第31話 第6回サウジアラビアRC①

 戦前の予想を覆し、ドングラスが持ったままデビュー戦を楽勝。

 待ちに待ったモーリス産駒の勝利に、サウザー関係者は大きく胸を撫で下ろした。

 長いトンネルから脱出したモーリス産駒は、翌週から憑き物が落ちたように勝利を重ねていき、

 そして8月23日。

 カイザーセレクトがクローバー賞を優勝。モーリス産駒初のオープン勝ち馬となり、残すはモーリス産駒から大物が出てくるかどうかが焦点になっていた。


 ――モーリス産駒から大物を。


 そこでサウザーファームが白羽の矢を立てたのは、新馬戦ゆるゆるの状態にもかかわらず、着差以上の力を見せつけたドングラス。

 来年オークス大本命アマノレナリスとぶつけることで、その実力を内外に知らしめようと一計を案じた。


「なんてこった……次走は1勝クラスを予定してたのに……」


 幹久は膝に手をつき下を向く。

 サウザーの強い要望により、サウジアラビアロイヤルカップに出走することが半ば強引に決まってしまった。

 相手はデビュー前から怪物牝馬との呼び声が高かったアマノレナリス。評判通り、ストライドが大きくキレキレの末脚でデビュー戦を飾ったディープインパクト産駒だ。


「裕一ぃ、どーするよー?」


 確実に収得賞金を積み上げるために条件戦を使いたかったのに。

 幹久が泣きを入れる。

 舞台は函館から府中へ。洋芝から東京の軽い芝での決め手比べになる。

 それに200mの距離短縮は、来春のクラシックを見据えた調教をしているドングラスにとって望ましいこととは言えない。


「そう悲観することもないかと」


 レナリスとドングラスのワンツー決着は固く、負けても2着で収得賞金を積み上げることができるというサウザーの読み。これは裕一も同意見だ。


「どう乗るつもりだ?」


 裕一はしばし口を噤んでから。


「枠を見てからですね。枠を見て。それから決めたいと思います」


 前に行ければチャンスはある。

 しかし出走予定馬は15頭。

 内枠を生かして先行策を取れる馬でも、

 外枠から良い位置を取るのはなかなか難しいところがある。

 このレースは一にも二にも賞金加算を念頭に置いてかからなければならない。

 勝つためのレース運びをするよりも、2着を確実に取れる競馬をすることが何よりも重要だ。


「内枠、欲しいよなぁー」


 内めの枠を引いて先行インベタできればと。

 幹久は裕一の心を代弁するように呟いた。


 この会話から2日後の10月9日――

 翌日10日に行われるGⅢ・第6回サウジアラビアRC(東京芝1600m)の枠順が確定し、

 アマノレナリスは2枠2番、ドングラスは8枠14番に入った。


            ☆            ☆


 2020年で6回目を迎える2歳重賞サウジアラビアロイヤルカップ。

 秋の東京開幕日に行われるマイル戦は、前身のいちょうステークス時代から多くの出世馬を送り出してきたクラシックの登竜門的レースとなっている。

 来年のクラシックに直結する大事な一戦。今年も東西の素質馬15頭が府中に集結した。

 15時30分現在の最新オッズは、

 川北将雅かわきたゆうが騎乗のアマノレナリスが一番人気で2. 6倍。

 以下、ドングラスが3. 3倍、サイモンファンクルが12. 1倍、アブソルートが17. 6倍と続いている。

 素質の高い馬がそのまま人気通り勝つレースなだけに、サウザーファーム生産馬のアマノレナリスと、六畝厩舎で育成されたドングラスが人気を二分していた。



 本馬場入場の時間になり。

 馬主や関係者に見送られながら、出走馬が地下馬道から出てくる。

 航は行進が終わり、返し馬が始まると、待避所がある2コーナー方向には向かわず、4コーナーまでゆっくり歩いていく。


(午前中から内粘りも利けば、ペースが流れれば差しも利く馬場。芝は開幕週にしては差しが届く感じだな)


 改修工事で直線が26m伸び、コーナーも緩やかになった東京競馬場。

 コースの下には暗渠管あんきょうかんが埋め込まれており、以前と比べて水はけが異常なくらい良くなった。

 東京競馬場改修後は大外回しの差し追い込み勢には厳しく、府中改修前にあった横いっぱいに広がっての直線の攻防は今では見られなくなってしまった。

 前走函館コースでは最終コーナーを回ったあとに手前を変えれば事足りたが、直線の長い府中ではそうはいかない。

 直線に向いてすぐのところに長い坂があり、それを登りきった後さらに約300m走ってようやくゴールにたどりつく。

 馬の能力はもちろん騎手の腕も問われる府中では、位置取り以外に、直線での脚の使い方と手前替えが鍵になる。


(ベントゥーヤは、ゴール前ラスト200m付近で再度手前を変えるよう指示が出たと言っていたが……)


