第32話 第6回サウジアラビアRC②

 ⑧サムライレッドと⑫イセヤフォーマが逃げる形で、最初の1ハロンを12. 3。

 2ハロン目の200~400mも、10秒台後半になろうかという速いペースでレースを引っ張っていく。

 手綱を絞られながらでは、いかに航でもこのペースについていくことができず、先頭集団から遅れ始めた。


「いくらなんでも下げすぎだろがぁあ゛ーー!!」

「わ……悪いっ」


 裕一が慌てて手綱を緩める。

 一列後ろを意識するあまり、中団より後ろ9番手までポジションを下げてしまった。


「ああもうなにやってんだよこのド下手くそ!」


 やることなすこと裏目に出て、イライラが止まらない。

 300m地点を過ぎれば、まもなく上り坂が待ち受けている。

 緩やかながら3コーナー手前に設置された坂。

 これが曲者で、普通なら400m辺りから流れが落ち着くはずが、坂を下りながらコーナーに突入するために、息を入れづらく持続力戦となりやすい。府中マイル戦が中距離を走れるスタミナが要求されると言われる所以だ。

 好スタートから一度はハナを奪いかけた④アブソルートだったが。

 ⑧サムライレッドと⑫イセヤフォーマ2頭競り合いになると見て取るや、名手クリストフ・ルメーンは共倒れになることを嫌ってすぐに先頭を譲る。

 ハイペースで飛ばす2頭から3馬身半離れた3番手を追走。

 それに合わせるように後続が続き、第二集団ができつつあった。


「レナリスハドコデス」


 ルメーンが後ろを振り返り、緑と黄色の勝負服を探す。

 3馬身ほど出遅れてシンガリからのレースとなってしまった②アマノレナリスだったが、道中促しながら馬群に取りつき、現在は12、13番手の位置までポジションを上げていた。

 サウザーファームと関係の深いサンズレーシング、華台レースホースといったクラブ法人の馬に騎乗する機会が多いC・ルメーン。

 アブソルートはいい馬だがレナリスには遠く及ばない。

 上がりの時計がかかる消耗戦を演出して、レナリスに不利な展開にできたとしても、実力的に馬券内に入れるか微妙なところだ。

 どの道、勝ち負けが難しいのなら、サウザーとの関係を考え、第二集団以下のペースを落ち着かせて、レナリスをアシストしようとするが、


「させるか!」


 隊列が決まるかと思われたところに。

 横平典彦よこひらのりひこ騎乗の⑨シングルカシャが果敢に動いていく。

 今年6月、JRA通算2800勝を達成した大ベテランは、中枠外好位から3番手まで押していって、前を追いかける。

 さらには――典彦の動きに触発された⑥ラインローラー、⑦バスクプリュムがこれに続いていった。

 追い込みが届く中弛みの展開にさせじと、天下のサウザーファームに反旗をひるがえした3騎手。

 彼らにしてみれば、普段からサウザーファーム生産の有力馬に乗る機会に恵まれた将雅やルメーンの点数稼ぎに手を貸すのはこの上なく面白くない。

 レナリスに勝たれるくらいなら、日高のモーリス産駒に勝たれる方がまだましだ。

 馬群が固まりだす前に出していった⑨シングルカシャ、⑥ラインローラー、⑦バスクプリュムの3頭で先行集団を形成。

 逃げ馬からつかず離れずの位置を取るためにポジションを押し上げたことで、3番手以降の後続がバラけ、期せずして隊列が縦に伸びはじめた。



 正確な体内時計を持ち、同業者からもペース判断に使われる横平典彦。

 速すぎず、遅すぎずのペースで時計を刻み、意のままにレースをコントロールする。


「ノリがやる気になっとる!」


 場内は大いに盛り上がった。

 馬第一主義で。

 無理に出していったり追ったりしないため、しばしば無気力騎乗との批判を受ける天才肌の騎手だが、滝豊と比べられるほどの騎乗技術は誰しもが認めている。

 ――勝負になる馬なら攻めの騎乗をしてくる。

 ――勝負しにいった時の典彦は怖いと。

 共通認識の騎手たちは、追いかけるかペースを守るか各々選択を迫られ、結果馬群が縦に広がっていく。

 一度は落ち着きかけた流れの中、これ幸いとばかり、⑭ドングラスは内に進路を取る。

 最内こそ取れなかったが、内から2頭分の位置をキープ。ラチ沿いを走る③エクセスの横につけることに成功した。

 ⑧サムライレッドと⑫イセヤフォーマの先頭争いは、どちらも譲らず、前半3Fを34. 4の例年より1秒以上速いタイムで通過。

 リードを4馬身5馬身と取って3コーナーに入っていく。


(シングルカシャは前傾質のタフな展開の方が向くタイプ。イン前有利のこの馬場でも、この相手なら34. 5前後の脚を出せば届くはずだ)


