後。僕はファミレスで、司馬と桜井に”女装によって引き起こされたあらゆることの顛末てんまつ”について話した。

何をどう伝えても「女装で下校したらギャル四人と仲良くなり、内一人とはキスをした」なんて、イタい奴の妄想感が拭い切れないけれど、どうやら二人とも僕の話を信じてくれたようだ。

桜井には服を借りる際にあらましを伝えてはいたが、司馬に関しては全てが初耳だからか、随所に大きなリアクションを取ってくた。


「ヤバ…」


司馬は指先でつまみ上げたフライドポテトをぽてっと落とし、そう漏らした。


「僕もそう思う。情報量多すぎるし、未だに上手く整理つかないよ」


「だろうな。それに、何で唯って人はお前にキスしたんだろうな?」


「そんなの僕が聞きたいよ…」


すると、司馬の隣でシェイクを啜り終わった桜井が口を開いた。


「遥は女装してたのに、その遥にチューしたんでしょ?距離も異様に近いしレズなんじゃない?」


「っぽいよな…。じゃあお前、唯って人と付き合えねぇな」


「…は?」


「だって、お前はその人が好きだろ?」


見抜かれたようでドキッとした。正直、自分でも薄々そうじゃないかと思っていたからだ。距離は近いし、ボディタッチはしてくるし、果てはキスまで…。

綺麗で、優しくて、気にかけてくれて、距離が近くて、趣味も、価値観もそれなりに合った。

…でも、だからこそだ。


「…いや、まだ知り合って数日だし、好きか嫌いかなら好きだけど、でもそれは友達としての好きだと思うよ」


それに何より、僕は女装をしていたんだ。

本当の僕で会っていないのに、好意なんて認められないだろ。


「知り合って数日とか、そんなこと言ったら俺と桜井はどうなるよ」


「二人はだって、お互い一目惚れじゃん」


そう、この二人は入学式でお互いに一目惚れをし、その場で交際がスタートしたという変わり種だ。

顔立ちや体格が男らしく頼れる司馬と、壁を感じさせない砕けた性格の美少女桜井。いわゆる”持っている”側。この二人を一言で表すなら「顔も性格もいい奴ら」だ。


「だから、お前らもそうなんだろ?」


「出会って三日でキスだもんねぇ」


「いや…ないよ…」


そう、いい奴らなんだ。

司馬はメニューを見ながらポテトを完食した。特に何を頼むでもないのに。

こいつは僕の目を見ないようにしてくれているのだ。話題が話題なだけに、つい目を見て話しそうになるのを、メニューで誤魔化してくれている。不器用な彼なりの配慮だ。

そして、唯の積極性を話に聞いているからなのかもしれないが、彼女が僕のことを好きと信じて疑わないところも、いい奴だ。

公園で撮った写真を見せた。唯の容姿が端麗なことも、モデルのようにスタイルが良いことも知っている。その上で、僕には彼女を惚れさせるに足る魅力があると信じて疑わない。

桜井もそうだ。こんな僕に協力してくれる。異性相手に服を借すのなんて嫌じゃないのかな、と気にする僕を尻目に、あれやこれやと悩んでいるときの彼女は、むしろそれを楽しんですらいるように見えた。誰との間にも壁を作らず、何でも楽しめるような、そんな性根なのだ。


