第2章 サウザーファーム牧場編
第14話 新天地
北海道苫小牧市美沢。
新千歳空港から程近くにある調教専門牧場。関係者以外立ち入ることが許されない場所に、航は足を踏み入れる。
(ここがサウザーファーム空港牧場)
400haの敷地に、500を数える馬房、屋内・屋外合わせて5つの調教コースを備えた、とてつもない規模の巨大牧場を目の当たりにし、思わず息を呑んだ。
広い広いと聞いてはいたが、航の想像をはるかに超えていた。
全景を一目で見ることは難しく、車でなければ施設間の移動に苦労すると言うのだから、もはや乾いた笑いしか出てこない。
「ついに来たなどんべえ」
気圧されっぱなしの航に、八肋が景気づけるように言った。
「尻込みなんてするんじゃねえぞ。ここのボス馬になるくらいの気持ちでいけ!」
「ボ、ボス!? 外様の俺が?」
「あの吉野正巳が直々にスカウトした馬なんだ。お前は。期待に応えねえでどうする」
千場スタッドの幼駒をサウザーが育成するなんて異例中の異例だ。
無理を押し通してまで連れて来た馬が冴えないとわかれば、正巳の顔に泥を塗ることになる。
「……ふっ、わかりました。サウザーの坊ちゃん、お嬢ちゃん方に社会の厳しさを叩き込んでやりますよ」
暗黒微笑を浮かべる航。
いずれ自分の前に立ちはだかる強敵ならば――
デビュー前に、ガツンとやって、苦手意識を植えつけてやろうとあくどいことを企む。
「待ってろよサウザー」
鼻息を荒くして、サウザー産馬が集まる育成施設をじっと睨んだ。
目指すはクラシックの頂ただ一つ。
誰にも譲れぬ想いを胸に秘め、牧草の香りが漂う舗道を、高らかな足音をたて進んでいくと、
「お?」
C‐1と名称が記された厩舎から青鹿毛の育成馬が出てきた。
(こりゃいい、あいさつ代わりに威嚇してやるか!)
カモを見つけたと、航は胸中でほくそ笑む。
さっそくビビらせるために、威勢よくガンをつけようとした矢先。
「ん? んん?」
よくよく見れば、この青鹿毛馬かなりでかい。
筋肉隆々で同世代とはかけ離れた逞しい体つきをしている。
そんな全身筋肉の塊みたいな大型馬が、頭を上げて堂々とこちらに近づいてくる。
(やっべ!!)
喧嘩を売ってはいけない相手だと瞬時に理解した航は、急いで対象から視線を外し、あさっての方を向いて目を合わせないようにした。
素通りしてくれと祈りながら、いかつい顔をした青鹿毛馬が通り過ぎるのを待つ。
(な、なんだこの筋肉量……。こいつ本当に航と同じ1歳馬か?)
八肋が愕然とした表情をする。
トモと馬格の良さが際立つ育成馬に視線が釘付けになっていた。
「ありゃ骨格からして日本の馬じゃねえ」
そんな台詞が八肋の口から飛び出す。
わざわざ海外にまで種付けに行ったか、あるいはキングカメハメハの母マンファスのように受胎している状態の繁殖牝馬を輸入したか。
いずれにせよ、日本でデビューをさせる気でいる以上、日本の高速馬場にも対応可能だと考えられる血統と見ていいだろう。
(このレベルの馬が当たり前のようにいるサウザーファーム空港。これに
スケールの違いをまざまざと見せつけられても、八肋に一切臆する様子はない。
それどころか、さも愉快そうに唇を歪めた。
多少の混乱はありはしたが、育成厩舎までやってきた航。
これからJRAトレーニングセンターに入厩するまでの間、ここサウザーファーム空港・
獣医師・装蹄師立ち合いの元で馬体検査や体重測定をすませると、
「なるほど。乗り慣らしは一通りやってはいると」
「サウザーさんで
久保田が一点の曇りもなくそう答える。
だが、職員たちの反応は芳しくなく、哲弥も相手との温度差に言葉を濁す。
「……まあ1歳馬の騎乗馴致は3週間くらいは必要なので……」
「いや本当に本当ですって! マジで! マジで言ってますから! ホラとかじゃなく」
半信半疑で聞いてる哲弥に、久保田は猛然と詰め寄った。