 前の馬を捕らえるためには何秒の脚が必要か。

 競る形になった二頭から距離を置いて折り合い良く好位につけた典彦は、後続が動きづらいペースで馬群を引っ張りながら、3番手抜け出しで34秒台前半の上がりを繰り出して勝つという青写真を描く。


「さすがノリさん……」

「感心してる場合か! これじゃあもう直線まで大きく動くタイミングないんだぞ!」


 直線が長い府中では3角4角から仕掛けたりはせず、追い出しにかかるのは直線に入ってからになる。

 航の位置はちょうど中団。このままでは先頭から8馬身離れた第三集団8番手のインに構えたまま最後の直線を迎えることになってしまう。


(どうする? 府中だと直線に入った直後は内側で馬群が密集する。詰まる時はどんな名騎手だって詰まる)


 それでなくても裕一はお世辞にもイン突きが得意とは言えないのだ。前が壁になって進路を失うケースが少なくない。

 まだ早い気もするが、少し外目に進路を取り、外を回せるようしといた方がベターだと判断し。

 航は内目から外目へ。

 直線でブレーキをかけることなく外に持ち出せるよう、じわじわ動こうとするが――


「まだだ、まだッ」


 裕一がこれを阻止した。

 確かにテンが速くなり流れれば、4F5F区間は自然と緩み、府中芝1600m戦でよく見られる外差しが決まりやすい展開になるが。

 どの騎手も、もはやハイペースで飛ばす二頭はいないものとして乗っている。

 展開の鍵を握るのは⑨シングルカシャ。

 典彦の出方一つで着順がいかようにも変わってくる。


(ノリさんからすれば、中弛みして直線入り口からペースアップするような形は避けたいはず。上がりの差があまりつかない展開を演出されたら、わずかな距離のロスが命取りになる)


 事実、典彦は外から押し上げられないように、コーナー区間に入っても、ミドル寄りのラップを刻み続けている。

 馬場の内外の差がないのならなおのこと。

 裕一は内から馬群を捌いていこうと決意した。



 直線内に進路を取ると決めた裕一。

 終始詰まる展開にさえならなければ、経済コースを通ることができるため、外を回してくる馬よりも優位に立つことができる。

 反面、直線で行き場がなく、進路を確保できなければ脚を余してしまうだけに、航は反対の立場を崩さない。


「正気か!? 人気背負ってマークされる立場なんだからやめとけ、やめとけって!」


 裕一が説得に応じる気配はない。

 前に壁を作って脚を溜めたい裕一にとってこの位置取りはむしろ好都合だったからだ。

 外だ、いや内だと。

 航と裕一が言い争っている間に、脚を使って上がってきた⑩サイモンファンクルが、4コーナーカーブで一気に外から並びかけてきた。


「――あ゛っ」


 と、互いの声が重なる。

 内に閉じ込める気だと。事のやばさに同時に気づいた。


「今すぐ下げろ! 蓋されて詰まっちまうぞ!」


 他に手段がない裕一は、ブレーキをかけることを強いられる。


「言わんこっちゃない。短期免許で来日してる外国人騎手が空気を読んだりするわけないだろ……、だから言ったんだ俺は」


 よくよく考えれば、レナリスが出遅れた場合、実力的に次はドングラスが標的にされる。

 モーリス産駒を勝たせたいサウザーの事情など知らん顔でコレイラが外から被せてくることは十分に予想できた。

 裕一は自身の考えの甘さに歯噛みしながら、いったん下がって新たに進路を探す。


(逃げた二頭は垂れて、高確率で内が詰まる。最内に潜り込むのは無謀な賭けだ)