しかしそんな桜井だが、実は割と普通に僕の顔を見てくる。

あれはいつかの昼休みのことだ。

顔を見られること、目を合わせることが苦手な人の顔を、何故わざわざ見るのか。それが気になり、問いただすとまではいかない調子で訊ねてきた司馬へ、彼女は言った。


「あんまり露骨に見ないようにするのって、逆に失礼じゃない?腫れ物に触ってるみたい。そんなんじゃ遥だって気にしちゃうでしょ。

真一みたいな接し方は私には合わない。私は、遥がそういうのを少しでも気せずにいられるように、自然に接したいんだよ」


通りがかりの僕は、廊下の角から先へ進めなくなってしまった。

潤んだ視界で歩くのは危ないから。


二人が僕のことをそこまで考えてくれていたことが、ただひたすらに嬉しかった。


僕は勝手に緩む口元を、アイスコーヒーを啜って締めなおす。

いつだって誠実な二人を見て、僕の腹も決まった。



二人と別れた僕は、一人家路を辿っていた。

結局”僕は唯に惚れているか、唯は僕に惚れているか”という論議は、平行線のまま進まなかった。

いや、半分は僕が彼女への好意を認められればいいわけだが”僕”として会っていない限り、それがとにかく難しい。かと言ってじゃあ”僕”として会えるのか、会えば認められるのかと言われれば…それもまた難しい。


「というか、好意を抱いてるとか抱いてないとか、そこまで重要か…?」


せっかく仲良くなれそうなんだ。


「…急に肌寒くなってきたなぁ」



だから、決めたのだ。



* * *



「はい…はい。私自身も…お医者さんにもまだ休むよう言われていますので…はい、すみません…失礼します」


身寄りない私の手を引いてくれた。ここへ連れてきてくれた。母の様な、姉の様な存在の彼女。


あの日、私がもっと…

私に、私の声に、もっと力があれば…

私のせいで…たまきさんは…


ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。


無気力で自堕落な私。あの人に活力の全てを持っていかれてしまった私。

あの子は私と仲良くなりたいと言ってくれたけれど、この私を見たら、もう関わってもらえないかもしれない…。


…いや、きっと関わってくれるんだろうな。

優しく、寄り添ってくれるんだろうな。


机の上。吸い殻の溜まった灰皿。USB扇風機。診断書。


「…もう暗いな。電気点けたいけど無理だ…

寝よう」



私の居場所は……



懐かしい夢を見た それはまだ私がデビューして間もないころ あの人と二人で出演したネットのコマーシャル 二人で手をつないで浜辺を歩いた 思えばあれが唯一の共演だったな それからはお互い少し忙しくなって 私はようやく主役の座を手に入れたんだ あの人は私より凄い作品で主役を演じた あの頃は良かった どれだけ追いかけても遠のいていくような背中がとてもきれいだった でもあの人はあの報道から落ちていった 有名俳優との熱愛報道 清純派でもなかったのだから利用してやればいいのにと思ったのだけど どうやら相手には妻子があって 上手く立ち回れなかったのが祟った 落ちて 落ちた あの日からあの人の私物は動かしていない 遺影を置くためにお酒の缶を少しどけたくらい 宣材写真は本当に良く撮れていた


「だから…私の…

…朝?」


午前七時。九月も終わりの方になると、このくらいの時間はかなり涼しかったりする。


朝、目が覚めてすぐにうつぶせになると、体の力が一気に抜けるの、やだな。

起きないと…最低限規則正しく生活をしていることだけが、今の私を支える屋台骨なんだから。


私はやっとの思いで体を起こすと、足を引きずるようにリビングへ向かった。

懐かしい夢を見た。だからだろうか、遺影に手を合わせるのは久しぶりだ。


「環さん、私ね…」



「私…」


しかし、肝心の言葉が何も出てこなかった。

恩人に何も伝えることができない自分の情けなさと、握りつぶされるような胸の痛みに、うずくまっては涙を溢れさすだけだった。

伝えたいことはあるはずなのに、言葉にならない。出来ない。考えて、ぼんやりとした輪郭が頭の中にあって、ただそれをどう成形したらいいか、触れれば触れるほどにわからなくなっていく。