 2度ある手前替えのタイミングを。

 航は府中を経験したモーリス産駒たちの実体験を踏まえて、おおよその目処をつけておく。


(アマノレナリスの能力は世代トップクラス。シャルルと同じレベルの脚が使えると考えておくとしよう)


 となると。

 レナリスより前にいなければ。同じ位置からの決め手勝負では流石に分が悪い。

 待機策だと相手の早仕掛けによる自滅待ち。

 前が総崩れにでもならないかぎりは自分にチャンスは回ってこない。

 一番安定して結果が残せる戦法はどれなのか。

 納得がいくまで頭の中でシミュレーションを繰り返す。

 データー上では東京芝1600m戦は枠順による有利不利は少なく、スローになりやすい傾向にあるが。

 サウジアラビアRCは東京開催初日にあるレースだ。

 芝の状態が均一で、内と外、どこを通っても同じなら、当然内を通ったほうが有利になる。

 先行だろうと差しだろうと、どの騎手も最短距離を走ることを心掛けて騎乗してくる。


(前残りになりやすい開幕週。前目で競馬をしたい馬が多いため、多頭数なら先行争いが激しくなってもおかしくない)


 内好位が理想だが。

 過度な先行策で消耗してしまったり、中途半端に先行して終始外外を回らされたのでは、最低ノルマの2着確保すら危うくなる。その辺のことは航も心得ている。


(距離ロスを抑えるために内に入れる。まずはそこからだ)


 外枠から外目好位につけてロスの多い競馬をするよりも、今の府中だと馬場の内側を走ることを優先した方が好走率が高くなる。

 内前か内差しと最適解を出すと。

 航は迷いのない脚取りで返し馬に入っていった。


            ☆            ☆


 レース発走5分前。

 各出走馬の返し馬が終わると、向正面右奥に設置されたスターティングゲート後方で輪乗りが始まる。

 枠入りの合図がかかるまで輪を描くように歩きながら、航は今レース最大のライバルになるであろうアマノレナリスの様子をじっとうかがう。


(周りの馬と比べても発汗が際立つ。あの鞍上。川北とか言ったか。顔こええし、アホみたいにピリピリしてんな)


 パドックでは落ち着いて周回していたのに。

 レナリス一頭だけ背中に白い泡状の汗をかいていた。


(あいつなんでこんなに気負ってんだ? 普通に外から差して来るだけだろ)


 力が1つも2つも抜けている馬に乗る場合、直線で詰まることが一番怖いため、自信がある馬に騎乗した時には、往々にして外を回す安全策を取るものだが。


(これはあれか? あちらさん的には4角外ぶん回せるほど差がないと見ているってことか?)


 幼駒時代の評価に違わぬデビュー戦の走りを見て。

 レース後、裕一は自分で考えて走っていたルドルフやオペラオーのような馬だとドングラスをこう評した。

 数々の名馬の背中を知る男にそうまで言わしめたドングラスを警戒しないわけにはいかなかった。

 ドングラスとアマノレナリス。

 どちらも賞金加算が絶対条件でも、この相手なら二着でもいいドングラス陣営と二着なら失敗に等しいアマノレナリス陣営とでは事情が異なる。

 勝って当然のレースなだけに、人一倍責任感が強い将雅の緊張がプレッシャーとなってレナリスに伝わってしまっていた。



 スターターが発走台に上がり、赤旗を振って発走態勢に入るよう知らせると、東京競馬場にファンファーレが高らかに鳴り響く。


(だれが前を主張して、レナリスはどこにつけるのか……)