 4角外を回すにしても、コーナーロスを最小限にとどめる必要がある。

 平場ならいざ知らず、重賞レースは大雑把に乗って勝たせてもらえるほど甘くはない。

 外目に進路を修正し。

 内から三、四頭目あたりを通れるようドングラスを導こうとしたまさにその時――


「ユーーイチィィィィーーーーーッ!!」


 後方から猛追してきた将雅の怒声が。

 レナリスの邪魔になっていることに激高していた。


「くっ! よりにもよって……」


 競馬村という狭い世界が故に。

 レースでは。

 騎手、馬主、調教師、生産牧場の力関係。レースの部分以外での人間関係の力学が働き、時には忖度することが求められる。

 裕一自身も、それでいい思いをしたこともあれば悔しい思いをしたこともある。

 セレクトセールで1億円も出して落札した高額馬が、道中ドングラスから不利を受けて負けたとあっては、騎手や管理する調教師への風当たりが強くなる。

 幹久の立場をわかってやれないほど裕一は子供じゃない。

 全騎手が一発狙ってギリギリを攻めてくるGⅠなら手心を加えるなどもってのほかだが。

 まだ2歳秋の時期。後でいくらでも挽回できる。

 角が立たないよう裕一はレナリスに進路を譲り、大きく外に持ち出した。


「はああああああああああああああああ?!」


 裕一が選んだのは大外ぶん回し。

 航はこれ以上ないほど不満を露わにする。

 怒りで裕一を地面に叩きつけてやりたくなるのを必死に我慢して、第4コーナーを回って直線へとなだれ込んだ。



 3~4角にかけて後続が差を詰め、直線に向くと、縦長だった隊列が横に広がる。

 馬場の三分どころに持ち出した②アマノレナリス。

 ⑨シングルカシャに先頭が変わり、残り400を切っても、将雅の手はまだ動かない。

 動かず、前を塞ぐ馬たちが動いてスペースができるのをじっと待った。

 レース中、騎手は馬をまっすぐ走らせるために、馬上で体重をかけて矯正するが。

 騎手の仕事は馬を速く走らせることであって、まっすぐ走らせることではない。

 だから馬を全力で走らせる最後の直線では、馬は斜めに走った方が速いため、速く走ろうとすればするほど、左右どちらかに寄っていってしまう。

 直線で詰まるというのは、前を走る馬たちがヨレずにまっすぐ走った結果だと。

 将雅はドライに割り切っている。

 前の馬が外にもたれて生じたスペースに潜り込むと、右ムチを一閃――将雅が振るうムチに応えるようにレナリスが馬群を割って伸びてきた。


「よっしゃあーー!」


 よっしゃあぁぁーー!

 よっしゃああぁぁぁぁ~~~~~~~~!!


 鬼の首を取ったように勝ち誇る将雅の顔を見て。

 プツンと、航の中で何かが切れた。


「こ~~~のクソガキャアアアァァァ!!!」


 髪が逆立つほど怒り狂った航が、一番外からレナリス目指して激走する。


「そっちに行ったらダメだっ!」


 裕一が斜行を止めようと左ムチを繰り返し入れるも焼け石に水。

 ⑭ドングラスは中団後方から、高低差2mの長い上り坂をものともせずに駆け上がり、鋭い伸び脚で内にささっていく。

 坂を上がって。

 内で粘る⑨シングルカシャを、外から⑩サイモンファンクルと⑪ガルドーが馬体を併せながら懸命に追い上げ、その間から②アマノレナリスが割って出てきた。

 出遅れが響き、今ひとつ伸びを欠くレナリスだったが、ここでは能力上位。苦もなく抜け出し、将雅は勝利を確信する。

 だが次の瞬間――

 ⑭ドングラスが大外から強襲。

 先頭を捕らえる勢いで内に切り込みながら、レナリスに体当たりする格好になってしまった。

 500kgを優に超える巨体がぶつかってきて、レナリスは軽々と内に弾き飛ばされる。

 裕一に足を引っ張られ、ただでさえフラストレーションが溜まっていたところに、追い打ちをかけるように将雅の恫喝。

 頭に血がのぼって、理性よりも、なにがなんでも抜いてやろうという気持ちの方が勝ち。

 レナリスに負けじと最大出力でぶっぱなすと、意図せず内に寄っていってしまい、二度三度と馬体がぶつかり合う。

 牝馬にしては大柄な部類に入るレナリスだったが、いくら押し返そうとしても、度外れて体幹が強いドングラスはビクともしない。

 押圧されたレナリスは戦意を喪失し、走るのをやめてしまった。

 ずるずる馬群に沈んでいくレナリスを尻目に。

 航は脚が上がり一杯になった後続に影を踏ませることなく1位で入線した。


「どんなもんじゃああああい!」


 アマノレナリスを完封。

 伝説の始まりだと航は吠える。

 一方で――

 裕一は『審議』と表示されたターフビジョンを見つめながら放心状態になっていた。

 1位入線したドングラスは当然のように審議の対象となり。

 直線でアマノレナリス(9位入線)の進路を妨害したとして9着に降着となった。

 銀行レースのはずが、一番人気と二番人気が飛ぶまさかの事態にスタンドは大荒れ。

 大金を紙くずにされた観客たちから罵詈雑言が飛んでくる。


「金返せやボケ!」「二度と買わんわこんな馬」

「福島にでも行って走ってろ!」

「スペシャルの血を穢すなこの豚ァァァァーーー!!!」


 レナリスが出遅れ、スタートから波乱含みとなった第6回サウジアラビアRCは、ドングラスアマノレナリスの同士討ちという誰も予想できない結果に終わり、この件で裕一は開催2日の騎乗停止処分が科された。

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