私は、涙も鼻水も拭えないままベランダへ向かうと、煙草に火をつけた。

嗚咽のせいで変に吸い込み、酷くむせた。肺がズキズキと鼓動より少し早い足で痛みを訴えてきたが、それを押さえつけるように、深呼吸をするように煙を吸い込んだ。


…そうだ、自殺は怖いから、誕生日に買ったんだ。

少しでも早く会えるように。


「なんでこんな気分になるんだろ…

この家は好きだけど…好きだから、息苦しくってしかたない」


環さん。環さんに会いたい。


私に似てる環さんに…。



* * *



深夜、スマホが鳴った。


『オケオールの後、家に帰ってから色々考えて、友達にも相談したの』


腫らした目で見た遥からのメッセージは、そんな文章で始まっていた。


要約すると、会って話がしたいらしい。


遥…遥にも会いたいな。

悲しくて、寂しくて、胸の奥がずっと痛いよ。涙も止まらないの。

遥はね、環さんに似てるから、だから思い出しちゃったのかな…。


また一緒に煙草吸いたいな…。


「…返信しなきゃ」




『私も会いたいって思ってたから嬉しい🥰』


唯からの返信はそんな書き出しだった。


要約すると「週末に家に来ないか?」と言う誘いだった。


家…唯の家…

喫煙室で話した内容の一つに、互いの私生活についてのものがあった。

僕の記憶違いじゃなければ、彼女は一人暮らしだ。

机の引き出しに一度膨らまして遊んだだけのアレがある…

…いるか?

…いやいらないか…いやいやワンチャン……


引き出しを開け、箱の中からそれを取り出す。


「”財布に入れておくと金運がアップする”って説は、浮気がバレそうになった男の言い訳が元らしいけど、本当なのかな。

てかこれいつのだっけ?一年前くらい?

…置いてくか」


僕は割と確かな意思を持って、眠りについた。

いつまでも嘘を吐き続けるわけにはいかない。不誠実でいたくない。

土曜日に僕は「実は男だ」と唯に伝える。そして、その上で友達になってくれないかと頼んでみる。

いきなり男の恰好で会うわけにもいかないから、まずは女装からだけど…。


「”まずは女装から”ってなんだ」


改めて考えてみるとその素っ頓狂っぷりに、フッと鼻が鳴った。


「舞菜さん達にも、ちゃんと話さないとな」


受け入れてくれるだろうか。きっかけは不可抗力みたいなものだったけど、人によっては強い抵抗があるかもしれない。

決意は決意としてあっても、そこには不安や期待、様々な感情が同居する。

意を決すると書いて決意。

恥ずかしさとか怖さとか、そういう”人を億劫にさせる全部”を飲み込んで伝えるんだ。


「そう考えると、人に何かを伝えるって凄いことだな」



翌日、学校ではなかなかタイミングが合わなかったため、僕は帰宅してから桜井に再度服を借してくれるよう頼んだ。


『まだ続けるなら今度一緒に買いに行く?』


その優しい地獄のような第一声に僕の心臓は締め付けられた。しかし僕としては、女装はこれで最後のつもりなので、そこは強気に断らせてもらう。

当日の流れとしては、まず司馬と合流し、部活終わりの桜井を迎えに行く。その後彼女の自宅へ向かい、適当に合いそうな服に着替え、メイクを施してもらう。そして夕方に駅前で唯と合流する。


「上手くいけばこれで最後だから」


『上手くいくかぁ…?』


「話せばわかってくれる人だとは思うんだよ」


桜井はかなりいぶかしんでいる様子だった。

しかし、出会って間もないことに違いはないが、僕は唯が性差で相手を選ぶような人間には見えなかった。

もしそれで友達になることができなかったとしたら、それは唯ではなく僕自身に問題があるのだろう。


『まあ悪い人ではないんだろうけど、高校生なのに紙の煙草吸ってるからなぁ』


「電子ならいいみたいな言い方」


含みのある桜井の発言に、僕はついそう突っ込んでしまった。


『電子ならいいんじゃないの?』


「駄目に決まってんだろ!」


一体僕はどの口で言ってるんだ…。



* * *



深夜一時。真っ暗な部屋の中。スマホの画面が場末のステージを見下みくだすスポットライトのように私の顔だけを照らしていた。


明日、明日。遥が家に来る。

明日、伝える。

本当は高校生じゃない、二十歳なこと。君が「可愛い」「ちょっと私たちに似てるね」って言っていた、動画の広告のあの女優が私なこと。心の病気でまともに働けていないこと。