 一着狙いにしろ掲示板狙いにしろ、騎手全員が逃げ馬の数と強い馬がどう動くかを頭に入れて作戦を立ててくる。

 だから逃げ先行馬やレナリスの出方を見ながら位置取りができるのは、外枠で唯一良かった点と言えた。

 発走時刻が遅れるようなアクシデントもなく全馬ゲートイン完了──――サウジアラビアRCのスタートが切られた。

 14番枠から無駄のない動きでゲートを出ていく航。

 やろうと思えばハナを主張できたが、出たなりで急がず内の馬たちを見る。と、出遅れ最後方からになった馬が一頭。②アマノレナリスだ。


「っし!」


 いける。そう直感的に感じ取った航は、即座に一着狙いに切り替える。

 緩やかな下りを利用してぐんぐん前へ。

 リスクがあること承知でポジションを狙いに行く。


「む無茶だ。ここから好位を取るなんて……」


 裕一の顔が強張る。

 このクラスの戦いで道中無駄脚を使わされると、脚を無くして惨敗する可能性だってある。

 今度ばかりは自分の指示に従ってもらわねばならない。

 手綱をがっちり引いて。

 ⑭ドングラスを内に導こうとする裕一。


「中団から。中団で待機だドングラス。俺なら2着は取らせてあげることができるから」


 激しい先行争いが予想されるために。

 自分たちはポジション争いには加わらず、その一列後ろで機をうかがい、馬群を割って差す競馬をする。

 8枠に入った時点で、裕一は勝利よりも新馬教育を優先。

 内に入れて馬群を捌く競馬を経験させた上で2着以内を確保すると決めていた。

 これは航もレース直前までは実行しようとしていたことだ。何事も起きなければ裕一の思い描いた通りにレースを運べていただろう。

 だが――

 レナリスの出遅れがすべてを狂わせる。

 あくまでプラン通りに競馬を進めようとする裕一と勝機と見た航との間に決定的な亀裂が生じてしまった。



 サウジアラビアRCの1着賞金は3300万円。

 勝てば皐月賞出走のボーダーラインをクリア。

 2着ならもう一つどこか使って賞金を積み上げるか、トライアルレースで優先出走権を得るかしなければ、賞金不足で除外される可能性が出てくる。

 今はもう昨年末や年明けの重賞を勝っている有力どころが、クラシックの前哨戦となるトライアルレースで顔を揃えたりはしない。

 クラシックの主力候補と目される馬たちは、早々に賞金を加算し、皐月賞出走を決めた後は、従来よりも間隔をあけて本番へ向かう。

 これは裏を返せば、3月のレースを使って皐月賞の出走圏内にすべりこむような状態では、本番勝つことはおろか上位に食い込むことすら困難だという見方ができる。

 一着と二着。

 同じように収得賞金を加算できても、本番から逆算して余裕を持ったローテーションを組めるのと組めないのとでは天と地ほど差がある。

 皐月賞勝利の分水嶺ぶんすいれいに立った航は皐月賞の出走資格を賭けてアマノレナリスを倒し行く。


(せっかくレナリスが出遅れても、団子状態になっちゃ勝ち目は薄い。縦長の展開に持ち込まないと……)


 追走に脚を使った分、必ず最後の直線で脚色が鈍くなる。

 後続がなし崩し的に脚を使わされる展開こそが、スタートで躓いたレナリスにとって最も嫌な展開に他ならない。

 好スタートを切っていったのは4番のアブソルート。

 外の方から⑧サムライレッドが並びかける。さらには⑫イセヤフォーマが押して先頭に立つ勢いだ。

 15頭立てで先行争い激化は避けられない中、外からじわっと内に切れ込みながら、ハナを奪いにいこうかという構えを見せる航。

 前走と同じように駆け引きをして、こちらの望む展開にしようと思ったところで裕一が待ったをかける。


「おい何やってんだ深永!」


 深永裕一という騎手は感性に秀でたジョッキーではない。

 一瞬の閃きを頼みとすることができないため、想定外の動きがあった時にはどうしても脆さが出てしまい、結果的に当たり障りのない騎乗が多くなる。航が裕一のことを公務員騎乗だと言った理由がこの辺りにある。


「一発勝負に出るとこじゃねーか! 千載一遇のチャンスをみすみす逃すつもりか?!」


 東京芝1600mはバックストレッチをフルに使うワンターンコース。

 最初のコーナーまで約540mと直線区間は長いが、先行争いが長引くと息の入らぬ内にコーナーに突入するはめになる。

 3コーナー進出までにできるだけ早く隊列を縦の形にして、内めに進路を取らなければ、逆に航の方が不利な状況に陥ってしまう。

 事は一刻を争うというのに。

 裕一は積極策を許さない。序盤で脚を使わせまいと全力を以って抑え込みにかかった。


「先のことを考えて、ここは我慢するんだ……」


 一旦6、7番手の位置までポジションを下げるも、怒ったドングラスがハミを取って動こうとする。


「頼む! 頼むから言うことをきいてくれ! ドングラス!!」


 しかし、航は聞く耳を持たない。


「どれだけヘマしても、周りがお膳立てしてくれて次がいくらでもあるお前と違って、こちとら勝てませんでしたじゃすまねーんだよ!!」


 勝てる時に勝っておかなければ悲惨なことになる。

 ウオッカを筆頭に強豪ひしめくジャパンカップで番狂わせを演じたスクリーンヒーローが第二の馬生を送れている一方で、現役時に同じくらい総賞金を稼いだスーパーホーネットは無情にも用途変更後行方不明になってしまった。

 両者の運命を分けたものはただ一つ――GⅠを勝っているか否かだ。

 前者は勝てるチャンスをしっかりとものにし、後者は取りこぼした。


「結果がついてこなかったらどうするんだ! 心中する気のないやつがいっちょ前に指示を出すな!」


 ダメなら乗り捨てて、新たに用意された馬に乗ればいい裕一とは違う。

 自分はこの身一つで成り上がるしかない。

 次がある保証がない以上は、勝利を最優先に考える。

 ――先のことを考えて。

 理屈は正しくても、それを選択することができないことは世の中にはたくさんある。

 裕一がどれだけ叫ぼうと。

 デビュー以来安全圏にいる人間の言葉が航に届くことはなかった。

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