航に抜きん出たものがあると気づかせたい一心でしつこく食い下がる。
「なら! せめて俺が帰った後、鞍をつけてもらえませんか! それでわかります――あいつが単なる凶暴な競走馬とは違うって!」
「……」
他ならぬ担当厩務員の言葉だ。
セリであのような仕打ちをされた本人が、そこまで言うのだから試してみる価値はあるかもしれない。
哲弥は借りてきた猫のようになっている栗毛馬の背中をそろりと撫で、
「わかりました。鞍だけとは言わず、私が背中に跨って確かめますよ。他のスタッフはやりたがらないでしょうしね」
と、自ら進んで乗り役を買って出た。
「おおぉぉ! よかったなぁあああ。厩舎長がテストしてくださるそうだ」
説得が功を奏し、歓喜に沸く久保田。喜色を浮かべた顔を航に近づけてくる。
「十把一絡げじゃないって実力を示すチャンスだぞ! がんばれっ。ファイトだ!」
久保田は名残惜しそうに航から離れると、最後に軽く手を上げ、厩舎を後にした。
「哲弥さん。どうします?」
「うん? どういう意味?」
「律儀に守らなくても、今日はもう馬房に入れちゃってもいいじゃないですか。危ないことをやる必要ないですって」
「普通はそうなんだろうけどね」
一から騎乗馴致を開始する気でいる育成スタッフの意見を退け、哲弥が含みのある言い方をする。
「――見てごらんよ。久保田さんがいなくても、そわそわしたりせず、じっとしてるでしょ。初めてここに来て、ここまで落ち着いてるのは僕見たことないからさ」
サウザーファームYearlingから移動してきた育成馬だって、まずは環境に慣れることから始める。なのに、サンリヨンの2018はまったく動じていない。とんでもなくバカなのか、大物なのかのどちらかだ。
「ま、全然ダメならダメで、あいつ騙されてやんのと笑い話のネタにでもしてよ」
哲弥が平然と言ってのける。
(ずいぶんと肝の据わった人だな)
馬は最初から鞍をつけ、騎乗できる生き物ではない。
体をタオルで軽く叩いて、触られるのに馴らすことから始まり、えりあげ、ハミ受け、背慣らし、騎乗というプロセスを経て、人を乗せることを学ばせる。
短期間で騎乗馴致を終えた航を、サウザースタッフが警戒するのは当然のことだった。
心配そうに見守る仕事仲間を尻目に、哲弥は手際よく馬具を装着していく。
「びっくりするほど大人しくしてましたね」
「尻っぱねしないし、これならいけるかな――よっと!」
確かな手応えを得た哲弥。声をかける間もなく、航の背に跨った。
「前進だ」
哲弥は騎乗姿勢をとり、古馬のように落ち着き払った若駒に指示を飛ばすと、通路をゆっくり歩かせた。
左右への回転や、発進と停止を何度か繰り返し、後期育成へのゴーサインを出すか出さないかの最終判断をする。
「うん。これなら騎乗運動に移行することができる。気性の方は僕が保障するよ」
終わってみれば、全くと言っていいほど問題がない。非常に扱いやすい馬だという意見で一致した。
「これほど賢い馬が人間を殺しかねないほど大暴れしただなんて、にわかには信じがたい話だ」
「セリ開始直前までは至って優等生。誰一人として気性難だと思ってなかったんだろ?」
「久保田さんも気の毒にな。癖馬だとあらかじめわかっていたなら、やりようがあったのに……」
解せないことだらけで首をひねる牧場スタッフら。
サンリヨンの2018がキチガイ馬認定されたことについて話に花を咲かせていると、若手スタッフの一人が会話に入ってきた。
「どうも金見オーナーのことを、わき目もふらずに見ていたらしいですよ。セリの最中ずっと」
それを聞いた瞬間――
和やかに話していたスタッフの顔が固まり、
「「「まさかね」」」
それぞれ顔を見合わせ、同時にそう呟いた。
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