どうしようもない人間だけど、それでも、これからも友達でいてほしいこと。


「部屋の電気…今週は全然点けてないな」


「明日は点けよう」


「カートンも買ったし」


「遥、ドリンクバーのりんごジュースよく飲んでたな」


「お菓子は何が好きなのかな」


「明日スーパー行かないと」


「リビングのことは…どう説明しよう…」


やることリストを口に出すと自分の中で整理出来てリラックス出来るって聞いたことあるけど、それでもやっぱり不安だなぁ…

ちゃんと伝えられるかな。

環さんの代わりにしているつもりなんてないけど、傍から見たらそうなのかな。

そう思われても仕方ないけど、そう思われてたらやだな…。


「明日は九時くらいに起きて、掃除をして、買い物に行こう」


「帰ってきたらシャワーを浴びて、着替えて、遥を迎えに行こう」



「頑張ろう」



ベッドの上で身を翻し窓側へ向くと、今日が満月だったことに気付いた。きらきらと光る星がいくつも見えた。その星々はどこか揺れていて、その様子が、私を笑っているように思えて仕方がなかった。カーテンを閉じようかと考えたが、遠くでただ光っているだけでいい星は、すべてがどれほど楽なんだろう。とも思った。

もう一度星を見やると、それらは相変わらず揺れていた。けれど今度は、どこか怒りに震えているように思えて、それがなんだかおかしかった。

今日はなんだか、いい気持ちで眠れるような気がした。



* * *



その日はとても晴れていた。学校と司馬夫妻の家、そして唯の家の最寄りでもある待ち合わせ場所の駅に着いた僕は、現在進行形で遅刻している司馬の到着をぼーっと待っていた。

もうすぐ十月になる。少し前までの、それこそ唯と初めて会った日のような夏日はどこへやらと言った感じで、何かを一枚羽織らないと二の腕に鳥肌が立つような涼しさに、僕は軽く身体を震わせた。

今日。いよいよ今日だ。

唯に、君が女だと思っていた遥ちゃんは、実は遥君なんだと伝える。彼女がどんな反応をするか見物だとか、そういうドッキリのような空気感ではない。真面目に、真剣に伝える。

その上で友達になりたいとも。

既にかなり緊張しているのが自分でもわかる。入試面接当日の朝のような緊張感だ。


なんだろう、無性に煙草が吸いたい。


あの日だけとは言え、僕は喫煙を経験してしまった。今更ブレーキは機能しない。それに、喫煙をするとリラックス効果が得られると聞く。早く着替えて唯の家に行って、一服したい。落ち着きたい。


「司馬はまだか…?」


言うが早いか、スマホに通知が入った。司馬からだった。


『わりー遅れる』


もう遅れてるんだよ!とつい突っ込みたくなってしまった。


…しかし、司馬も桜井も、今回はやたら協力的だ。前回の”一ヶ月間床に直座り禁止”の時は普通の体育座りが出来ず、お尻と床の間にシューズを挟んでいた僕を指差し笑っては連射撮影していたというのに。

言い出しっぺが自分達だからだろうか?賭けに負けたのは僕なのに、律儀と言うか何と言うか、やはりいい奴らだ。


「大丈夫。気を付けて。」


そう返信を送りなんとなしに遠くを見やると、バスロータリーの奥にある交差点のあたりに、テレビクルーのような、報道陣のような、そんな群れがあった。

その群れの中心はサングラスをかけたモデルのような女性で、特別ミーハーでもない僕は「外を歩くだけで囲まれるとか、有名税って大変だな」なんて思うだけだった。



* * *



その日はとても晴れていた。この間までの残暑はどこへやら。街にはすっかり秋を感じさせる心地の良い風が吹き始めていて、露出している腕や足首には肌寒ささえ感じる。

少し薄着での買い物だが、しかし問題はそこではなかった。


変装をしていなかったことだった。


サングラスをかけただけの普段着。いつもの制服を着ていれば良かったのだが時は既に遅く、私はマンションを出るとすぐに数人の記者に囲まれた。


三宅みやけ唯さんですよね!お体はもう大丈夫なんですか?」


直接触れてはいけないためか、彼らは波のように私を取り囲んで詰め寄って来た。


「こ、困ります、やめてください」


その圧迫感が耐えられず、私は彼らを振り切ろうと足早に歩き出した。しかし彼らは粘着質なストーカーのようで、同じように歩調を早めて追って来る。

真実を伝えたいだの、報道の自由だのと奇声を上げながら、人の心を踏みつけにする。


「少し!お話だけでも!」


「急いでるんで…来ないでください」


あの時、私の声が彼らよりも大きければ。

私の後悔にいつまでも付いてくるこの声が、不快で仕方ない。

…なのに、今も、もっと強気に出られたらいいのに…激昂げっこうして、ついてくるなって、言えたらいいのに…。

喉が、思うように開かない。息が切れて、上手く声が出せない。

彼らを一目見た時、心臓が締め付けられるような苦しさに襲われた。背中に刺すような汗が噴き出た。


私はまだ、私で外に出ちゃいけなかったんだ。


「では、最近あなたによく似た人物が、制服を着てこのマンションから出入りしているようですが…それについてはどう思われますか?」


その問いに私の足は止まった。

質問の主は小汚く無精髭を伸ばした、とても記者のようには見えない男だった。

そして彼のその一言をきっかけに、他の者は一斉に口をつぐんだ。

そうか…初めからこっちが目的だったんだ。

病んで休業中の女優が、高校生のふりをしているなんて、確かに話題にはなるだろう。

私の心臓は一層強く締め付けられた。どくん。と胸を痛ませて、周囲の音をかき消すような鼓動を鳴らす。それは「一刻も早くこの場を離れろ」という警鐘のようにも聞こえた。


「そん!そ、そんなの…!し、知りません!」


呂律の周り切らない力の抜けた口で辛うじてそう叫ぶも、私は足を釘で打ち付けられたかのようにその場から動かせず、ただ拳を握って俯くことしかできなかった。


「逃げようとしないでくださいよ」


逃げようとなんてしていないじゃん。苦しくてそれすらできない。動けない。

額にべっとりと脂汗をかいているのがわかる。上手く息ができない。肩が上がる。私の中のどこか冷静な私が「緊張している」と言う。

ハッ…ハッ…と短い感覚の息が、爆ぜるように口から発せられる。


「やましいことがないなら、お話聞かせてくださいよ」


変装して高校生と友達になった。なんて、どう言ってもやましく変換するくせに。


「そんな泣かずとも…我々が悪者みたいじゃないですか」


…泣いてる?

泣いてる…かも。汗か涙かもわからないもので、頬が濡れているのがわかる。


「皆さんもあなたからの言葉を待っていますよ」


違う。人を傷付ける材料と、少しでも自分達を正当化させられる”相手側の落ち度”を待っているだけだ。

そうやって何人も傷付けて、反省の一つもしない。

大衆も、それを煽るこいつらも、大っ嫌いだ。


私は握った拳に、さらに力を込めた。足が動くかはわからなかったが、とりあえずこいつを一発ぶん殴ってやろうと思ったのだ。


いつの間にか呼吸は落ち着いていた。


「そろそろ何か喋っ…」


その記者が口を開くと同時に私は拳を振りかぶった。

けれど問題の記者は、それとほぼ同時に脇から飛び込んで来た人に激しく押し倒されると、みっともなく転がっていった。


「お姉さんこっち!」


急に飛び込んで来たその男は私の拳を包むように握ると、駅へ向かって走り出した。

私の足は何事も無かったかのようにそれに合わせて動き出し、整理も何もつかないまま、引かれるがままに走った。

後方から聞こえる怒声に、耳を傾ける余裕はなかった。



* * *



離れていてもわかるほどに、その女性の様子はおかしかった。報道陣のただの取材で、ああも苦しそうにするだろうか。

ロータリー前の交差点で、信号が青になっても動かない。野次馬がわらわらと集まり始めたあたりで、もう見ていられなくなった。


割って入って止めないと。


僕は野次馬連中をかき分け入り、なんとかその先頭に辿り着いた。

そして聞いた。


「我々が悪者みたいじゃないですか」


女性は酷く汗をかき、肩を震わせ、過呼吸のように不規則な呼吸をしていた。

この人が何をしたかとか詳しい事情なんて何にも知らないけど、こんな衆目に晒し上げるようなやり方は間違ってるだろ。


「悪者じゃないなら何なんだ?」


誰にも聞こえないような声でそう言った。もしかしたら声にはなっていなかったのかもしれないが、僕はそんな思いで記者の横っ腹に肩から突っ込んだ。

それは見事なタックルで、彼はみっともなく転んでいった。


これで良いかな。

強く握った拳を振りかぶったまま、頬に涙を這わせるその人を見て、そう思った。



* * *



「ふぅ…とりあえず構内なら人も多いですし、大丈夫だと思いますよ」


改札前にあるベンチへ私を座らせると、彼はそう言って手を離した。

前髪とマスクで顔はわからないが、雰囲気は高校生くらいの若者といった感じだ。


「あ…ありがとうございます」


「いえ、お姉さんは大丈夫ですか?

僕ちょっと友達と待ち合わせしてて、もう行かないとなので」


呆気に取られながらも何とかお礼の言葉を絞り出すと、彼は今来た道に足を向けながらそう言った。


「はい…

あ、あの…お礼…」


「大丈夫です。無事ならそれで。

あ、でも、念のため友達とかに連絡して、迎えに来てもらった方がいいと思います」


「ありがとうございます…呼んでみます」


「いえ、では」


「ありがとうございました」


私がそう言うと彼は頭を下げ、歩き出した。

通りすがりに人助けが出来る人なんて、本当にいるんだな。

どこか他人事のようにそう思いながら、彼のアドバイス通りに私は遥へ電話をかけた。予定よりは少し早いけど、情けない話、一人でマンションまで戻れる気がしなかったから。

そう言えば、遥も通りすがりに私達を助けてくれた。だからだろうか、つい頼ってしまう。


さっき助けてくれた彼は、どこへ遊びに行くのかな。


彼が歩いて行った方向を見ると、その姿は少し先で立ち止まっていた。

ポケットからスマホを取り出し、耳元へ運んでいく。その様子は、まるでスローモーションのように酷くゆっくりと私の目に映った。

景色も音もない真っ白な世界に、私と彼だけがいると感じる。それほどまでに視界の狭まった私は、それでも耳にスマホを押し当てた。


電話が繋がった。


「唯?どうしたの?」


偶然…だろうか。


「遥…」


「ん?」


スピーカーからは、喧騒が聞こえる。

雑踏の中にいるような、そんな喧騒。


「後ろ」


「え?何?」


「後ろ。見て」


「え~何それ」


彼が、ゆっくりと振り返る。前髪とマスクで顔は見えないが、よくよく考えれば、背丈は遥と同じくらいだった。

声も、何となく似ていた気がする。


「…唯…?」


カクテルパーティー効果の様に、少し先にいる彼の、遥の声が聞こえた。

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